Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「せいの神」という違和感から その2

2023-05-10 23:09:07 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その1から

 その1では、『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事からいわゆる一般的に称されている「どんど焼き」の事例を収集してみた。その中には事例が少ないことがわかったわけであるが、故に長野県全体を捉えた従来の道祖神研究では、この地域に特徴的な事例をみる記述はなかったわけである。これでは違和感を解消することができないためめ、それ以外の記述からデータを集めてみることにする。まず、事例が『長野県史』にひとつも掲載されていなかった旧高遠町の例について、既存の町誌等から引用してみる。

『高遠町誌』(高遠町誌編纂委員会 昭和54年)
村落の年中行事(P1393)
 どんど焼き 十四日の午後、門松や注連縄を、道祖神の付近で焼く。古いお札などもいっしょに焼く。また書初めに書いた紙を、この火に燻べ、煙がこの紙片を高く舞い上げると、習字が上達するといった。  
 この火で繭玉を焼いてくえば、むし歯を病まないし、一年中病気をしないということで、焼いた繭玉を家に持ち帰り、神仏に供えた後、家族が分けて食べた。
 厄投げ 男子は数え年で七歳、二十五歳、四十二歳、女子は十九歳、三十三歳、六十一歳を厄年といい、夕食後普段用いている、自分の飯椀に、年齢に相当する数の銭(銭のかわりに大根を輪切りにして代用することもあった)をいれ、これを道祖神に打ちつけて後を見ないようにして帰宅する。これを厄払い、また厄落しともいう。厄投げの晩には、道祖神の前に子どもが大勢集まり、投げられた銭を競争で拾い、拾った銭は家に持ち帰らず、全部店で好きな物を買い、使い切ってしまった。
 二十日正月 二十日を正月の最終日と考えたり、この日を「女の正月」といって、正月客の接待で忙しかった、主婦たちの年賀が行われた。
 この日の朝、小正月に飾った繭玉飾りや、歳神様に供えた松飾りや、注連縄を外し、夕方道祖神の前で焼いた。

民間信仰(P1417)
 道祖神 道祖神は、各部落に存在し、すべて部落の中央や辻、堂の前、寺の境内に安置されている。そこは日常、子どもだもの遊び場にもなっていた。
 道祖神は一名「さいのかみ」ともいわれ、村外から侵入しようとする悪魔を防ぐ、「さいのかみ」の性格を物語っている。
 道祖神は、文字碑が主で、双体もみられる。文字碑はすべて道祖神と刻まれている。「さいのかみ」「どうろくじん」などは全く見当らない。しかし、「さいのかみ」「どうろくじん」という呼び名は、今も古老の間では言い伝えられている。
 道祖神信仰と行事 道祖神はぞくに、道ろく神、さいの神、せいの神、などと呼ばれて、村々の辻に立っている石神である。神道では、天孫降臨の道先案内が猿田彦命であることから、これを道祖神として祭っている。悪疫を防ぎ、幸福を授ける神とされている。
 今も伝わっている道祖神の前で焼くのが、ドンド焼きである。正月の門口を飾った門松や、しめ飾りを七日に外して、道祖神に積んでおき、十四日に道祖神の前で焼いた。家によっては、はずした門松を、南側の薪つみの上に置いたり、道祖神へ運んだりする家もあった。道祖神で焼くのが本来だが、危うい場所では、田圃で焼いた。
 焼くのは十四日の日没であるが、十五歳で祭事連にはいる前の子連の仕事であった。門松だけでは足らなくて、大人がぼやを足して大火にしてくれた。この晩は子どもたちの天下で、思い思いの遊びをしたともいう。
 一月二日の書初めをもやして、空高く上がると、字がうまくなるといわれたり、繭玉を焼いてたべると、かぜをひかないともいわれている。
 また厄投げも十四日の夜この前で行われる。男は、二歳、七才歳、二十五歳、四十二歳、女は、七歳、十九歳、三十三歳を厄除けの年として、日常用いていた飯茶碗のなかへ、その人の年の数だけ銭または、代用の大根の輪切りを入れて、道祖神に投げつけ、厄払いをして帰える。帰える時に後をふり向かずに、帰えるようにといわれている。ふり向くと厄が帰ってきてしまうという。厄年の人のうち東筑摩郡の牛伏の観音様へ祈祷をしてもいに行く風習もある。
 子どもたちも厄除けの銭を、掻き分けて拾うのが楽しみで、その銭は、持って帰ってはいけないともいわれ、何か品物にかえてもって帰えることになっている。


『芝平誌』(芝平誌編集委員会 昭和59年 P291)
 一月十四曰は小正月のお年とり、(一四日年と言った)。
 この夜、道祖神の庭でどんど焼きがおこなわれた。大正月のしめ飾りや、松かざり、加えて薪など持ちより大きな火として燃すのであった。
 赤々と火は燃えた。この火に乗せて書初めを高く上げる。繭玉の枝をさし出して焼く、これを家に持ち帰って家中の者が食べる。これを食べると無病息炎となれると
言い伝入られていた。
 この夜厄年の人は道祖神で厄落しがおこなわれた。食べなれた茶碗に年の数だけの硬貨や、輪切りした大根や人参を入れ、道祖神に投げつけて、後をふり返ることなく家に帰ると、すべての厄が払われると言い伝えられていた。

 

-----------------------------------------------------------------------

 

以上ふたつの既刊書から引用してみた。『高遠町誌』では「道祖神」を「道祖神」と表記することを一般的とするも、「民間信仰」の中で、「道祖神はぞくに、道ろく神、さいの神、せいの神、などと呼ばれて」と記しているように、「さいのかみ」あるいは「せいのかみ」という呼称もあることについて触れているが、あくまでも「道祖神」を基本としている。また松を焼く行事については、「どんど焼き」と表しており、それを「せいの神」と称す例はあげていない。『芝平誌』においても「道祖神」としており、旧高遠町では基本的に「道祖神」であり、「どんど焼き」と捉えられるだろう。

続く

コメント

十王における安山岩という選択 前編

2023-05-08 23:59:27 | 民俗学

伊那市富県竹松公民館東の十王(石質は安山岩)

 

 倉石忠彦先生は「道祖神伝承における自然石道祖神」(『信濃』75-1)において、「自然石を道祖神と認識するまでの過程を整理するとともに、その分類について考えて」いる。しかし、結論として道祖神の石質までとらえたデータ蓄積がないため、「資料の不足を明らかにしたことに止まってしまい、分類というほどの分類はできなかった」と述べられている。発端に少なからずわたしが発表した自然石道祖神の石質に関する指摘(「上伊那の奇石道祖神」長野県民俗の会通信289)があることは、倉石先生も同論文の中で述べられている。データで示していないのでわたしの主張は弱いかもしれないが、上伊那における自然石道祖神のほとんどが花崗岩ではなく、中央構造線より東側の石ではないかと考えられる。このことについては、今後少しずつデータを蓄積して一覧化したいと考えているが、いずれにしても実見してもらえばわたしの指摘はあながち間違いではないと捉えていただけると思う。倉石先生はこの石質に関連して同論文の中で、「地質環境が「特殊」や「普遍」という存在状況、あるいは石の形などの「形態」に対する感覚や価値観にも関わっているとすれば、地質環境を研究対象とすることによって、伝承文化の新しい姿を見いだすことにもなるのではないかと思われる」と述べられたうえで、長野県内の地質と自然石道祖神の分布を図化した上で検討されているものの、「「自然石道祖神」としてまつられている石の種類が明確になっていない現状では、これ以上の分析は難しい」としている。

