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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

だるま市 前編

2023-01-14 23:46:02 | 民俗学

 だるまがどう手に入れられたか、ということに関してわたしの身近では「農協の初貯金」だったことについて触れたわけだが、「だるま市」と呼ばれるような市の存在もあった。このことは「“だるま”について 中編」でも記した。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「だるま」で紹介されている「だるま市」は16箇所。その中に「高遠だるま市」があり、県内では唯一である。このだるま市について『伊那市史現代編』(伊那市史編纂委員会 1982年 1258頁)には次のように記されている。

 高遠の達磨市 鉾持神社通称権現様の十四日市で、作神といわれ高遠領一の市がたち、種物の交換や蚕種の下付もあり、縁起物の達磨もあきなわれ百万両・千万両とよぶ商値のよび声に賑い、近在からは未明に参詣する者が多く、十四日市に行って来て年取りをする若い者たちも多かった(美篶・手良・富県・東春近・伊那)。終戦後二月十四日に変更され、現在は二月十一日の祝日に行うように定められ、参詣も遅くなっている。

 

 高遠領内一の市だった言われ、そこでだるまも扱われたといい、もともとはだるま市ではなかった。明治になってからだるま市と呼ばれるようになったわけであるが、昭和に至るまでここでいう「十四日市」という呼称は生きていたようで、このことについて向山雅重氏が昭和32年に発行された『伊那の谷』13号に次のように記している。なお、この引用文は向山雅重著作集『山国の生活誌』第4巻(昭和63年 新葉社)からのものである。

 

高遠の十四日市
 「高遠の十四日市に行かめえか」
 「うん、十四日市って何よ」
 「なあここから夜通し歩いて行って、お宮へおまいりして、お土産に達磨を買ってくるのよ」
 「そりゃ面白いら、行かめえ」
 ―こんなことで、出かける相談が定まった。その晩、小正月のお年取りをすませると、握飯をこしらえてもらって夜の十時頃集まる。高等小学二年生の男子ばかり数人。ここから歩いて伊那町までたっぷり二里、それから高遠までまた二里、それをぽつぽつ歩いて行こうというのである。綿入袢纏に、ネルの襟巻を頭からすぽっとかぶって、ふところ手をし、凍りついた道に下駄を鳴らしながら行く。いつも通る道も夜道となるとまた勝手が違って、立木が夜空ににうっとそびえて気味がわるかったりするが、また自分達の先方を歩いていく、やはり十四日市に行く人達の姿を見かけたりすると元気が出る。近づいてゆくと、若い衆が何やら元気に話しながらゆく。ふいと「キャッ」と言った若い女の叫びごえとともに、何かパッと光って消えた。―ハッとして立ちどまると、同行の背の小柄なGが暗がりをすっとぶようにこちらへ来た。「あはゝあ……」と笑って若い衆の一団は歩いて行く。」何だか訳がわからない自分にやっと事情がよめた。―親しそうに話しあって行く若い衆のうちの一人の娘さんの顔を、かくし持っていた懐中電燈で不意に照らしておどかし、すばやくにげてきたのである。そしてまたしばらく行くと、Gはまたその悪戯をくりかえす。―一体、何が面白いんだか自分にはわからない。皆が「あはははあ……」と笑ったりするのが腹立たしい程でもある。
 そんな事して歩いて、まだ夜も明けない頃鉾持神社についた。長い石の階を上っていくと、拝殿では神楽をあげていた。さてお詣りはすんだが、腹がへってきた。弱ったなあーと思っていると、「馬肉で飯を食っていくじゃあねえか」とGがいう。その「馬肉で飯を食う」という事がどういう意味かわからないまま後をつけていくと、紺のれんのさがった店さきへどんどんとはいって行く。「いらっしゃいませ」という少女の声に驚いてたじろいでいると、Gは先にどしどし上がって行く。その勢いにつられて皆がおずおずと上がる。そこにはもう小さいコンロをかこんでいる二組三組がいる。自分達は端の方へ小さく座ると、やがてコンロの火にかけられた小さい肉鍋が運ばれてきた。馬肉なんて全くはじめてだ。それに、気が弱くて難も兎も食べられなかった自分には手が出ない。何かぷんとにおう臭いがとてもかなわない。皆がうまそうに皿にとっている時、自分はただだまって握飯をかげにかくれるようにしてぼそぼそと食べていた。―とあわただしく女中さんが向こうから何かいゝながらとんできた。―焼けついて肉鍋からもうもうと煙が上っているのに驚いたのであった。
 ―やがてお土産に小さい達磨を買って、ぼつぼつ帰ったが、はじめての経験である馬肉というもののにおいや、あたりの雰囲気がいつまでも胸にこびりついて、いやな心持ちがした。それに電燈でパッと人の顔を照らしたりして、何が面白いんだろうか、などと考えながら歩いていた。―こんな祭りの晩に娘が女になったりする若者の世界のことなど、まだ夢にも知らない少年のこころであったのである。

 

