Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「完璧」を口にする人

2008-02-07 12:26:08 | ひとから学ぶ
 なぜそんなしゃべり方をするんだと思わず本人に向かって言葉を発する。その回数数回。それほど長い会話の中ではないのに、そんな言葉を繰り返してしまう。その根底にはその相手とは今までにも何度も会話を重ねてきたのに、今回はとても違和感があったからである。「あの人変わったねー」なんていう言葉の背景には、かつてその相手と触れ合った時代と比較して変わったときに思うものであるが、この場合の相手は「人が変わった」とは思わないものの、どこかしゃべり方のはしはしに違和感を感じるられるのである。

 わたしの日記はふとしたふだんの暮らしの中での、どうでも良いようなことについて触れている。くだらないこと、当たり前のことをそのまま受け入れるわけではなく、どこかに疑問を感じながら捉える。「くだらない」と一言で片付けられてしまうような非生産的なものなのかもしれないが、常に「なぜ」を基調として暮らす。わたしのスタンスである。もちろんそれは仕事にも反映されるから、けっこう人が当たり前のようにやっていることに対して「それでいいの」と聞くから「反抗する人」というレッテルを貼られる。そうした人間性を知っているから、今回のケースでもわたしが疑問符を投げかけたから、最初から対抗するように「どこが違うんだ」みたいに応酬する。まあそれは昔から付き合っていて解っていることだから、ある程度予想していたことであるが、それを制するような言葉の使い方が、とても威圧感がある。そして「完璧」を繰り返す。ようは自分のやったことは筋どおりで間違いはないと言いたいのであろう。そのくらい自信がみなぎっている人に「これでいいの」なんていうくだらないことを口走ったわたしにも読みがたらなかったかもしれないが、確認しておかなくてはならない大事なこと(仕事上)だからそれは仕方のないこと。にもまして「完璧」を繰り返されると、これ以上の確認作業は必要ない。こちらがどうそれを受け止めるだけで、繰り返してこだわる必要はない。ただ威圧的な言葉は、今までの付き合いの中ではそれほど感じられなかったのに「今日はなんだ」みたいに違う。まさに人はそれぞれ、しかし仕事はそういうわけにはいかない、がしかしそれが解っていてもなかなか理解は得られない→難しいものだ(人の性格を越えた物言い)とあらためて気がつく。

 「完璧」という言葉を多用する人はそれほど多くはない。自信にみなぎっているか、パフォーマンスとしてのものか、そんなところである。パフォーマンスならともかく、自信がみなぎっている場合はかなりのものである。わたしにはちょっとない性格である。常に自信がないから「これでいいの」みたいに思うのかもしれない。自信のある人には、無駄な疑問は必要ない。どこかに欠点があっても自信がそれを補ってくれるものだ。だから自信を持って生きることは大事なことである。自信を持っている人は、講義を聴いていて必ずフレーズごとに「うなづき」を入れる。このうなづきも考えようによっては面白い行動である。会話していて、うなづかないとその場がうまく進まないと「うなづき」を入れる。これはわたしの感覚であるが、誰でもそうとは限らない。人の言葉を聞きながらそれに同感できれば「まったくだ」とうなづく。完璧を繰り返す人はけっこひう「うなづき」派である。このうなづきの行動はまた別の機会に触れることにしよう。

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