 石質に焦点を当てたような論文は今までなかったのかもしれない。しかし、石質という面では自然石道祖神に限らず、石を使って神様としている以上、何らかの関係性があるということは、以前からわたしの視線上にはあったもの。今でこそモノを運ぶことは容易であるが、昔はそうはいかなかったはず。もちろん馬の背に載せて移動することはできただろうが、今ほど簡単ではなかったはず。とすると、石質はその地の地質と大きな関係性があったはず。伊那谷なら花崗岩が使われるのは自然であり、そうでない石を利用することは、非日常的な存在感がそこにはあったはず。そういう意味では以前から思っていたことであるが、石造十王に利用される石材への違和感である。「元久二年」銘のある駒ヶ根市下平の十王はよく知られている。1205年などという古い銘が正しいか否かはともかくとして、この十王は安山岩である。この下平の十王については“下平の元久2年銘「十王」(昭和61年の記憶⑳)”で触れているが、当時宮嶋洋一氏とともに訪れた十王の多くは安山岩であったという記憶がある。十王は黒くふすぐれているものが多い。そのためわたしの印象では「黒い」と安山岩系と思い込んでしまっているが、よく見ると安山岩ではないものもよくある。とはいえ、安山岩の十王が珍しくないことも事実。しかし、伊那谷には安山岩はない。にもかかわらず、なぜ十王には安山岩が利用されたのか、このことは以前から注目してきたが、もちろん解明しようと試みたことはない。古いものが多く、当然のことであるが「なぜこの石を使ったのか」と聞き取ることはできない。ほかの石仏に安山岩を使ったという例はほとんどなく、特徴的な事実であることに違いはない。これもまた今後の課題であるが、十王の石質についてここで少しまとめておきたい。

続く

コメント

「おみくじ」のこと

2023-05-06 23:03:51 | 民俗学

 

 以前から宿題になっていたひとつ、親戚の修験行者だった方の資料を調べに足を運んだ。祖母の妹だった方が嫁がれた家で、わたしの生家と集落も同じだったこと、さらには父とその祖母の妹の息子さんは同業だったという縁もある。明治時代に修験の堂を開いて、父と同業だった方まで3代続いたが、修験者としては途絶えてしまっている。真言系・醍醐三宝院が本山の当山派修験にあたる。初代は昭和22年(1947)に73歳で亡くなったというから明治7年ころに生まれた方。堂は平成になってから新築されているが、堂内は初代のころのまま残されているという印象で、その時代の修験の道具がよく残されているのである。今回は序の口に過ぎないが、慌てずに資料を紐解いていきたいと考えている。

 堂内の最も手前に座卓があり、その引き出しの中身から紐解いたわけであるが、座卓の上にいわゆる筒型のおみくじがあった。直方体のもので、75mm角で高さ165mmあるもの。筒の中に竹串のおみくじが入っているわけであるが、何本入っているか確認しようとおみくじを出そうとするのだが、1本目がなかなか出てこない。ようやく出てきたかと思うと、何と「凶」。2本目を出そうとしてもやはりなかなか出てこない。そして出てきたかと思うと、またまた「凶」なのである。「凶しか入っていないのか」と思わせるストーリーに、「出すな」と言われているような気もしたが、やはり全部出してみることに。本数が少なくなってくると意外と簡単に出てくるようになり、何とか全て出すことに成功。中には100本の竹串が入っていて、やはり意外と「凶」が入っていることにびっくり。おみくじを引くのはあまり好きではないが、雰囲気として「凶」はそれほど入っていないという先入観を抱いていた。写真がそのおみくじの中身である。それぞれの数を一覧にすると、

大吉 16
吉 36
半吉 5
小吉 4
末小吉 3
末吉 6
凶 30

といった具合になる。「半吉」なるものがあるのも初めて知ったが、「末小吉」というのも耳慣れなかった。そして7段階で分けられるのは一般的のようだが、7段階がどこも同じというわけではなく、このように末小吉を入れている場合もあれば、それに代わって「大凶」を入れ場合もあるようだ。上記「大吉」から「凶」までは順位に沿って並べた。このおみくじ種類と順位は、浅草寺のものと同じである。そして吉凶の割合について、群馬県前橋市にある産泰神社のホームページに紹介されており、吉凶の割合はおみくじによって異なるというものの、おみくじの由来となった「元三大師百籤」の割合は「凶」30パーセント、「大吉」17パーセント、「吉」35パーセント、これら以外の「吉」が15パーセントだという。おみくじの数が100本あるから、自ずとその数字が割合となる。竹串に記された番号と吉凶を見ていくと、1本だけ不可思議なものがあった。「第大八吉」ちいうもの。8番目のおみくじに当るのだろうが、「八」の前に「大」が記してある。意図的なものなのか間違えただけなのかはわからないが、これを「大吉」と捉えると前述の割合はまさに前述の割合と同じになるわけである。「凶」が意外に多いことに気がつくわけである。ということで、「凶」を引くことは、けして珍しいことではなく、裏を返せばおみくじによってあまり左右されないこころもちでいたいということになるだろうか。

コメント

「せいの神」という違和感から その1

2023-05-05 23:16:22 | 民俗学

 「伊那市 セイノカミ」と検索するとYAHOOでは3番目にわたしの日記の2018年11月9日の記事「風邪を何に託して送ったか」が登場する(この日記をアップしたら登場しなくなったのであしからず)。そこには、

 風邪の神を送るといってワラウマを作りセイノカミの所へおいてきた。『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事 昭和63年 847頁

という事例が報告されている。ここでいうセイノカミとは道祖神のことを指していると考えられる。とすると伊那市天竜川右岸では、道祖神のことをセイノカミと称している地域があるのだろう、とは推察される。

 実は同じ検索のトップには伊那市にあるみはらしファームの「せいの神」という記事が登場する。最新記事が掲載されることから2024年のせいの神という記事が開く。そもそも2023年なのに「もう2024年」?と思う。ようは来年のイベント行事を告知するページで今のところ「詳細は決まり次第更新いたします」と表示されている。みはらしファームは農業公園として知られ、温泉施設とともに直売施設などが公園内に設置されている。伊那市内では代表的な観光スポットともいえる。その施設の正月イベントとして毎年「せいの神」が行われている。この「せいの神」とはいわゆるどんど焼きのことである。今年1月16日の中日新聞ウェブ版にも「燃えるやぐらに1年の健康祈る 伊那で「せいの神」」という記事が掲載されており、そこには「伊那市西箕輪の農業公園「みはらしファーム」で十五日、小正月の伝統行事「せいの神」があった。地元の羽広地区の住民たちが正月飾りなどを焼いて無病息災を願った。...」とある。

