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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

縁切石

2023-04-23 23:04:18 | 民俗学

「蠶玉霊神」

 

今は、道にも雑木が生えている

 

石碑群を跨いで坂を上っていくと、道上に白い石が見えてくる

 

石碑群を跨いで坂を上り、振り返ると…

 

薬師坂の入口

 

 2010年2月3日に「結ぶ・切る⑤」と題した日記を記している。もう13年も前のことだ。そこで触れた「縁切石」がこの写真のもの。当時の日記には写真がなかったので、縁切石そのものの写真は載せていない。当時の日記の文末に「新道ができることをムラの人々が喜んだのかどうかは解らないが、庚申塔は大正年代のに建てられたものがあり、それを建てる時にこの坂を塞いだのか、それとも新道を造る際に塞いだのか、いずれにしても、この縁切石のある坂をムラの人々が意識していたことに違いはないようだ。」と記した。昭和40年代の初めに近くにお嫁に来られたという80歳近い女性に聞くと、新道はお嫁に来た際にはすでにできていたという。そして道を塞ぐように建てられている庚申塔などの石碑は、道を開く際に移転したのではないかという。

 今もなおかつての薬師坂の姿は残されている。石碑群を跨いでかつての薬師坂を上っていき、ひとつカーブを過ぎた山側の小高いところに「蠶玉霊神」は祀られている。横広のどっしりした石で、白さの目立つ花崗岩である。いまでこそ新緑のころということもあって日当たりがあるが、雑草が生い茂ってくると日当たりは少なくなり、さらには雑草で覆われてしまうのかもしれない。かつての薬師坂は幅にして4尺。もちろん車の通れるような道ではないが、かつてはこの道が天竜川の東側にある飯沼へ向かう幹線道路だった。飯沼のさらに奥には西丸尾や丸尾といった集落もあり、旧南向村への道だったわけである。

 女性によると、「この道は通らないように」と言われていたといい、通らなかったというが、石碑群はみるからに「通せんぼ」をしているように見える。この石碑群の脇の家には井戸が出ていて、かつては子どもたちが水を飲みに立ち寄ったという。南側の利生庵のあった場所にも湧水があったようで、段丘崖にあたるこのあたりは、湧水があったようだ。女性によると「蠶玉霊神」と刻まれているものの、蚕神様の祭りをしたようなことはなかったという。「通るな」と言われていたほどだから、忘れ去られることを望まれた神様なのかもしれない。


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