Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

子どもの手伝い

2006-07-17 09:45:07 | ひとから学ぶ
 「手伝いの減少に警鐘」という新聞記事を目にした妻が、子どもに手伝いをさせないとダメだと話している。記事によると、「テレビやテレビゲームが、脳を不活発にすることは確かだが、それだけでは、いじめ、キレる、荒れるなどの問題を解明できない何かがある」として研究を続けてきた、信州大学教育学部の寺沢助教授が、「家庭での手伝いの減少や消滅が、子どもの脳を鍛えるプロセスを奪っている」と指摘している。もう少し詳しくいうと、「昔の子どもは、お手伝いしながら、親から社会の仕組みや規則・道徳を含め、さまざまなことを学んでいた。脳は経験・体験を通して発達するが、電化製品の発達・普及でボタン一つで目的が達せられる便利な現代社会は、子どもたちが体験しながら仕組を理解する機会やプロセスを奪ってしまった」というのだ。

 息子は昔はよく働いた。このごろは忙しくてそれどころではない。何がそうさせたかといえば、小学校までとは違う中学に入ってからだ。もちろん中学ともなれば勉強もしなくてはいけない。小学校までとは異なる。いや、いまどきの子どもたちの出来の違いは中学ではなくもっと以前からその差が始まっているのだろう。それはともかくとして、部活が始まるとそれが優先となる。とくに息子の部は土日といえばほとんど部活で、とくに土曜日なんかは1日中夜までやっている子どもたちがいる。そんな子どもたちは部活一色である。それが嫌で息子は自主練習には出なかった。それが影響してレギュラーからはずされた。そんな中学生活をしているから、いまどきの子どもたちが手伝いなんかするわけがない。加えて昔なら田舎はどこでも農業をしていたから、手伝う仕事は山ほどあった。ところがみんなサラリーマンになったから、親と顔を合わせる土日といえば親も休みだから仕事はしない。よほどの意識をもっていない以上、必然的な手伝いという空間はありえないわけだ。

 前述したように子どもたちの格差は中学に始まるものではない。そう考えれば、今の息子が働かなくても、かつての息子が働いていたということも大切なことである。働くことぐらいしか親とともに何かをするということはなかなかできない。記事にあるような社会の仕組や規則・道徳というものを教えるまではとても至っていないと思う。しかし、ともに働くということに意味があったと思う。その息子がキレないとはいえない。今日もまた、母と息子で言い争いをしている。そんなことは常である。そして自分の子どもだったころを振り返っても、今の息子と母の関係とさほど変わりがなかったかもしれない。しかし、自分の思うようにいくわけでもないし、それはわかっていても自らのなかで葛藤して、身近な親にくいかかっていた。そんなものである。それでも自分の中では無理なことは無理だとわかっていた。それを自分で認められない時は、言い争っていたが、そんなことの繰り返しから、自らの居場所を探していたのかもしれない。そうした現実があるということを知らなくてはならないし、知らさなくてはならなかった。親と子とはそうした関係でともに育っていくと思う。

 余談が過ぎたが、いずれにしても、嫌なことでもやらせる。早く終われば自分の好きなことができる。そんな気分を持てることも大事だとわたしは思う。また、そんな余裕を与えてやることも必要なのだろう。そんな関係を築けたといってもキレないとは限らないが、それでキレたら仕方ないとあきらめるしかない。しかし、経験とはそんなものだと思うし、経験しなくてはなかなか理解ができない。だから、「手伝い」ということに限らず、子どもたちが同じことしか繰り返さなくなったということが、さまざまな問題の背景になっているのではないかと思う。

 早くに父親を亡くした同級生を見ると、自分とは異なり、ずいぶんと大人だと思うことが昔からあった。だから、そんな同年代の友だちが輝いて見えていたものだ。もちろん早くに父親を亡くすということは、苦労が多いに違いない。そんな苦労が人間を大きくしているのだろう。このごろは家を継ぐという意識が低下したり、親も長生きをするようになり、子どもたちがいい歳になっても地域を担わなくなった。だから、早い時期にあとを継いで、地域に関わっている者と、いつまでたっても好きに生きている者とでは、同年代でも大きな差がある。必ずしも家を継ぐという意識が、人によってはベストとはいえないかもしれないが、地域社会から教わるものは多い。悪い面もあるが良い面も多い。そうした経験を持たずに、自分の視野の狭さばかりいろいろ主張しても、身勝手な論理である。しかし、そんな身分のものが多くいて、それが常識だといわれてもなんら不思議ではない時代になってしまった。確かに手伝いをしないことによって脳を鍛えるプロセスは欠落したかもしれないが、これを解消する方法は難しい。親に課せられた課題が大きいということなのだろうが、まもなく、いや、すでにそうかもしれないが、親そのものもそんな経験のない人たちが親になっている。〝もう遅い〟という感は否めないが、果たしてどうだろう。

 母は、記事にある教授の『子どもの脳は蝕まれている』という本をきっと購入するに違いない。しかし、買っても息子にそれを試す機会は、すでにすぎている。それでもと買う母がそこにいる。

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