Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

私という人間映す鏡

2022-06-07 23:11:01 | つぶやき

 過去の新聞記事をあさっていたら、平成25年1月5日の信濃毎日新聞文化欄に掲載されていた吉岡忍さんの記事が目に留まった。「道具への愛の告白」というもので、「私という人間映す鏡」と副題がつけられていた。冒頭こう始まる。「包丁や電動ドリルでも、使いにくかったり、使いこなすにはコツがいるものがある。なかでもパソコンはやっかいな道具である」。この言葉で、日ごろパソコンにぶつぶつ独り言を吐く自分が、きっと「私という人間を写し出している」と、つくづく思ったわけである。道具なら、それほど日々変化するものではなく、使いこなしていくもの。もちろんパソコンもそうだろうが、厄介なのは日々自動更新を促すこのごろのパソコンである。おそらく吉岡さんがこの記事を書かれた平成25年ころはまだ良かったかもしれないが、今やさらに厄介なものになっている。

 吉岡さんはこう記している。

パソコンには、成熟した道具という印象がない。0Sもアプリケーションも次々にバージョンが変わり、どんどん高機能になるソフトに合わせて処理能力の高いメモリーや大容量のハードディスクに換えなければならない。いったん新しくすると、もうそれは昨日までのパソコンとはちがった中身になる。
 まるで何度も生き返るゾンビである。いつまでも終着点がなく、使っているうちにソフトも蓄積したデータも次々に更新されていって、気がつけば、新品だったころとも、他人のパソコンともまったくちがう道具になっている。

繰り返すが、近ごろのパソコンを使っていると、つくづく「同感」と思うこと度々。終着点は自分がこの世から去る時と思える、最も厄介な道具である。吉岡さんは老眼との葛藤の中でのパソコンとのやり取りを記す。パソコン上では比較的老眼が苦にならなかったわたしも、老眼の進展で、今やパソコンで文字を打つ際も、眼鏡(近視用)を外すようになった。文字を大きくして映し出せば良いのだろうが、そうすると視野が狭まってしまい、スクロールが厄介で仕方ない。眼の劣化との葛藤の連続で、より一層パソコンが厄介な道具となっている。けして手放せない道具であるものの、日々葛藤は増幅していく。かつては文字の打ち間違えはそれほどなかったのに、今は気がつけばまっとく意図しない文字を打っていたりする。性能や、速度が向上するのに、基本操作である「キーとの闘い」は劣化するばかり。そこへきて意図しない動きが多くなったパソコンに、振り回されているばかり…。

 吉岡さんは最後にこう記している。

多少馴染んできたパソコン、と言いたいところだが、ハードディスクに1年ごとのフォルダを作り、日付順に蓄積している原稿やメモや仕事のデータ一覧を眺めると、あまりにとりとめがない。書きかけのノンフィクションもあれば、筆が止まったままの小説もある。エッセーのテーマもばらばらだ。新しい年の初め、マウスで「新しいフォルダ」をクリックし、2013年用のフォルダを作りながら、今年こそ心を入れ替えようと、私は気を引き締めている。

と。ここで言う「マウスで「新しいフォルダ」をクリック」、誰もが繰り返す操作の一コマ。意図もなく「新しいフォルダ」を作っていることもあれば、「新しいフォルダ」を展開する際に新年を迎えたような気分になることもある。とりわけ年度が変わった際に作る「新しいフォルダ」は、吉岡さんの言うとおりだ。しかし、また悪戦苦闘が始まる。記録されたフォルダは、ディスクが壊れれば一瞬で消えてなくなる。そういう経験も繰り返してきたが、消えさえしなければ過去を振り返るには、ひれほど容易な道具はない。そして、まさに年老いてきて「過去を振り返る」ことも多くなった。消滅しない「自分」を、わしだけが振り返る。感嘆しながら、あらためてここに思いを記しているのも、厄介な道具を少なからず使えている証拠でもある。


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