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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

清水坂のお不動様 前編

2021-01-26 23:51:47 | 信州・信濃・長野県

清水坂のお不動様(1月26日撮影)

 

 飯島町飯島の中心街であるマチの中へ導水する用水路は「旧井」と言われている。「旧」と名づけられているから使われていないというわけではない。飯島の下在の水田地帯を潤す幹線的用水路である。古い時代から開削されていたことからこの長がつけられているようだ。天明6年の石曽根村・飯島町絵図にも描かれており、飯島代官所をはじめとする町場の生活用水としても利用されていたと思われる。『飯島町誌中巻』(平成8年)には「宿場用水とした」と記されている。開削されたのは文禄2年(1593)ころだったという。この旧井は、与田切川から導水しており、谷の底から段丘上まで揚げている。もちろん自然流下であり、取水後段丘崖を約1.5キロほど導水すると宿場町へと入っていく。その間等高線沿いに山腹水路として導水されており、ようやく段丘上の水田に掛かり始める直前に余水吐けにあたる「落とし」が設置されている。ようは旧井から与田切川に戻すように、段丘崖を一気に下る余水吐けが設けられているのである。ここまでの段丘崖に沿う水路は、前掲書にも「難所」であったと記され、文化3年の「御普請麁絵図」には「井蓋」を掛けた場所が4箇所あったと記されているという。さらに「崖下側には井縁を築き立て、石積、枠組等で崩落を防いでいる」とある。今もなお、こうした山腹水路の崩落箇所には、同様の施設が設置されることが多い。それでもなおかつ崩落著しいと、隧道化となるわけである。旧井には隧道がないだけに、まだ難所は序の口だったと言える。

 この落しをかつて旧井落しと聞いたことがあったが、この落しの東側をかつて清水坂と言われ、祀られているお不動様の祭りはたいそう賑わったという。このお不動様のことを『長野県中・南部の石造物』(2015年 長野県民俗の会)に記したことがある。


清水坂のお不動様

 国道153号線与田切川橋の北側の段丘上に松林があり、そこの巨岩の上に清水坂のお不動様がまつられている。中町の宮下家が祀ったものといわれ、もとは現在より東の骨曲がりにあったようである。かつては地元の豊岡地区の人たちが協賛して、4月28日に祭りが行われていたもので、行者様が護摩を焚き、法螺貝を吹き鳴らし、印を結んで呪文を唱えたという。ちょうど桜の咲くころで、東側の道添いの桜の木の下で酒宴の席が設けられていたといい、近所の家々でも座敷の障子を開けて、来客や通る人を呼んでもてなす風景があった。また、露店がいくつも並び、相撲や弓が行われたという。近在に知られた祭りであったが、昭和30年以降急にすたれてしまい、現在では祭りらしい祭りも行われていない。
 昭和17年に豊岡に嫁にきたという片桐さとさんは、近年何回かお不動様に剣を奉納している。いずれも体に具合の悪いところがあったため奉納したもので、奉納するときは背丈の剣を作るものだという。祭りが行われなくなってからは、管理する人もなく、近くの有志で掃除などをしてきた。お参りができる時はできる限り来るようにしており、時には掃除を心がけるという。現在では清水坂のお不動様といっても知らない人が多くなってしまったが、こうした人々によってお不動様は守られている。


 わたしはここに「松林」と書いたが、現在は杉の木に覆われているから間違いだったかもしれない。発行されたのは2015年だが、話を聞いたのはさかのぼること20年以上前のことだ。ということで、例のごとく仕事でこの脇を歩いた。久しぶりにお不動様を拝顔したわけであるが、話を聞いたあとにも何度か訪れていたが、そのたびに「剣」がお不動様のところに奉納されている光景を見た。ところが、今はその跡方もない。ようはもうここに剣を奉納するような方はいないということになるのだろう。

続く


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