 市民にとって認識度の高いみはらしファームのイベントということもあって、伊那市内での小正月の火祭りの呼称について「せいの神」という表現をされることがあり、以前から違和感のあった呼称である。しかしながら前述したわたしの日記にも触れているように、確かに道祖神のことを「セイノカミ」と称していた節もうかがえ、このあたりをあらためて検証してみることとしよう。

 まず『長野県史』での調査結果を紐解いてみよう。前述した『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事の「火祭り」の項にその事例をうかがってみる。伊那市内で調査地点となっているのは羽広、小沢、野底、手良中坪、美篶青島、富県北福地、東春近下殿島、西春近山本のほか、平成の合併で伊那市となった旧高遠町と旧長谷村がある。これら地域の事例をあげてみる。

1.野底 ドンドヤキは、男女の子供たちが1月7日に各戸から門松を集めて川で焼く。戦後始まった行事である。

2.小沢、青島 子供たちが注連縄、松飾りを集めてドンドヤキをする。

3.羽広 ドンドヤキは何人かが適当な場所に注連飾りを持ち寄ってやった。

4.山本 セイノカミといい、子供たちが松飾りをムラじゅうからもらい集めて、1月14日の夕方道祖神碑の前で焼いた。「セイノカミサマワ」と歌いながら餅を焼いて食べた。(大正時代まで)

以上4例のみであり、旧高遠町、旧長谷村の事例は皆無である。近隣地域を見ても宮田村北割の「昔は1月20日、今は1月7日にドンドヤキをする」ぐらいであとは辰野町まで行かないと事例が掲載されていない。ここからうかがえることは、「火祭り」が実は希薄な地帯とも受け取られる。『長野県史』の調査地点では粗いということになるだろうから、事項では別の既刊資料を紐解くこととする。

続く

コメント

続々「犬神」中編

2023-05-04 23:29:09 | 民俗学

続々「犬神」前編より

七久保上通り「犬神」

 

七久保北村「永代守犬」

 

本郷日影坂「犬神」

 

 「犬神」と単純に刻まれた石碑が意外に多い。そして年銘があまり見られないのも特徴である。前編で触れた『飯島町の石造文化財』(2006年 飯島町教育委員会)に記載されている七久保の6基のうち、11.と12.以外の4基は、現地におもむいたが見つけることができなかった。あらためて探してみるが、11.の上通りのものが、1枚目の写真である。やはり「犬神」と刻まれており、こぶりな石碑(碑高39センチ)である。それほど古いものではなく、やはり飼い犬が亡くなった際の供養なのかもしれない。

 七久保のもう1基、北村にあるものは刻像碑である。上部に「永代守犬」とあり、「文久元酉八月」と年銘があるというが、はっきりは読み取れなかった。写真2枚目がそれであるが、陰影がつきやすい時間を狙って撮影したが、いまひとつはっきりはしていない。上部にに「永代守犬」となければ、刻まれた像が「犬」であるのかははっきりしない。尻尾があきらかなところから狼にみえるかもしれない。珍しい刻像碑であることに違いはない。

 記載されているもののうち本郷日影坂にある「犬神」は3枚目の写真のもの。ほかの石碑とともに並んでおり、こちらの「犬神」はふつうの石碑並みに大きさもある。碑高は45センチあり、「道祖神」とともに並ぶ。ほかに蚕玉様も祀られており、祭祀空間から捉えると個人建立ではないのかもしれない。

続く

コメント

馬見塚蚕玉様の祭り

2023-05-03 23:13:33 | 民俗学

5月3日午前8時半前からおよそ11分の舞

 

 駒ヶ根市にある馬見塚公園は、ため池の周囲が整備されていて旅館もある。現在の知名度は低いが、かつては周辺ではよく知られていた場所。ため池に導水されている水は中田切川の水で、明治5年から7年にかけて開削された中田切井によって導水されている。ため池そのものは元治元年(1864)に築堤されたというから、中田切井開削を目論んでいた中で先行されてため池は完成した。明治16年に辻沢にあった蚕霊大明神を遷し中田切井の関係者が祀ったといわれている社が現在もあり、後の昭和41年に勧請した成田山とともに5月3日は祭日となっている。「蚕玉様の祭り」として近在に知られた祭りで、かつてはかなりの賑わいがあったということは知っていた。その蚕玉様の祭りを訪れてみた。

 近年はコロナ禍のせいで祭りが通常開催されるかどうか、その情報も定かでなく無駄な足を運ぶことも多かったわけであるが、今春の春祭りあたりもまだまだ通常とまではいかない様子がうかがえた。こうした中で最近の祭りの様子をうかがうのに都合が良いのが、議員さんたちのブログである。昨年の祭りについて記載されたものも、県会議員さんのブログから情報を得た。コロナ禍にあって、通常ではなかったものの、神事の前に獅子舞が行われたことが議員さんのブログに記されていた。まったく時間的情報もないなか、とりあえず議員さんの昨年の様子から朝方に実施されるであろう獅子舞を目的に足を運んだ。ちょうど長春寺住職による祈祷が行われていたが、聞くところによると祭事の冒頭に獅子舞を行うというから、もしかしたら祈祷前に獅子舞は行われたのかもしれないが、たまたま今年は獅子舞が祭事のあとになったというので、タイミングよく獅子舞を拝見することができた。

 祈祷が終わると社殿前で祭典委員長の挨拶があり、鏡開きとなった。鏡開きされたお神酒で乾杯がされたあと、獅子舞奉納となった。ここでは「獅子舞」とは言わず、「お神楽」という。中信から北信にかけてこう呼ばれることは多いが、南信で「お神楽」は珍しい。実はここで獅子舞を行う福岡祭保存会のみなさんは、秋の大御食神社の獅子練りにも多くの方が参加される。その際は練り用の獅子頭があるといい、捉え方としては獅子練りは獅子舞であって、この日行われるものは「お神楽」と言う。どちらも大神楽系の獅子舞であることに変わりないが、神前で行われる祓いを意識した奉納舞は「神楽」なのである。いわゆる「悪魔祓い」であり舞は3部構成となっている。最初は幌の中に頭を持つ一人と幌を高だかあげる5人が入りゆっくりとした所作で舞う。次は頭とひょっとこのまさに二人立ちとなり、獅子は鈴を右手、御幣を左手に持ち、後ろにつくひょっとこが幌をぐるぐると巻いて尻尾を首に巻くようにして舞う。ひょっとこは獅子を真似るような所作をしながら獅子と相対するように道化る。最後は「蚤取り」である。頭を自らの身体についた蚤を取るようにカタカタと小刻みに噛むような所作をするもので、最初と同じように幌の中に幌持ち5人が入って幌を高く掲げる。蚤取りの後頭を大きく左右に振って舞納めとなる。

