Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

自給と食のイデオロギー

2009-02-12 12:25:15 | 民俗学
 「百姓が野菜を買うなんて恥だ」という話者の言葉に小さな衝撃を受けたという古家晴美氏は「自給と食のイデオロギー」(『日本の民俗4 食と農』2009/1 吉川弘文館)において、「自給」について解く。それほどその自給を事細かに解かなくとも良いとは思うのだが、きっと農業を捉えるにあたって、自給とは何かを自らの、そして読者に対してもはっきりとさせておかないといけないと考えてのことなのだろう。しかし古家氏の捉えるものすべてが「自給」というものなのかどうかについては納得いかない部分も少なからずある。

 例えば商品作物としての野菜に対して個人が家庭菜園などで作る自給的な野菜を「自給野菜」としている。簡単に言えば市場に出回らないものと出回ったものとの対比となる。採算性のないものが自給野菜というのもおかしな話であるし、また趣味的な栽培と農家が自らの自給のために栽培するものとは明らかに違うと思うのだが、どうもそのあたりが混同されている。『日本の民俗4 食と農』そのものがどことなく現代の家庭菜園とか、あるいはサラリーマン農業を前提にして捉えているからこういうことになるのだろうが、視点としてあって不思議ではないものであるが、「食と農」というタイトルの背景にするにはどこか視点が違う。これは多様な農村の姿を網羅していないせいかもしれないし、また新たな動きを意識しすぎているせいではないだろうか。これでは農家はますます自らの内で自給することはかなわなくなる。冒頭の農家の言葉は誰しもが思ったものではない。とくに近代化する中では、高付加価値な商品を栽培するために自家用の野菜は作らない人たちも増えた。それはとくに米に依存していなかった地域に顕著である。わたしの身のまわりでも果樹栽培に特化していったのは、水田が乏しかったせいである。そうした地域では自給という考えよりも換金作物で銭を稼ぐという意識が強かったといえる。そうした地域はそれぞれの地域ごと特色をもって多く存在することだろう。ところが水田の多い地域では野菜も作り、自給的な生活を展開していたことだろう。そしてその境目は明確ではない。妻の実家では明かに水田の面積は平地農村に比較すれば少ない。結局水田での収益が平らなところより少ないから、面積が少なくとも多種多様な野菜ができる土地を有効に利用した。もちろん山のものも利用される。平地から山間に向かうにあたり、その境界域は明確ではない。それを家庭菜園的な世界と混同してしまうと、違和感があるのは当たり前である。自給作物は必要最小限の投薬で安全性を優先するという考えはかつてのこうした自給的農家にはあまりなかった考えである。もちろんその時代には科学肥料にしても農薬にしても高価で手に入らないということもあった。今の無農薬の意識による低農薬農法と、かつての農法には明かに違いがある。

 そうしたかつての農家の事例と家庭菜園を作る非農家の事例を絡めてしまうのはどうなのだろうか。古家氏が冒頭の言葉の後日談を紹介してこの章をまとめている。「この言葉を聞いてから、10年後に再び、詳細な調査をおこなった。氏も少しずつ体力の衰えを感じ始めたが、10年間で栽培を中止した作物の数の方が全体的に多い。直売所で100円で売られているキャベツを見ると、57円の苗を買ってきて手間隙かけて育てるのはばかばかしい、という」。これは自給ではなく市場に出して金銭を稼ごうという市場原理と確かに関係することである。盛んにこの「市場原理」という言葉を多用しているが、そもそも主たるものは米、そして他のものでも足しにしようとして、さまざまな野菜作りに展開していく。これは米中心地帯というよりも畑も目立つ地域と言えるだろう。さらに転作奨励によって水田地帯で米を作れなくなると、いわゆる古家氏のいうところの市場原理の世界に足を踏み込むことになる。しかし、農産物は年によって異なるし、収穫できる時期によっても環境は変わってくる。さらに市場ニーズもあって、すぐに対応できるものも少なからずあるが、おおかたは天候頼みであってそこそこの時間を要す。さらにはその地域の風土によって出来ばえは変わってくる。例えばある地域で無農薬でものになった野菜が、他の地で同じ方法で無農薬でできるとは限らない。まさに風土によって特徴があるといえる。これを個人の裁量だけで成果をあげていくというのは簡単なものではない。それらを認識した上で、農家はその年の出来ばえに期待するわけである。もちろん工業製品も同様なのだろうから、だからこそ市場原理といえるのだろうが、こうした環境は、農民に落胆を与えてきたことも事実である。

 そして古家氏の捉える後述談である。直売所などに安い野菜が並んでいると、自分の作ったものはいったいなんだったのかと落胆する。農協に出せば経費をたくさん取られる。直売所に参加すれば、低価格で売らざるを得ない。こうして多くの個人農家は落胆を隠せず、農業を見捨てることになった。そもそも自給とは何かということになるだろう。農民にとって身体を動かしたことにより日当がいくらという意識は、かつてはそれほどなかったはずだ。でなければ、果樹園の下の雑草むしったり、神々へ祈ることもなかっただろう。ようは自らが働くことは、食べられさえすればそれが自給なのである。それを例えば家庭菜園のような趣味的な時間を無賃として見たとしても、それと同等に農家の自給を捉えることは無理がある。地方ではともかくとして都市部周辺の家庭菜園と農家との関係はそういうことになっているのかもしれない。それでも収支バランスを取るだけの環境があるともいえる。しかし、都会から離れた農村で同じことは不可能である。「好意的な視線」で語られている「農」と「自給」とわたしは古家氏の言葉から読み取る。

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