Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

宿帳から

2008-09-08 12:37:12 | 歴史から学ぶ
 『伊那』において大原千和喜氏は、「あきはみちに寄せる人々の心」と題して連載を投稿している。「鈴木屋の宿帳を通して」は、この9月で5回めを数える。鈴木屋は旧水窪町に現在もある旅館である。大原氏の秋葉街道にかかわるかつての宿帳を中心にした報告は、以前より興味深く関心を寄せていた。大原氏も触れているが、宿帳に住所や年齢が記録されているのは昔の話で、個人情報保護が言われるようになってからは、かつてのような宿帳が存在することはなくなった。大原氏は、佐久間ダム建設に伴って飯田線が水窪町へ迂回することになった昭和30年前後の迂回工事期間の宿帳に焦点をあてている。そこから当時の世相が読み取れる。時代背景として戦後の経済成長へ向かう前段であること、そしてたまたま飯田線迂回工事という関係者による人口増、そうした変化の中で、宿に宿泊した人たちがどう変化していったかが、その短期間に見て取れる。衣料関係、家具関係、小間物、食品関係、医療関係、文具類の商売人、そして今回娯楽の盛況に触れている。

 「ラジオ」について、娯楽外の項目で紹介されているが、これも娯楽の一部といえるだろう。とくに娯楽という部分では人口増という環境で大きな変化を見せていく。このころ個人持ちのラジオが普及し始めたといい、「日本放送協会の第Ⅰ、第Ⅱに加え、「短波放送」がラジオ商の売り込みことばの極め手であった」という(その四-2007.11『伊那』)。こうしたラジオ商と言われる人たちは、浜松からやってきた。

 ラジオは飯田線迂回工事とはそれほど関係なく入ってきたものだろうが、興行的娯楽は、明らかに人のいる場所へやってくるものである。人口増とはいうもののこの時代は娯楽に対して展開の激しい時代だったともいえるのかもしれない。宿帳でみるこうした娯楽関係の人たちをあげている。①「ナトコ映画」の名称に代表される巡回映画と技師の宿泊、②芝居人気と役者と力士の宿泊、③東京大相撲の巡業公演と力士の宿泊、④歌謡、踊りなどの興行と出演者の宿泊、⑤「パチンコ」の流入と盛況、⑥占い師、⑦在から来た見物衆の宿泊である。明治から昭和一桁に生まれた人たちに農村で聞き取りを行うと、「映画」というものが必ず娯楽の中に登場する。そこそこの町なら必ず映画館というものがあった。わたしが始めて映画を見たのも、赤穂町の映画館に行って見たのが最初のように思う、。もちろん「そこそこの町」と表現するように、当時はそこそこあった映画館も、今ではほとんど姿を消した。人口5万以下の町ではほとんど姿を見ないだろう。巡回映画というものも多かった。その手のものとも異なるのだろうが、かつては学校で映画を上映するとすれば、専門の人がやってきたのだろう。「学校で映画」なんていうのは、本当に過去のものといえる。娯楽を聞き取る際に、そんな映画の話が出るのだが、わたしたちは「かつて」とくくってしまっている。しかし、わたしもその姿を想像して共感してしまうが、それは一時の時代背景のような気もする。正式な年代を表記することで、よりいっそう世相のようなのが具体的にイメージできるわけで、変化の著しかったものを扱う際には、年代を明確にすることは必要なのだろう。

 新たな刺激を看板とする興行も流行る。「浪曲や芝居、歌謡だけではなく、舞台上で踊りはねる「舞踊ショー」や「ヌードショー」が昭和三十年前後に見られたというのは一つの驚きでもある」という。ヌードショーが世の中に登場したのは昭和22年の1月、新宿の帝都座であるという。当時は舞台上の額縁の中で裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけだったが、観客が殺到したという。それから8年後のヌードショーがどういうものだったかは定かではないが、時代は地方でもしっかりと動いていたわけである。

 こうした興行のために在からやってくる若者がいて、宿泊したというのも興味深い。そして宿帳に、「門桁青年会 農 ○○他男8名 女5名」とあるように男女が集団でやってきたところも興味深い。わたしの生年とそれほど変わらない時代だけに、共感が持てるとともに、わたしも時代変化の著しいなかで育ったことをあたらめて認識するわけである。現在ではほとんど宿と宿泊者は無縁な世界である。もちろんそれを聞きたいと思う人、言いたいと思う人もいるのだろうし、そうした関係を築いている人たちもいるのだろうが、宿帳という世界に、いろいろなものが見えていて、加えてそうした記しが泊める側と泊めてもらう側をどこかで結んでいたようにも思うのだ。

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