 秋の秋葉神社の祭典では保存会が中心となって祭典が行われ、その際にもお神楽は舞われるようで、ほかに区や公民館分館から要請があって舞うことがあり、年に2回ほどそうした行事に呼ばれて舞うようである。いずれの場合も冒頭にお神楽が舞われるといい、区内の安全を願って舞うという。行事が安全に行えるようにという意図もあるのだろう。一時途絶えてしまったといい、昭和56年に復活した。その際には他の土地の人に教わったというが、教えてもらった地ははっきりしないという。

 現在は馬見塚祭典と呼ばれているこの祭り、「通常開催をやっていいものか」と年明けから疑心暗鬼だったという。それでも準備はしないと間に合わなくなるということで通常開催を念頭に進めてきたよう。4年ぶりと開催という祭りは、3日の1日かけてさまざまな催しが企画されていた。ちなみに馬見塚については馬見塚旅館の「馬見塚公園の歴史と由来」が詳しい。

 

蚕玉様のお札

 

コメント

続々「犬神」前編

2023-05-01 23:39:15 | 民俗学

 

飯島町七久保新屋敷


 「犬神」については今まで3回触れている。知人から犬神について問い合わせがあって、あらためて犬神を振り返ってみた。『飯島町の石造文化財』(2006年 飯島町教育委員会)に記載のある「犬神」は、以前“続「犬神」”で触れた通り、田切3、飯島2、七久保6、本郷1、計12体ある。それらを一覧にしてみると下記のようである。

1.田切春日平 椰之脇唐沢氏裏田の畦 「犬神」
2.田切春日平 町谷 土村氏祝殿 「犬神」
3.田切中平 観音堂 「白犬㚑 十三年 下平氏」
4.飯島石曽根 諏訪神社 「犬神位」
5.日曽利 松福寺庭 「犬神 文政四辛巳年 二月吉日」(1821)
6.本郷日影坂 「犬神」
7.七久保高遠原 日向沢橋下西 犬霊
8.七久保高遠原 お観音様 「犬神 嘉永六年 丑八月建立」(1853)
9.七久保高遠原 お観音様 「犬神」
10.七久保上通り 中央道ガード西上 「犬神」
11.七久保上通り 大島製材所東方 「犬神」
12.七久保北村 秦野氏 犬神像 「永代守犬 文久元酉八月」(1861)

以上12基である。そして以前「犬神」及び「続犬神」で紹介した3基の「犬神」はこの一覧に記載がない。ただし、記載されている12基をすべて確認できないでいるので、もしかしたらこの12基とわたしの確認した3基には重複があるかもしれない。今後も記載されている12基について確認してみて結論としたい。

 さて、“続「犬神」”では写真で紹介しなかった「犬神」が冒頭のものである。現在の環境は南側が山林、北側が果樹園となっていて、山と里の境界域に建立されている。とはいえ、果樹園もかつては山林内だったのかもしれないから、必ずしも昔から境界域であったというわけではないだろう。しかし、まさに大と里の境界域という印象は強い。この西側の山林内には馬頭観音がまとめて祀られていたりしていて、かつとの道筋であったという印象もある。

 ちなみに「犬神」で紹介した1例目、台石の上に祀られている「犬神」は、昭和時代に隣の家で飼っていた大事にしていた犬が亡くなった際に、供養のために建てたものと言う。そして2例目の「犬神」は「昔からあった」といい、その謂れはわからないという。

続く

コメント

縁切石

2023-04-23 23:04:18 | 民俗学

「蠶玉霊神」

 

今は、道にも雑木が生えている

 

石碑群を跨いで坂を上っていくと、道上に白い石が見えてくる

 

石碑群を跨いで坂を上り、振り返ると…

 

薬師坂の入口

 

 2010年2月3日に「結ぶ・切る⑤」と題した日記を記している。もう13年も前のことだ。そこで触れた「縁切石」がこの写真のもの。当時の日記には写真がなかったので、縁切石そのものの写真は載せていない。当時の日記の文末に「新道ができることをムラの人々が喜んだのかどうかは解らないが、庚申塔は大正年代のに建てられたものがあり、それを建てる時にこの坂を塞いだのか、それとも新道を造る際に塞いだのか、いずれにしても、この縁切石のある坂をムラの人々が意識していたことに違いはないようだ。」と記した。昭和40年代の初めに近くにお嫁に来られたという80歳近い女性に聞くと、新道はお嫁に来た際にはすでにできていたという。そして道を塞ぐように建てられている庚申塔などの石碑は、道を開く際に移転したのではないかという。

 今もなおかつての薬師坂の姿は残されている。石碑群を跨いでかつての薬師坂を上っていき、ひとつカーブを過ぎた山側の小高いところに「蠶玉霊神」は祀られている。横広のどっしりした石で、白さの目立つ花崗岩である。いまでこそ新緑のころということもあって日当たりがあるが、雑草が生い茂ってくると日当たりは少なくなり、さらには雑草で覆われてしまうのかもしれない。かつての薬師坂は幅にして4尺。もちろん車の通れるような道ではないが、かつてはこの道が天竜川の東側にある飯沼へ向かう幹線道路だった。飯沼のさらに奥には西丸尾や丸尾といった集落もあり、旧南向村への道だったわけである。

 女性によると、「この道は通らないように」と言われていたといい、通らなかったというが、石碑群はみるからに「通せんぼ」をしているように見える。この石碑群の脇の家には井戸が出ていて、かつては子どもたちが水を飲みに立ち寄ったという。南側の利生庵のあった場所にも湧水があったようで、段丘崖にあたるこのあたりは、湧水があったようだ。女性によると「蠶玉霊神」と刻まれているものの、蚕神様の祭りをしたようなことはなかったという。「通るな」と言われていたほどだから、忘れ去られることを望まれた神様なのかもしれない。

コメント

「御夜燈当番札」

2023-03-23 23:26:04 | 民俗学

 

 15日の夕方、伊那市高遠町勝間の共信にある「御嶽(おみたけ)」と言われている隣組で掛けられる灯篭を見に行ってきた。共信にはもうひとつ、北側に7戸で構成される「庄持屋(しょうじや)」という隣組もある。御嶽が6戸だから合わせて13戸の集落。庄持屋でも同じ日に灯篭が掛けられており、それぞれで灯篭が2箇所に掛けられる。御嶽では秋山文男さん宅東側の三叉路、庄持屋では宮原利男さん宅北側の三叉路である。常時そこには灯篭を掛けるための柱が建っていて、月の1日と15日の夜、それぞれの隣組の当番によって火を灯した灯篭が掛けられるのだ。御嶽では灯篭が古くなったため数年前に灯篭を新調した。その際作られた灯篭は女性や老人が持ち歩くには重いため、灯篭は常に掛けっぱなしとなっているが、もともとは隣組内を当番の家に灯篭を回し、当日灯篭に火を入れると掛ける場所まで灯篭を持って行き掛けていたという。隣組内に大工さんがいて造ってもらったら立派すぎて重いというわけである。

 

 同じ日庄持屋でも灯篭が掛けられていたが、すでに蠟燭が消えてしまったのか、それともこれから火を入れるのか、灯篭に灯りは灯っていなかった。御嶽の灯篭を見た後にも見てみたが、そこに灯りはなかった。庄持屋では現在でも灯篭を回して当番を渡しており、ふだん灯篭は掛けられていない。いっぽう御嶽では灯篭を回す代わりに「御夜燈当番札」という当番札を渡している。札が回ってくれば、次の1日あるいは15日に灯篭に火を灯す当番というわけである。

