Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「行ってらっしゃい」

2008-03-13 12:40:29 | ひとから学ぶ
 「暮らしの中の日本語」(信濃毎日新聞3/12)において、尾崎善光氏(国立国語研究所主任研究員)はこんなことを言っている。〝「行ってらっしゃい!」と言われたら、皆さんは何と答えるでしょうか〟と。これだけではどういう場面かわかりづらいので、尾崎氏のいう具体的な場面を持ち出すとこうである。「以前通勤に、最寄り駅まで自転車を使っていましたが、有人の駐輪場に自転車を止めてそこから出て行くと、係の方がどの人も「行ってらっしゃい!」と声をかけてくれます。特に知り合いというわけではありません。そう声をかけられて、どう答えたものかと、いつもちゅうちょしました。」というのである。ようは見ず知らずの人に「いってらっしゃい」と声を掛けられると迷いが生じるというものである。そして、この場合の返答として、「行ってきます」は使いにくいともいう。

 この方。都会での話しをされているのだろうが、わたしが毎日駅までの道で、見ず知らずの人にこちらから「おはようございます」と挨拶をすると、もちろんのように「いってらっしゃい」という返答をいただく。毎日同じ道を、相手にとっては同じ人が通っていれば、最初は見ず知らずなのだろうが、いずれ「顔見知り」となる。その場合に相手が具体的にどういう人と言うことは解らなくても、まったくの他人というわけではなくなってくるだろう。誰でも最初は見ず知らずの相手なのだから。

 地方では、そして狭い範囲であれば、一度だけ会ってさよならということなく、またどこかで会う可能性は大きくなる。そういう意味では、都会のそれとは異なるかもしれないが、いずれにしてもこのケース、都会の駐輪場で、何度か利用するということになる、あるいは毎日のように利用するということになれば、「行ってらっしゃい」の返答は自ずと「行ってきます」ということになると思うのだが、どうだろう。あらためてこのことを「暮らしの中の日本語」というテーマにあげたということは、それなりに常識的に多くの人もそう思うということなのだろうか。

 尾崎氏は「知り合いでもない駐輪場の係の人がなぜ「行ってらっしゃい!」を使えるかと考えると、係員としての立場から利用者をいわば身内や知り合いとみなして、家族に対するようなあいさつをしているのだと思われます。一方、利用者にはそのような意識がないために、「行ってきます!」が使いにくいのでしょう」とまとめている。この「使いにくい」という意識にポイントがあるわけで、もし、係の人が説明しているような意識で挨拶をしてくれると認識するのなら、やはり「行ってきます」がふつうに使えると思うのだが、なぜそこに違和感を覚えなくてはならないのだろう。

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2 コメント

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こんなのも関係あるか? (ボッケニャンドリ)
2008-03-13 18:12:35
「店員にありがとうと言う人が大嫌い」なんてのがありました。こんなのとも関係ありますかねぇ。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1094836.html
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Unknown (Unknown)
2008-03-15 20:53:33
 今日も車屋さんと話していて、ちょっとしたクレームが大きく影響する時代という話をしてきました。金を払っているんだから感謝の意を示す必要がない、という考えが当たり前のような世の中、わたしには納得はいかないものの、どうにもならないのも事実。
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