 此さと、元より往来する人少く、ものひさぐ事もはかばかしからねば、常には田畑作る事を専とし、月の六日(四九ノ日と云)市の日を定め、在郷より出る人も多く、其日に用を足せしとなん。
 今も其のしるし残りて、正月十四日を初市と定め、此日在郷の男女、朝まだきより鉾もちの神にまうて、其年の豊ならん事を祈り、市中のものは此日黄昏より夜をかけ家毎おしなべて参話す。
 又、長たる者は前つかたより精進けっ斎して、表に注連を張、下向の折から門口に立てしめを取、内に入しとなん長たるものは礼服にて参れば箱ちょうちんをもたせしに、是も今は略して弓張となりぬ。
 此日、市神を祭とて、弥宜ミ子(神子)、本町と(上町と云)鉾持町(古へ町の惣名鉾持といゝ、ここを鉾持古町とは云)に出て、年の豊ならん事、又、市の栄へん事を祈る。此二処に出る事は、もと御制札は本町問屋の前に有しを、折々の火災によりて、今のほこち下口(難)口の間に引ゆえに、いにしへの御制札の場をもて祀所とするものか。いかにもよき仕くさとおもへり。
 又、夕暮に此処のねぎ事終り、鉾持の御神の広前にいたり、神楽を奏し、いと賑しく神をいさめけるが、近き頃はミ子というものなく、神楽の絶しハ、神慮ハいかがとおしき事にぞおもへる。神楽ハ神の代、うずめの命より始り、代々に絶ざる事とハ聞けり。

 

 これは、高遠町鉾持居住で町年寄、筆学の師匠であった池上邦雄―幼名吉兵衛、後に金左衛門、更に本左衛門。字は維馨、号は竜水、対山(天明六年―一七八六~安政三年―一八五六)が、「父母の物語せしことよりおのが見し」ことなど書き記した手記のうちの一節であるが、十四日市の起こりと、その幕末頃の様子とをよく記している。
 月の四と九が市の日であった昔のしるしが残って、正月十四日を初市とし、近郷の者は、朝あけぬうちから鉾持の神に請って、その年の豊作を祈る。町では市神の祭りというので、弥宜神子が本町と鉾町とで豊作と市の栄えを祈り、夜は社前で神楽を奏して神をなぐさめた―というのである。百姓の正月である小正月の祈念と、町住みの人の市神を祈る心とをあわせて、この十四日市が栄えたことがわかる。
 今は一月おくれの二月十四日、―つまり旧暦の正月十四日頃にあたるこの日をとって市の日としているが、心持ちは同じである。そして、この「五穀豊作」「蚕大当り」「商売繁昌」「家内安全」といった心持ちにあやかる縁起物としての達磨がこの十四日市にひさがれるようになって、いつか「だるま市」としての名が知られるようになったのであろう。
 「大当りだるま」「福入だるま」―その店が鉾持神社の門前の両側にずらりと十いくつもならぶ。いずれも戸板の上へ大小の達磨を盛り上げるほどにならべて元気のいい声をしている。その塗りの赤と金文字と、眉毛や髯の黒と、そしてまた大小さまざまな姿、それがあやしいまでに不恩議なコントラストを成して、更に景気を添える。
 「どうだ、大まけで二百万両としておくが……」
 「まあ百万両というところだな」
 「じゃあ、今日の縁起として、百五十万両といけ」
 何万両、何万金といったよび声までもにぎやかい。遠く上州から碓氷峠を越えてきた達磨もある。貨車へ二杯三杯と運ばれてきたものが大方売れてしまうというのだが、達磨の人気も大きい。「一日に二百万両(二百円)の達磨を十売れば、五百円の宿へ泊まってお銚子二本つけて、結構日当になるぜ」とは達磨売りの打ち明け話であるが、これだから、かさ高で扱い難くい荷をかかえても、遠くから達磨売りが集まってくるわけである。
 近年は、達磨のほかに、福あめや、小さい枝につけた飾り物までも縁起物として売られている。それに昔の市の名残りをそのまゝに、大道へ戸板をならべての露店がなかなか多く、大きい店も自分の店の前へやはり露店を出している。そして二階屋の庇の上に、各町内が出した飾り物―大きな人形を仕立てて、「鈴が森の幡随院長兵衛と白井権八」「石童丸」「浦島太郎」「絵島生島」さては「モンテンルパの唄」といったものが飾られて、町ゆく人の目をひいている。これも古い城下町高遠の面影の一つとしてゆかしい思いがするのである。

 

 かつての高遠だるま市の様子を、よく表している内容である。前半の部分は向山氏本人の経験値なのだろう。宮田から伊那町まで歩いて、さらにそこから高遠まで歩いていく。ちょうど宮だから4キロ余、ほぼ同じ距離で鉾持神社である。盛んに登場するGがガキ大将なら、記している本人が向山氏、そしてとてもまじめな性格であることがにじんでいる。馬肉の臭いがきつくて、持って行った握り飯を隠れるように口にした。何ともいい感じの表現である。「高等小学二年生」、いわゆる現在の中学2年生だ。すべてが真新しい世界を、祭りという場で体験していったわけである。もちろん今の子どもたちに皆無ではないこころもちだろうが、果たして…。


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