 

 御嶽の灯篭は火袋の幅27cm、高さ30cmで、地上1.2mに火袋がくるように設置されている。火を入れる扉の左右には太陽と月を表す窓が加工されており、上伊那でよく見かける灯篭に秋葉信仰を表すような例えば「秋葉」といった文字は見えない。とりわけ御嶽ではかつてあったと言われる御嶽様(おみたけさま)との関係が語られるが、庄持屋では現在も秋葉講が1月16日に実施されており、秋葉講の灯篭という意識がある。火伏せや盗難除けといった意識が灯篭を灯す意図にある。かつては灯明皿の油に灯したが、現在はローソクが使われる。それも仏壇用の小さなローソクを利用しており、点灯される時間は短い。とくに灯す時間に決まりはないが、暗くなると灯すといわれ、ときには当番を忘れてしまって、当番札がしばらく同じ家にとどまっていることもあるという。それぞれの家で灯す時間が異なるため、そして蝋燭が短いため、実際に灯篭に灯りを見られるのはほんのわずかなタイミングで、なかなか遭遇することはできない。伊那市から辰野町にかけてこうした灯篭を当番の家に渡す習俗が盛んであったようで、現在も実施しているところが見られる(上伊那郷土研究会『伊那路』4月10日発行号に「美篶青島のあきや様と代参」という中崎隆生氏の論文が掲載される予定〉。

 

 ちなみに庄持屋における秋葉講は、現在代参はなく、お札を配るわけでもない。ただ集まってお祭りをするだけで、近くにある神社に旗を立てて、その神社にお参りするというが、そこに秋葉様が祀られているというようでもない。また御嶽の「御夜燈当番札」の読み方を聞いたがはっきりしなかった。灯篭のことはふだん「とうろう」と呼んでおり、「灯篭当番札」で良いのだろうが、あえてこう記されている。「御夜燈」というと、伊勢原市の「善並御夜灯」がよく知られている。それは説明板によると「おんやとう」と呼ぶらしい。いわゆる常夜灯であったものが、毎日は大変だということで、御嶽では月に2日に変わったものと思われるが、すでに高齢の方たちに聞いても「昔と変わらない」というから、月の1日と15日の歴史は長いようだ。

コメント

 子どもたちの調べた民俗

2023-03-13 23:15:18 | 民俗学

 『長野県民俗の会通信』第294号(令和5年3月1日発行)に、南佐久郡小海町の小海小学校4年生による『道祖神新聞』が掲載された。新聞記事にするのは信濃毎日新聞が主催する子ども新聞コンクールが2022年ですでに23回を数えるように、かつての夏休みの一研究が「子ども新聞」に視線を奪われてしまったという感は否めない。もちろん新聞にまとめるというのは、限られたスペースにいかにまとめかが問われるわけで、意味あるものであることは確かだ。したがって今回通信に掲載された新聞も、子どもたちがグループごと新聞にまとめる内容を検討したうえで作成されたもの3編が紹介されており、興味深いものになっていることは言うまでもない。これを掲載することとなった理由は、代表委員である田澤直人氏が小海小学校4年生の担任であった濱先生から調査研究段階に相談されていたことが縁だ。まとめられた新聞7編が田澤氏に送られ、そのうちの3編を掲載したわけである。「道祖神関係資料として貴重である」という田澤氏の判断である。

 田澤氏は1933年に実施された辰野町川島小学校の子どもたちが調べた「子供仲間のしらべ」を引き合いに今回の掲載理由の一端を示しており、さらに伊藤純郎氏が『長野県民俗の会会報』44号において教材研究や授業実践に活用できるようなものを通信や会報に掲載してもらいたいという意見が今回の事例紹介に繋がっている。そして今回の新聞に対して、道祖神研究の第一人者である倉石忠彦先生からのコメントを、併せて掲載している。

 わたしは子どもたちの調べたる民俗資料について視線を当てるべきという意見を以前から抱いていた。とりわけ前述した夏休みの一研究の中に見られる子どもたちの調べた成果を扱ったものを、かつて『伊那』に報告したことがある。2004年の1月号に掲載した「郡総合展覧会から教えられるもの-民俗学の視点から-」である。いわゆる「郡展」と称されている展覧会に夥しく掲げられる研究発表を一覧したなかで、わたしが注目した研究をとりあげたものである。子どもたちが調べたものだから、といって死蔵させることはなく、たくさんの人たちに見てもらいたい、とは以前から考えていたからこそ『伊那』に掲載したものだ。その中で展覧会を訪れた大人が「こんなこと子どもたちだけでできるわけがない、親の作品だ」という言葉を紹介している。大人には偏見の視線が見えるが、たとえ大人が関わったとしても、大人も含めて地域を見直すことができれば、それが成果だと考えている。こうした郡展なるもの、現在も実施されている地域はあまりないという。しかし、子どもたちの視線には大人にはないものがあったり、また大人でも教えてもらえるような視点がある。加えて人々に見てもらうことで、子どもたちにとってもやりがいとなるだろう。

 かつて『伊那路』に中学生や高校生の報文が掲載されたことがよくあった。もちろん今はあまり事例をみない。大人が子ども扱いしているからなのかは知らないが、「育てる」という意味でもこうした企画は大事だとわたしは思う。

コメント

高遠だるま市へ 後編

2023-02-13 23:26:39 | 民俗学

高遠だるま市へ 前編より

 

 

干支だるま、高遠さくらだるま

 

だるまを納める

 

飾られた人形

 

石段下の参拝所

 

交渉するひと

 

 基本的に高遠だるま市に来られる方は、毎年来られている方が多い。だるまが売られている露店のすぐから長い石段が始まる。この日は前日の大雪だったこともあり、会談は滑りやすい。だからというわけではないだろうが、医師団の登り口に賽銭箱が置かれている。長い階段を登ることが困難な方のために置かれた賽銭箱なのだろう、実際はここでお参りして引き返す方が多い。とりわけ滑りやすい今回は多かったのかもしれないが。そうした中、大きなだるまをいくつか担いでやってこられた高齢の男性は、「だるまを納めるところはどこか」と石段の近くまでやってきて露天商の方に聞いた。すると「お宮までいかないと…」と言われて戸惑いの顔を見せたが、仕方なく石段を登って行った。だるまの納めどころは、境内まで上った右手にある。そこには、「お願い」という立札が建てられていて、「だるま、御神札、御守り、破風矢、熊手等 厄祓いのご祈祷お炊き上げをいたします。お祓い祈祷に対し、三百円程のご厚志賜ります様お願い申し上げます。」と書かれている。小さなだるま一つでも、大きなだるま三つでも、おそらく300円なのだろうが、ここまで上がってきて「300円なんだ」と思わず声をあげる人もけっこう多い。

