Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

知事選に向けて

2006-06-07 08:10:15 | ひとから学ぶ
 長野市近郊へ出た際の地元の人たちとの会話である。「(わたしが南信の者だと知って)松本より南は、田中が強いからな」、そして「うちの村は前回の選挙で田中より反田中票の方が多かったから・・・」という。長野県知事選挙が近くなったなかでの、山間地で語られた言葉である。わたしには意外な言葉であった。田中康夫の対抗馬は飯田在住の人だったのに遥か北の、それもこんな山の中の村が反田中票の方が多かったというからだ。当時の選挙のイメージは、はなから田中康夫が有利だというのが率直な感想だった。それは対抗馬が必ずしも対抗して立候補するだけの人材ではなかったからだ。それをよく表しているのが、対抗馬であった人の地元での得票数である。地元の飯田市ですら得票率では田中62パーセントに対して35パーセントしか得票できていないのだ。周辺の下伊那郡においても55対42パーセントと田中票の方が多かったのである。

 ちなみに2002年の県知事選挙において、田中康夫より対抗馬の方が得票した市町村は、全120市町村のうち21町村だった。驚くほどのことでもないかもしれないが、21町村すべてが一万人弱という弱小町村なのである。いっぽう対抗馬に対して、田中が2倍以上得票した市町村は、37市町村あった。この選挙の際に、すでに木曽谷右岸道路の計画が知事の口からOKが出ていたかどうか確認してないが、山間部においては木曽谷に集中的にこの2倍以上得票町村が見受けられるが(木曽郡内11町村のうち開田村1村以外はすべて)、それ以外の地域で圧倒的得票をした市町村は、人口が多い、あるいは特殊な産業地域、農業よりも他産業に力を入れている市町村がほとんどである。ここから何が言えるかといえば、いわゆるサラリーマンの多い地域においては、田中康夫支持が強かったということになる。いまや山間部でもサラリーマンが多いから単純にそういえない部分はあるが、いずれにしても「山間部」、あるいは「農業地域」には受け入れられていなかった知事であったことは確かである。それはそうした地域や農業を大事にしない施策があったからだ。

 先ほどの長野市近郊の会話をした村の得票数を確認したところ、それは間違いで田中票の方が少しではあるが多かった。しかし、長野市近郊では合併して町村数が減っているが、当時の周辺町村の得票数をみると、確かに対抗馬の方が得票数が多い町村が多いし、そうでない町村でも対抗馬は善戦している。いかに長野市近郊に対して冷たかったのかということがわかる。それが後の泰阜村住民票問題へつながる。ところが、田中県政を評価している首長がいる泰阜村や下條村は、意外にも反田中票の方が多かったのである。とくに泰阜村にいたっては、田中票の2倍近い得票を対抗馬が得ているのである。きっとこの住民票問題が話題になったころ、村の人たちは複雑な思いであったに違いない。

 圧倒的に田中が得票した地域をみれば、諏訪のように工業化地域はもちろん、長野市や松本市といった県内の大都市はすべて田中が2倍以上の得票をしている。加えて安曇野のようによその人たちがたくさん入ってきているような地域でも同様である。地域性というよりもそこに住む人たちの生活程度や、就労形態が実によく表れている結果だったといってよい。都市圏での選挙を思わせるような結果であったのである。そんなイメージからうかがえば、冒頭の山間地での言葉から、南の方は田中の得票数が多かった、という印象が残るだろう。長野市は別世界であって、そんなマチ場とはなかなか合わないという気持ちも湧いてくるだろう。

 さて、なかなか今度の知事選に向けた対抗馬の顔が見えてこない。どんなに田中の支持率が下がったとしても、サラリーマン化した地域ほど得票するという前回の姿を分析すれば、人口集中地域においてはよほどの人が立たない以上田中康夫以上の得票は不可能だ。とすれば三度知事になるのは解っている。しかしながら、このまま山間地や農業が見捨てられていってよいものかと誰しも思っているはずだ。このままでは「田中県政」を期に、この県は立ち直れなくなること必死である。

コメント    この記事についてブログを書く
« 〝ムラ〟について | トップ | 石合戦 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事