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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

野麦街道へ・前編

2016-05-25 23:37:54 | 歴史から学ぶ

 標高1400メートルを超えているのだから、涼しいのは当たり前なのだろう。ここから1.3キロほど山道を歩くと野麦峠になるという。

 以前「“文化財”からの地域づくり」で触れたのだが、松本市の策定する歴史文化基本構想の関連文化財群設定に先だった文化財の現地見学に参加した。その一つは県史跡に指定されている「野麦街道」を核とした関連文化財群を描いたもので、旧奈川村域に該当する。奈川は松本市域でも最も奥まったところに位置する地域で、集落は黒川渡と寄合渡というふたつの地域を中心に展開されている。野麦街道が県史跡に指定されたのは昭和59年、当時の奈川村を訪れた記憶はあるが、険しい道のりであるという印象が強かった。昭和60年時の国勢調査データによると、422世帯、人口1399人というが、現在は345世帯、人口755人と、人口はほぼ半減している。小学生が25名しかいないというから、下伊那郡の山間地域の村と状況は似ている。

 

長野県史跡「旧野麦街道」

 

 野麦街道は言うまでもなく飛騨と松本を結ぶ道。現在の入口は広くなっているが、途中まで管理道路として車が入れるようにしたため広げられているという。工女が通った、あるいは「ブリ街道」と言われるように、富山で捕れたブリがボッカに背負われて越えてきたとも言われ、交易上重要な道だった。

 

道祖神と石室

 

「南無観世音菩薩」碑を訳した「再建の記」(部分)

 

 旧野麦街道口から少し寄合渡に下った道端に石室が復元されている。昭和63年に当時の奈川村長の発案で造られたという。もともとは現在地に沿う道路反対側の川との間にあったという。本来の形はまったく異なるといい、現在の物は炭焼き釜を真似て造ったものらしい。最初の石室は壁は石で、屋根は木だったという。最初に石室を造ったのは黒川渡にあった庄屋の永嶋藤左エ門という人がいて、野麦峠道のこの界隈は冬場遭難する人が多かったことから、避難小屋を造れば助けられのではないかといって造ったという。その話を聞いた木曽藪原の極楽寺の和尚さんが美挙を讃えて文政8年(1825)に碑を建てたといい、復元された石室の横にそれはある。ところが何を書いてあるかは現在の碑からは読み難い。これを訳したものが昭和62年に横に建てられた。

 近くには交通安全を祈願した双体道祖神が建てられている。「改良記念」とあるから道路拡幅改良されたものを記念したものなのだろう。背面に「昭和六十二年十一月 奈川村村長嶋口儀久建之」とある。

続く


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