 この日、やはり知り合いの女性とお会いした。隣の伊那市芦沢の方で、歩いて来られたという。毎年来られているようだったので、「だるまを納めるのですか」と聞くと、そうだという。それにしてはだるまを持っている雰囲気がなかったので、不思議そうな顔をわたしがすると、「わたしは小さいので…」と背負っていたバッグをわたしの方に向けられた。ようやくわたしも納得したわけだが、近在の方はこうしてだるまを納め、帰りにはだるまを買っていくわけだ。

 大雪だったこともあり、早く行こうとは思っていたが、鉾持神社に着いたのは午前8時30分過ぎ。石段を登っていくと、神社委員のみなさんが雪かきをされている。その様子から察して、参拝者のピークはこれからだと察した。この日は午前7時から周辺の道路が規制になった。わたしが訪れた時間帯はまだ参拝者で賑わうというほどのことはなかったが、しだいに参拝者は増え、午前11時くらいからは食べものの露店には列ができていた。

 さて、妻からはだるまは買ってこないように、と言われていた。妻はあまりだるまは好きではないようだ。前編で記した知り合いのように、必ず毎年だるまを手に入れているという方の思い入れとは全く異なる。縁起物に対する意識は人それぞれでよいが、いまだ日本人には縁起物に対する依存心はけっこうあると推察されるのは、相変わらずの初詣の賑わいでじゅうぶん理解できる。ということで「買わない」つもりだったが、マチの中を歩いていて思わず買ってしまったのは「高遠さくらだるま」だった。本町の方たちが売っているもので、聞くところによると、かつてはそれぞれの店で軒下などに人形を飾ったものだが、店で働く人が減り人形の作り手がいなくなってそうした風習が廃れたという。そのうちに町ごとに人形を飾っていたが、それもなくなってもう20年くらいと言う。それでは寂しいという声もあったのだろう、町ごとに趣向を凝らす中で、特別なだるまを売るようになったようだ。本町のだるまは桜をあしらったもので、身障者の方たちができあがった専用のだるまに桜のはなびらを貼るのだという。赤、白、黒、ピンクといった種類があったが、わたしは桜らしくピンクのものを買った。地元の新聞などでこうした趣向を凝らしただるまの予約販売のことを耳にしていたが、当日売りもあったわけだ。作った「高遠さくらだるま」は千個ほどだと聞いた。

 そういえば、と気がついたのは干支だるまも事前予約されていたことに気がついた。同じように当日売りがあるのかもしれないともう少し歩いていると、霜町で売られていた。とはいうものの、こちらはもうわずかで10個もなかっただろうか。「一つだけなら」と言われて購入したが、こちらのだるまは箱入りでカートが入っていた。そこには「佐川だるま製造所」とあり、検索してみると福島県白河市のだるま屋さんのよう。ホームページには「変わりだるま」として干支だるまが紹介されている。いずれのだるまも冒頭のような写真のものである。

 かつて人形が飾られたという十四日市。名残りで現在も人形が飾られていると聞いたが、実際は保育園の子どもたちが作ったもので、この日も町内2か所に飾られていた。久しぶりに訪れた高遠だるま市は、昔のような賑わいは感じなかったが、それでも露店に人が列をなしている姿を見て、3年ぶりの高遠だるま市は多くの人々に福をもたらせてくれたようだ。

コメント

高遠だるま市へ 前編

2023-02-11 23:49:39 | 民俗学

 

 長野県民俗の会234回例会が、高遠町で行われた。高遠だるま市をメインにした例会を企画したが、実際は午後の「長野県民俗地図を作る」が目当ての会員によって構成された例会といっても間違いはない。昨日の大雪のせいで、「中止した方が良い」という意見もあったが、遠路足を運んでくれそうな会員もいて、すでに行動に移されている方たちがいれば、中止だったらそれこそ無意味なものになってしまうため、少数参加でも良いと踏み切った例会でもあった。その午後の例会については別項に譲るとして、高遠だるま市についてここでは触れておく。

 高遠だるま市を訪れるのは、40年ぶりくらいだろうか。記憶では若いころに1度だけ訪れたように思うが、もしかしたらその後に、もう一度訪れたかもしれないが、ほとんど記憶にない。かつてカラー写真を撮影したのはいつのことだったのか、もしかしたら二度目に訪れた際のことなのかもしれない。何より昔のわたしは、カラー写真はめったに撮らなかった。そのカラー写真を撮影した際の、売り子の法被の柄の記憶は鮮明に残っていた。その柄を久しぶりに訪れただるま市の売り子の背に見た。かつて見た法被の深い紺色ではなく、何度も洗いつくされて色褪せたものだった。しかし、あの時の柄と同じなのである。その法被を着られている女性に話しかけてみた。すると、父の代から高遠だるま市にだるまを売りに来られているといい、おそらくわたしの見たかつての法被の姿は、この方のお父さんだったのだろうと想像する。ちょうど40年ほど前に法被を新調されたといい、そのまま今もその法被を使われているという。あの深い紺色の法被が、真新しいものだったとも記憶する。周囲のだるまを売る方たちに聞くと、テレビなどが来ると、必ずこの法被を着られているだるま売りの店が対象になるという。もしかしたら高遠だるま市の雰囲気をもっとも出しておられる空間なのかもしれない。

 さて、鉾持神社への階段のすぐに店を構えられていたのは、松本市の布野恵だるま店だった。先ごろの箕輪町南宮神社の初市にもだるまを売りに来られていて、「高遠にも店を出す」と聞いていた。実は前述の法被を着られているだるま売りの店は、長野から売りに来られているというが、売っているだるまは布野恵さんのものだという。長野でももちろんだるまを売られるが、長野でだるまを売る際には長野のだるま屋のものを扱うという。わたしもこうした露天商の方たちの流通世界は詳しくないが、だるまについては、地域特性のようなものがあるようだ。やはり近くで別の店を開いていた方が、法被に「布野」という名入れの法被を着られていた。布野恵さんの関係者だという(布野恵だるま店を経営されているのは「布野」さん)。しかし、店を出している方は飯田の方だという。販売元はさまざまだか、そこへだるまを卸しているのは、同じ店なのである。そう捉えて何店か聞いていくと、ほかにも布野恵さんの関係の店があるとともに、松本にあるもうひとつのだるま製造販売店である丸栄さんも店を出しているが、実は布野恵さんとは姻戚関係だという。どちらの会社も里山辺にある。

 ちょうど顔見知りの方に出会ったが、「今年初めて高遠だるま市に来た」と言う。理由は毎年お願いしていただるまを扱っていた方が、だるまを売るのを辞めてしまったため、高遠だるま市に足を運んだという。毎年45センチのだるまを購入していたので、「小さくしてはいけない」からといって同じ大きさのだるまを探されていた。もちろん「探す」は「どこで買おうか」という意味だ。かつてなら値引きのかけ引きがあちこちであったのだろうが、今はほぼ定価で売られていて、値引きのかけ引きはあまり聞こえない。それでもその方は、「だるま」を目当てに足を運んだから、やはりなるべく安く手に入れたい。交渉をされて結局前述の法被を着られている店で手を打ったが、契約が成立すると手締めの声が高らかにあがる。さすがにこの時勢では、手締めの声があちこちで聞こえる、とまではいかないが、賑わいできた午前11時過ぎになると、手締めの声が頻繁にあがっていた。が、繰り返すが、裏を返すと意外にかけ引きしたのは同じ系統の店だったりするのだ。

