Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

祈りを忘れて

2008-09-09 19:32:51 | ひとから学ぶ
 盆月も終わった。どこか先祖へ回帰する雰囲気のある月ではあるが、生家を訪れてうっかり線香もあげずに帰路についてしまった。生家でもっとも最近の仏様でも、もう30年近く前のことだから、そんな失礼も少しくらい多めに見てもらおう。線香すら立てなかったくらいだから、このごろは墓地にも行ったこともない。もう10年くらい行っていないのかもしれない。もちろん家を出た者だからそんなものなのか、はたまたそんな罰当たりな人間はいないのか、よそのことを知らないからとんと常識は解らない。とはいえ、墓地に仏様がいるわけでもない。テレビドラマでよく墓地の前で亡くなった人に語りかけるシーンがあるが、果たしてこれが常識の世界なのか、それとも演出なのかもはっきりしない。自分のこんなさめた見方は易しさが足りないなどと言われるかもしれないが、そのくらいの気持ちでいなければ、この世の中悩みばかり、ストレスばかりとなる。かつて人の思っていること、考えていること、そして「自分をどう見ているのだろう」と気にばかりしていた自分とは大きく変わった。きっと「昔と変わらない」と思う友人も、また同僚も多いかもしれないが、会社での深い悩みの結果は、自分をずいぶんと強くしたものだ。外部の社会に対しては相変わらず言葉少なな自分も、会社ではずいぶんと強い姿勢を示す。きっと社会でギャフンとさせられるのだろうが、「こんなものさ」とさめたまなざしでクリアーできそうだ。

 車窓から墓地へ参る姿を何度も眺めた8月、仏様や神様といった祈りの世界を窓越しに流れる風景を送りながら考えた。日々は当然のように過ぎていく。何を悩んでいるのやも解らないまま、自分も世間も日々に終われながらも、どこか祈る姿がある。しかし、けして祈るのは辞めようと決断したわけでもないのに、自ら祈り、神頼みというものをしなくなった。人に言わせれば、それは悩みがないということなのかもしれないが、そうではないと思う。祈ろうがどうしようが、自ら解決しなければどうにも前進しないことが解っているからだ。とはいえ、必ず自らの努力が報われるというものでもない。オリンピックではないが、努力をしても初戦敗退、あるいはもうすぐ100番などという順位で終わることもある。それをもって努力不足と一言では片付けられない。努力すれば必ず報われるというのは、何をもって成果と考えるか、ということにつながる。結局は自らの意識の中での目標ということになるが、ではその目標を誰もが認めてくれるというものでもない。オリンピック2連覇、とかメダル獲得などと沸くさなかで、渦中にいる人にとっては明らかに目標達成となるのかもしれない。

 わたしが世の中にさめ(さめているわけではないが、そう言われる)、また祈りを忘れてしまった背景には、報われない努力というものがあるのだろう。確かに努力すればそれなりの評価もあるだろうが、アピールの度合いというものもある。数字や成果だけで判断すれば、アピールは必要である。しかし、そうした見方をすれば、報われない人々も生じる。果たしてそれをどう見るかということになる。わたしの「しごと」はそんな報われない時代において地域は、人は何を思っているのだろう、と考えることだと思っている。アピールせずとも、自らは表現できるか、そして理解してもらうことができるのか、その答えはすぐでなくてもよい。

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