Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

びん牛乳から考える

2007-11-30 12:09:17 | ひとから学ぶ
 『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)11月号に〝びん牛乳でごみ問題解決「千産千消」も〟という記事が見えた。千葉県茂原市を中心として小中学校において給食用びん牛乳を導入しているというもので、生活クラブの関わっている新生酪農という会社が納入している。給食に牛乳びんを、という投げかけをしていたもののなかなか実現することはなかったのだが、環境問題への行政の配慮から導入へのアプローチが始まったという。たまたま採算面で他メーカーとは折り合いがつかなかったようだ。

 給食用牛乳といえば、昔はびんであった。いつごろから紙パックになったものかしらないが、合理性を重視した時代の成り行きなのだろう。なによりびんは容器だけでも重い。納入する側も負担になるだろうし、消費側としても大人ならともかく子どもたちが扱うとなれば落として割ってしまうという現象は避けられないだろう。起こりうる現象を最小限にしてゆこうとすれば、自ずとびんよりも紙の方が扱いやすい。環境面を重視した場合に、必ずしもびんが紙よりも優れているのかどうかはなんともいえない。前述したように重量によってその消費エネルギーはどうなのだろう、などとも思い浮かんでしまう。配達する際にも、また回収する際にもその重さは負担になるような気がする。紙を利用しないことで原料の消費を減らそうというものが環境という視点の原点になるのだろうが、生活クラブ連合会の記事にしては、そういうデータが配置されておらず、ちょっとがっかりである。

 ところで記事で触れられているが、びん牛乳用に用意した牛乳の味が良いこともあったのだろうが、導入後において飲み残しが減っているという。今の学校でどれほどの食べ残しや飲み残しが生じているか知らないが、わたしの時代では考えられなかったことだ。教室に配られたものは個人に配布されるわけだが、その段階でそれぞれがすべてを消費しなくてはならない、というのが当たり前であった。好き嫌いを言えば自ずと残すことになるのだろうが、残している姿が記憶に無い。わたしも好き嫌いはあったが、どうしても食べられないと、ズボンのポケットにしまいこんだものだ。気分悪くならないようにポケットに納める方法というものを思い出せないから、もしかしたら人目を忍んで庭の土の中に埋めていたのかもしれない。好き嫌いの激しい子もいて、給食の時間は最も嫌いな時間だったのではないだろうか。

 息子の教育に関心を示さなかったから知らないだけかもしれないが、現在の学校給食の現状を知る機会はなかった。もちろん食べ残しが何パーセント程度あるなどという数字を目にしたこともない。給食費を払わない家庭が多いと聞くが、学校側も現実の姿をデータとしてもっと知らすべきではないだろうか。世論の中から学校の姿を聞いても「息子の(娘の)学校は該当しないだろう」ということになりかねない。学校も役所の一施設と思うと、閉鎖的空間であって仕方ないが、もっと問題定義をしてよいのではないだろうか。

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