続く

コメント

だるま市 後編

2023-01-18 23:22:55 | 民俗学

だるま市 前編より

 高遠のだるま市は、前編で触れた向山氏の文からもわかるように、かつては「十四日市」と言われていた。いわゆる小正月に行われたもので、新暦になった明治以降は一時は月遅れと言う時期もあったようだが、旧暦の小正月ころに開かれるようになり、後には2月11日の建国記念の日に固定されてきた。そして現在も同日に実施されている。この2年間はコロナのせいもあって「だるま市」は中止されてきたが、完全中止ではなく、だるまを売る店はコロナ禍にも露店を開いていたよう。

 十四日市というようにだるまに限定されたものではなく、前編でも触れたとおり、「種物の交換や蚕種」が売られた。そして未明に参拝する人が多く、いわゆる大晦日から新年までの間に現在も参拝する二年詣りのようなことが行われたわけである。このことは赤羽忠二氏が著した『ふるさともとめて花いちもんめ 続山峡夢想』(2002年 ほおずき書籍)にも記されており、「昔の祭りは旧暦十三日の夜、鉾持神社で神楽を奏し、社頭で稲や豆の種を交換したり売買したりしたという。その日は夜っぴし(夜通しの事)で、近郷の人はもちろん郡下からも参詣人が集まり、十四日の朝まで雑踏を極め、夜が明けると町は人通りのない静かな姿になったという」。ようは今でこそ朝から賑わいを見せているだるま市は、かつては二年詣りの催しだったというわけである。

 そして何といってもかつての十四日市で注目されたのは人形だった。赤羽氏は前掲書において「この祭りの特色は人形飾である。各町内会で作ってその出来栄えを披露し、賞が贈られる。出し物は昔話の劇話や現代の世相を風刺したものが多い。鉾持神社へお参りした後、これら町内の飾り人形を見るのも楽しみの一つであった。(中略)商店の二階の軒の庇に飾り付けてある大きな人形を物珍しく見上げて歩いたことを思い出す。主に時代物が多かったようで、牛若丸と弁慶・石童丸・桃太郎など、町の中を次々に渡り歩いて飾り物を見て回った。」と記している。先ごろ箕輪町木下の南宮神社の祈年祭について触れたが、そこで現在も行われている人形飾は、まさにこの高遠の人形飾が伝わったもの。マチにおいては祭日に飾り物をする例が多く、例えば松本の天神祭りがかつて「びょうぶ祭り」と言われたのも、高遠鉾持神社の祈年祭に同じ光景だったように思う。商店は各々自慢の「びょうぶ」を出して訪れた人々の目を楽しましたのである。マチに共通な祭りの情景、意識だったように思う。

 このかつての人形飾り光景は、古い写真を掲載した書物に見ることができる。とりわけよくその光景を表したものとして、
『写真集 高遠のあゆみ』高遠町教育委員会編 1992年 194頁
『写真アルバム 上伊那の昭和』株式会社いき出版 2018年 210頁
がある。

コメント

だるま市 前編

2023-01-14 23:46:02 | 民俗学

 だるまがどう手に入れられたか、ということに関してわたしの身近では「農協の初貯金」だったことについて触れたわけだが、「だるま市」と呼ばれるような市の存在もあった。このことは「“だるま”について 中編」でも記した。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「だるま」で紹介されている「だるま市」は16箇所。その中に「高遠だるま市」があり、県内では唯一である。このだるま市について『伊那市史現代編』(伊那市史編纂委員会 1982年 1258頁)には次のように記されている。

 高遠の達磨市 鉾持神社通称権現様の十四日市で、作神といわれ高遠領一の市がたち、種物の交換や蚕種の下付もあり、縁起物の達磨もあきなわれ百万両・千万両とよぶ商値のよび声に賑い、近在からは未明に参詣する者が多く、十四日市に行って来て年取りをする若い者たちも多かった(美篶・手良・富県・東春近・伊那)。終戦後二月十四日に変更され、現在は二月十一日の祝日に行うように定められ、参詣も遅くなっている。

 

 高遠領内一の市だった言われ、そこでだるまも扱われたといい、もともとはだるま市ではなかった。明治になってからだるま市と呼ばれるようになったわけであるが、昭和に至るまでここでいう「十四日市」という呼称は生きていたようで、このことについて向山雅重氏が昭和32年に発行された『伊那の谷』13号に次のように記している。なお、この引用文は向山雅重著作集『山国の生活誌』第4巻(昭和63年 新葉社)からのものである。

 

高遠の十四日市
 「高遠の十四日市に行かめえか」
 「うん、十四日市って何よ」
 「なあここから夜通し歩いて行って、お宮へおまいりして、お土産に達磨を買ってくるのよ」
 「そりゃ面白いら、行かめえ」
 ―こんなことで、出かける相談が定まった。その晩、小正月のお年取りをすませると、握飯をこしらえてもらって夜の十時頃集まる。高等小学二年生の男子ばかり数人。ここから歩いて伊那町までたっぷり二里、それから高遠までまた二里、それをぽつぽつ歩いて行こうというのである。綿入袢纏に、ネルの襟巻を頭からすぽっとかぶって、ふところ手をし、凍りついた道に下駄を鳴らしながら行く。いつも通る道も夜道となるとまた勝手が違って、立木が夜空ににうっとそびえて気味がわるかったりするが、また自分達の先方を歩いていく、やはり十四日市に行く人達の姿を見かけたりすると元気が出る。近づいてゆくと、若い衆が何やら元気に話しながらゆく。ふいと「キャッ」と言った若い女の叫びごえとともに、何かパッと光って消えた。―ハッとして立ちどまると、同行の背の小柄なGが暗がりをすっとぶようにこちらへ来た。「あはゝあ……」と笑って若い衆の一団は歩いて行く。」何だか訳がわからない自分にやっと事情がよめた。―親しそうに話しあって行く若い衆のうちの一人の娘さんの顔を、かくし持っていた懐中電燈で不意に照らしておどかし、すばやくにげてきたのである。そしてまたしばらく行くと、Gはまたその悪戯をくりかえす。―一体、何が面白いんだか自分にはわからない。皆が「あはははあ……」と笑ったりするのが腹立たしい程でもある。
 そんな事して歩いて、まだ夜も明けない頃鉾持神社についた。長い石の階を上っていくと、拝殿では神楽をあげていた。さてお詣りはすんだが、腹がへってきた。弱ったなあーと思っていると、「馬肉で飯を食っていくじゃあねえか」とGがいう。その「馬肉で飯を食う」という事がどういう意味かわからないまま後をつけていくと、紺のれんのさがった店さきへどんどんとはいって行く。「いらっしゃいませ」という少女の声に驚いてたじろいでいると、Gは先にどしどし上がって行く。その勢いにつられて皆がおずおずと上がる。そこにはもう小さいコンロをかこんでいる二組三組がいる。自分達は端の方へ小さく座ると、やがてコンロの火にかけられた小さい肉鍋が運ばれてきた。馬肉なんて全くはじめてだ。それに、気が弱くて難も兎も食べられなかった自分には手が出ない。何かぷんとにおう臭いがとてもかなわない。皆がうまそうに皿にとっている時、自分はただだまって握飯をかげにかくれるようにしてぼそぼそと食べていた。―とあわただしく女中さんが向こうから何かいゝながらとんできた。―焼けついて肉鍋からもうもうと煙が上っているのに驚いたのであった。
 ―やがてお土産に小さい達磨を買って、ぼつぼつ帰ったが、はじめての経験である馬肉というもののにおいや、あたりの雰囲気がいつまでも胸にこびりついて、いやな心持ちがした。それに電燈でパッと人の顔を照らしたりして、何が面白いんだろうか、などと考えながら歩いていた。―こんな祭りの晩に娘が女になったりする若者の世界のことなど、まだ夢にも知らない少年のこころであったのである。

