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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

笠子の〝赤地蔵〟(石仏に彩色するということ[29])

2016-11-17 23:59:59 | 民俗学

石仏に彩色するということ[28]より

 

 旧信州新町(現長野市)の新町の東町はずれから西に向かって谷がある。太田川(「おおた」と読むのだろうと思っていたら「だいた」と言うらしい)という川が形成した谷であるが、谷を遡って峠を超えると小川村へ至る県道を進むと、笠子という集落に至るが、その集落の手前の山の斜面に「赤地蔵尊」と看板の掲げられたお地蔵さんが安置されている。真っ赤というか朱の色に覆われたお地蔵さんはとくに目立つから、車で小川村に向かって走れば、目に飛び込む。長野市近辺には同様に朱に塗られたお地蔵さんや観音さんをよく目にすることがある。この地域の特徴とも言える。

 『信州の石仏』北信編(長野県民俗の会 2000年)に信州新町の赤地蔵の例が掲載されている。「学校道にあった赤地蔵」というもので、その中に「信州新町には赤地蔵は二体。田中の県道沿いにあるものと、蟻ノ尾のものがある」書かれている。実はここで紹介する赤地蔵はこのどちらでもない。ようは信州新町には赤地蔵がそれ以上にあるということになる。同書で紹介されている学校道の赤地蔵(田中)について、「何の信仰にもとづいて、赤地蔵がつくられたか村人は知らない」とある。笠子の道上にある赤地蔵も田中のもの同様にそのいわれについて伝承は残っていない。赤地蔵近くで働いていた昭和11年生まれの男性は、昔から赤く塗られていたが、その意味も、またお地蔵さんが何を叶えてくれるかも具体的に教わらなかったという。木の祠があったが、雨で脚が腐っていたこともあって、台風の際に壊れてしまったことがあるという。そこで公民館にお地蔵さんを移してしばらく安置していたというが、ここにあったお地蔵さんに道を通る人でお参りするひとがあったようで、公民館に置いておいてはお参りできないだろうと、元の場所に木祠を再建して安置することにしたという。脚が腐らないようにヒューム管4本を脚として土台を作って、その上に木祠を載せたのが今の祠である。看板もかつては墨で書かれていたが、年が経つと消えてしまうため、白ペンキで書いたという。本体にくらべると大きめな蓮座は違和感があるので、もともとセットで造られたものか疑問がわくが、いずれにも同じ朱が塗られていて、同時期に施された色と思われる。お地蔵さんそのものはとても稚拙な彫りで、素人が彫ったようなお地蔵さんだが、それだけに愛着があるかもしれない。右膝のあたりが欠損していてその欠損部も朱に塗られているから、現在の色は欠けたあとに施されたものということになる。男性によると知り得る限りで色を塗ったということは知らないというから、ずいぶん昔から今の状態だったようだ。ここに再建して以降も、ここをお参りする他村のひとがときおりあるようで、子どもを連れた女性がお参りする姿も見たことがあるという。お参りするひとがあるからと、再建された際に賽銭箱を用意したが、最初は置いたままの賽銭箱だったという。ところがその賽銭箱が盗まれ、次は床にボルトで締めて置いたというが、それでも引きちぎって盗んでいくひとがあったという。そのたびに工夫して賽銭箱を置いたというが、盗まれたことは何度もあるという。中にはせいぜい100円とか200円ほどしか入っていないというが、それでも盗んでいくようだ。賽銭箱を置かないという選択肢もあったようだが、やはりお参りに来たひとたちにとってみれば賽銭箱があった方が良いだろうというのが結論のようだ。かつては20戸ほどあったという笠子も、今は10戸ほどになってしまったという。その笠子の人たちによって祀られているが、男性も子どものころ病になったとき、親に連れられてお参りに行ったことがあるという。何ということはないいろいろな病を治癒してくれる意図があったようだ。男性によれば、親もお地蔵さんのいわれを言わなかったところを見ると、自分と同じように赤地蔵の意味は知らなかったのではないだろうかと言う。

 『信州新町の石造文化財』(信州新町教育委員会 平成元年)に「赤地蔵」のことが僅かに書かれている。「赤地蔵は、ぐわい(ママ)の悪い所のある人は、地蔵様のその部分に朱を塗って拝むとなおるといわれている」と。ここの赤地蔵はすべて朱に塗られているから、祈願者が塗ったものではないだろう。稚拙ながらその稚拙な顔立ちが、願いを叶えるべく悲痛な表情をしているようにも思え、篤い信仰をもたらせているように思う。

続く


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