その1では、『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事からいわゆる一般的に称されている「どんど焼き」の事例を収集してみた。その中には事例が少ないことがわかったわけであるが、故に長野県全体を捉えた従来の道祖神研究では、この地域に特徴的な事例をみる記述はなかったわけである。これでは違和感を解消することができないためめ、それ以外の記述からデータを集めてみることにする。まず、事例が『長野県史』にひとつも掲載されていなかった旧高遠町の例について、既存の町誌等から引用してみる。
『高遠町誌』(高遠町誌編纂委員会 昭和54年)
村落の年中行事(P1393)
どんど焼き 十四日の午後、門松や注連縄を、道祖神の付近で焼く。古いお札などもいっしょに焼く。また書初めに書いた紙を、この火に燻べ、煙がこの紙片を高く舞い上げると、習字が上達するといった。
この火で繭玉を焼いてくえば、むし歯を病まないし、一年中病気をしないということで、焼いた繭玉を家に持ち帰り、神仏に供えた後、家族が分けて食べた。
厄投げ 男子は数え年で七歳、二十五歳、四十二歳、女子は十九歳、三十三歳、六十一歳を厄年といい、夕食後普段用いている、自分の飯椀に、年齢に相当する数の銭(銭のかわりに大根を輪切りにして代用することもあった)をいれ、これを道祖神に打ちつけて後を見ないようにして帰宅する。これを厄払い、また厄落しともいう。厄投げの晩には、道祖神の前に子どもが大勢集まり、投げられた銭を競争で拾い、拾った銭は家に持ち帰らず、全部店で好きな物を買い、使い切ってしまった。
二十日正月 二十日を正月の最終日と考えたり、この日を「女の正月」といって、正月客の接待で忙しかった、主婦たちの年賀が行われた。
この日の朝、小正月に飾った繭玉飾りや、歳神様に供えた松飾りや、注連縄を外し、夕方道祖神の前で焼いた。
民間信仰(P1417)
道祖神 道祖神は、各部落に存在し、すべて部落の中央や辻、堂の前、寺の境内に安置されている。そこは日常、子どもだもの遊び場にもなっていた。
道祖神は一名「さいのかみ」ともいわれ、村外から侵入しようとする悪魔を防ぐ、「さいのかみ」の性格を物語っている。
道祖神は、文字碑が主で、双体もみられる。文字碑はすべて道祖神と刻まれている。「さいのかみ」「どうろくじん」などは全く見当らない。しかし、「さいのかみ」「どうろくじん」という呼び名は、今も古老の間では言い伝えられている。
道祖神信仰と行事 道祖神はぞくに、道ろく神、さいの神、せいの神、などと呼ばれて、村々の辻に立っている石神である。神道では、天孫降臨の道先案内が猿田彦命であることから、これを道祖神として祭っている。悪疫を防ぎ、幸福を授ける神とされている。
今も伝わっている道祖神の前で焼くのが、ドンド焼きである。正月の門口を飾った門松や、しめ飾りを七日に外して、道祖神に積んでおき、十四日に道祖神の前で焼いた。家によっては、はずした門松を、南側の薪つみの上に置いたり、道祖神へ運んだりする家もあった。道祖神で焼くのが本来だが、危うい場所では、田圃で焼いた。
焼くのは十四日の日没であるが、十五歳で祭事連にはいる前の子連の仕事であった。門松だけでは足らなくて、大人がぼやを足して大火にしてくれた。この晩は子どもたちの天下で、思い思いの遊びをしたともいう。
一月二日の書初めをもやして、空高く上がると、字がうまくなるといわれたり、繭玉を焼いてたべると、かぜをひかないともいわれている。
また厄投げも十四日の夜この前で行われる。男は、二歳、七才歳、二十五歳、四十二歳、女は、七歳、十九歳、三十三歳を厄除けの年として、日常用いていた飯茶碗のなかへ、その人の年の数だけ銭または、代用の大根の輪切りを入れて、道祖神に投げつけ、厄払いをして帰える。帰える時に後をふり向かずに、帰えるようにといわれている。ふり向くと厄が帰ってきてしまうという。厄年の人のうち東筑摩郡の牛伏の観音様へ祈祷をしてもいに行く風習もある。
子どもたちも厄除けの銭を、掻き分けて拾うのが楽しみで、その銭は、持って帰ってはいけないともいわれ、何か品物にかえてもって帰えることになっている。
『芝平誌』(芝平誌編集委員会 昭和59年 P291)
一月十四曰は小正月のお年とり、(一四日年と言った)。
この夜、道祖神の庭でどんど焼きがおこなわれた。大正月のしめ飾りや、松かざり、加えて薪など持ちより大きな火として燃すのであった。
赤々と火は燃えた。この火に乗せて書初めを高く上げる。繭玉の枝をさし出して焼く、これを家に持ち帰って家中の者が食べる。これを食べると無病息炎となれると
言い伝入られていた。
この夜厄年の人は道祖神で厄落しがおこなわれた。食べなれた茶碗に年の数だけの硬貨や、輪切りした大根や人参を入れ、道祖神に投げつけて、後をふり返ることなく家に帰ると、すべての厄が払われると言い伝えられていた。
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以上ふたつの既刊書から引用してみた。『高遠町誌』では「道祖神」を「道祖神」と表記することを一般的とするも、「民間信仰」の中で、「道祖神はぞくに、道ろく神、さいの神、せいの神、などと呼ばれて」と記しているように、「さいのかみ」あるいは「せいのかみ」という呼称もあることについて触れているが、あくまでも「道祖神」を基本としている。また松を焼く行事については、「どんど焼き」と表しており、それを「せいの神」と称す例はあげていない。『芝平誌』においても「道祖神」としており、旧高遠町では基本的に「道祖神」であり、「どんど焼き」と捉えられるだろう。