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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

山間にあって、林業は栄えなかったムラ-『伊那路』を読み返して⑫

2019-07-09 23:00:19 | 歴史から学ぶ

「僻地の生活」後編-『伊那路』を読み返して⑪より

  中村たかを氏は『伊那路』昭和34年6月号)に「山村と道路問題、一つの試論―杖突の旅から―」を発表している。これもまた、地域の様子をうかがう上で、データが掲載されていて興味深い。舞台となった藤沢村は、旧高遠町の北部、藤沢谷の奥まった地域をいう。杖突峠を越えれば諏訪へと続き、古い時代には伊那谷の入口とも言って良かったのだろう。奥まっているだけに、山村、そして「山」をイメージするわけであるが、中村氏は、面積の90パーセントを示している山林原野の多い藤沢村の生業を次のように記している。

この村の土地台帳登載地積二九四一・八町中、山林わずか一〇六・四町という数字が示すように、山林はいたって少なく、林業も真に振わなかった。昔、ここにはシロキヤという材木屋(製材の生産者)があり、ソマ・コビキ・ヒヨウを使って仕事をしていたが、彼等は御堂垣外に三軒、台に一軒の計四軒があるに過ぎなかった。彼等は山ひとつこえたむこうの谷筋の三義村からソマやコビキを雇い、伐採・製材をさせ、その場で柱や板を作り、地元の人をヒヨウにたのみこれを搬出・運搬させ、ダチンヅケによって諏訪のシロキヤ(材木問屋)に出したという。ここでは筏を使うことが出来なかったので、原木を加工して製品の形で外に出すということが行われたわけである。山元、例えば村内の松倉の人が「ここには昔からシロキヤやソマやコビキや目立ったヤマシ(山師)がいなかった」といっているように、地元の人はヒヨウとダチンヅケの仕事をするだけであった。なお、ヒヨウは明治三七~八年頃一日働いても四〇銭、ダチンヅケは一駄一円、五〇銭とるのはソマかコビキであった。(中略)

例えば明治五年栗田には農三五、農兼工四、農兼大工職一、農兼馬口労一、農兼桶結職二、農兼紺屋職二、農兼酒造二、医者一、また同じ水上上では農三六、農兼水車一、農兼鍛冶一、農兼九六鍬三、農兼工二というように、この頃わずかながらも商い物や職人を農間渡世とする者があり、また、機織りや養蚕寒天製造なども行われていたし、質屋、穀商、雑貨商などを兼ねるものも現れた。こうしてみると、この村は山村といいながら、生活の中心は農業、殊に水田耕作におかれ、生活の一年が米作りを中心にして営まれており、米作は駄賃附けとうらはらの関係にあり、これらの営みを通じて馬の使用が目立った特徴となっていたことがわかる。

こう記している。ようは山間でありながら、水田耕作が主たるものだったという意外な姿である。なぜ山林が少なかったかについて、原野が六一三町もあり、それらは共有地だったという。そのため林業が栄えなかったというわけだ。原野はいわゆるかつての耕作のための肥料を求めるために必要だった。

秋十月、共有山のほし草山の口があく。今日はどこその山のクチがあくぞというと、夜中十二時頃に起き、チャノコをくい、馬をつれて山につくと三時。前の日、予めカリバをみておいたオジイが「まだダレモカッテネエぞ」と喜びの声を上げる。後から登ってきたものがいった。「アリャどこのウチのコマだ」クサをかる人、それを束ねる者、馬につける者、皆手分けをして働き、やがて東駒に日の出る頃きりあげた。

という。馬がどこの家にも飼われていた時代のことで、馬の効用は駄賃付けであったともいう。こうした馬の存在が変わるのが、科学肥料の導入である。明治末年には使用され始め、マヤゴエの使用が減る。さらに、明治末から大正はじめにかけての伊那電(現飯田線)の開通によって、高遠の町は伊那の町に商いの場を譲ることになり、駄賃付が姿を消していくことにより、馬が必要となくなっていく。生業を取り巻く様子は、世の移り変わりととともに、随時変化していったわけである。

続く

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