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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

善福寺三十三観音 後編

2022-09-02 23:40:01 | 地域から学ぶ

善福寺三十三観音 中編より

 

 何といっても三十三観音中最高傑作と言えるのはこの十一番准胝観音だろう。この山域に巨石があることは前編で触れた。この准胝観音も巨石の上に安置されている。そして巨石と准胝観音を固定するために細工された台座がなんとも言えない。まるで聖火台の上にそれは載せられている。台座の細工が細かく特徴的な作品が守屋貞治の石仏の中にいくつかある。よく似たものとして高遠町建福寺西国三十三観世音の中のやはり十一番の准胝観音である。左右に八大龍王のうちの二竜王が蓮華座を支えるように両手で持ち上げている姿は、この善福寺准胝観音の台座以上に見事な細工である。とはいえ、野天に座す善福寺准胝観音は「あっ」と言わせるような作品。守屋貞治の石仏を最初に世に知らしめた春日太郎氏も「貞治仏代表傑作10体のひとつにこの准胝観音をあげている。

 背面に「施主 羽場 小町谷吉英」と刻まれており、貞治が遺した『石仏菩薩細工』には、「准胝観世音菩薩 大久保禅福寺 願主羽場 小町谷氏」と記されているもの。施主の小町谷吉英は、江戸時代の歌人で、宝暦7年(1757)上穂村に生まれた。寛政から文化の初年にかけて伊那南部における歌人して知られた人で、阪本天山や千丈禅師、中村伯先といった文人と交流があった。文化8年に55歳で亡くなったという(春日太郎『石仏師 守屋貞治』222頁)。

 年銘がなく正確な造立年はわからないが、十八番の如意輪観音と同じころのものと考えられている。とすると貞治42歳ころのものとなり、傑作と言われている貞治仏の中でも初期のものと言える。なお、准胝観音の作品は貞治には幾例もあり、いずれも傑出した作風を見せていることは言うまでもなく、貞治得意の観音ともいえる。

終わり


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