梓川のサービスエリアにトイレで立ち寄ったところ、「〇〇さんかな」と思う人に出会ったのだが、マスクをしていたので確実ではなく、声を掛けることができなかった。裏を返せば、わたしはマスクをしていなかったから、もし分かっていたら相手側が反応を示したはずなのだが、それがなかったということは、人違いか、あるいはわたしのことが分からなかった、ということになるのだろう。
先ごろ青森県むつ市において、窓口で市民に対応する職員に対し、あえてノーマスクを推進しているというニュースが流れた。その理由について、「マスクをしていると表情が見えづらく、市民に不快な印象を与えかねない」、「会話が聞き取りづらくなって、説明の内容がじゅうぶんに伝わらないおそれがある」というものらしい。賛否があるらしいが、冒頭の例のように、マスクをかけいる側と、そうでない側とでは、明らかに差が出る。あまり「人と会話をしたくない」と思えば、マスクをすることで抵抗感を相手に与える。もちろん冒頭の例のように、マスクをしている側の方が、世間に対して「第三者である」を意思表示しているにも見える。
先日もある会の席で、マスクをされている方が発言をしたのだが、何を行っているか聞き取れなかった。本人は普通に話しているつもりなのだろうが、相手には伝わらないのだ。
表情が分からないのも、していない側には抵抗感が生まれる。もちろん風邪の流行っている時期には、それがマナーとも受け取られるが、ちっとも親近感は生まれない。そもそも、こちらはオープン、あちらはクローズ、それでいてあちらは感づかない、人づき合いにこれほどの差が生じることを、マスクをしている側は気づくべき。