 

 此さと、元より往来する人少く、ものひさぐ事もはかばかしからねば、常には田畑作る事を専とし、月の六日(四九ノ日と云)市の日を定め、在郷より出る人も多く、其日に用を足せしとなん。
 今も其のしるし残りて、正月十四日を初市と定め、此日在郷の男女、朝まだきより鉾もちの神にまうて、其年の豊ならん事を祈り、市中のものは此日黄昏より夜をかけ家毎おしなべて参話す。
 又、長たる者は前つかたより精進けっ斎して、表に注連を張、下向の折から門口に立てしめを取、内に入しとなん長たるものは礼服にて参れば箱ちょうちんをもたせしに、是も今は略して弓張となりぬ。
 此日、市神を祭とて、弥宜ミ子(神子)、本町と(上町と云)鉾持町(古へ町の惣名鉾持といゝ、ここを鉾持古町とは云)に出て、年の豊ならん事、又、市の栄へん事を祈る。此二処に出る事は、もと御制札は本町問屋の前に有しを、折々の火災によりて、今のほこち下口(難)口の間に引ゆえに、いにしへの御制札の場をもて祀所とするものか。いかにもよき仕くさとおもへり。
 又、夕暮に此処のねぎ事終り、鉾持の御神の広前にいたり、神楽を奏し、いと賑しく神をいさめけるが、近き頃はミ子というものなく、神楽の絶しハ、神慮ハいかがとおしき事にぞおもへる。神楽ハ神の代、うずめの命より始り、代々に絶ざる事とハ聞けり。

 

 これは、高遠町鉾持居住で町年寄、筆学の師匠であった池上邦雄―幼名吉兵衛、後に金左衛門、更に本左衛門。字は維馨、号は竜水、対山(天明六年―一七八六~安政三年―一八五六)が、「父母の物語せしことよりおのが見し」ことなど書き記した手記のうちの一節であるが、十四日市の起こりと、その幕末頃の様子とをよく記している。
 月の四と九が市の日であった昔のしるしが残って、正月十四日を初市とし、近郷の者は、朝あけぬうちから鉾持の神に請って、その年の豊作を祈る。町では市神の祭りというので、弥宜神子が本町と鉾町とで豊作と市の栄えを祈り、夜は社前で神楽を奏して神をなぐさめた―というのである。百姓の正月である小正月の祈念と、町住みの人の市神を祈る心とをあわせて、この十四日市が栄えたことがわかる。
 今は一月おくれの二月十四日、―つまり旧暦の正月十四日頃にあたるこの日をとって市の日としているが、心持ちは同じである。そして、この「五穀豊作」「蚕大当り」「商売繁昌」「家内安全」といった心持ちにあやかる縁起物としての達磨がこの十四日市にひさがれるようになって、いつか「だるま市」としての名が知られるようになったのであろう。
 「大当りだるま」「福入だるま」―その店が鉾持神社の門前の両側にずらりと十いくつもならぶ。いずれも戸板の上へ大小の達磨を盛り上げるほどにならべて元気のいい声をしている。その塗りの赤と金文字と、眉毛や髯の黒と、そしてまた大小さまざまな姿、それがあやしいまでに不恩議なコントラストを成して、更に景気を添える。
 「どうだ、大まけで二百万両としておくが……」
 「まあ百万両というところだな」
 「じゃあ、今日の縁起として、百五十万両といけ」
 何万両、何万金といったよび声までもにぎやかい。遠く上州から碓氷峠を越えてきた達磨もある。貨車へ二杯三杯と運ばれてきたものが大方売れてしまうというのだが、達磨の人気も大きい。「一日に二百万両(二百円)の達磨を十売れば、五百円の宿へ泊まってお銚子二本つけて、結構日当になるぜ」とは達磨売りの打ち明け話であるが、これだから、かさ高で扱い難くい荷をかかえても、遠くから達磨売りが集まってくるわけである。
 近年は、達磨のほかに、福あめや、小さい枝につけた飾り物までも縁起物として売られている。それに昔の市の名残りをそのまゝに、大道へ戸板をならべての露店がなかなか多く、大きい店も自分の店の前へやはり露店を出している。そして二階屋の庇の上に、各町内が出した飾り物―大きな人形を仕立てて、「鈴が森の幡随院長兵衛と白井権八」「石童丸」「浦島太郎」「絵島生島」さては「モンテンルパの唄」といったものが飾られて、町ゆく人の目をひいている。これも古い城下町高遠の面影の一つとしてゆかしい思いがするのである。

 

 かつての高遠だるま市の様子を、よく表している内容である。前半の部分は向山氏本人の経験値なのだろう。宮田から伊那町まで歩いて、さらにそこから高遠まで歩いていく。ちょうど宮だから4キロ余、ほぼ同じ距離で鉾持神社である。盛んに登場するGがガキ大将なら、記している本人が向山氏、そしてとてもまじめな性格であることがにじんでいる。馬肉の臭いがきつくて、持って行った握り飯を隠れるように口にした。何ともいい感じの表現である。「高等小学二年生」、いわゆる現在の中学2年生だ。すべてが真新しい世界を、祭りという場で体験していったわけである。もちろん今の子どもたちに皆無ではないこころもちだろうが、果たして…。

コメント

“だるま”について 後編

2023-01-13 23:16:50 | 民俗学

“だるま”について 中編より

 実は民俗誌を開いても、あまり「だるま」のことは記されていない。『長野県史民俗編』を紐解いてみよう。

 4地区別に刊行された資料編の索引を見てみると、「だるま」の登場は数少ない。とりわけ現在ダルマ製造販売会社のある松本を含む中信では索引に「だるま」は全くない。まず「東信」と「北信」を見てみよう。挙げられている事例全て引用してみると下記のようになる。

東信
〇だるま売りが「ダルマー ダルマ」といって春に来た。(S40-佐久市大地堂 )第1巻(二)285頁
〇だるま屋が群馬県から正月に売りに来る。(望月町春日本郷)第1巻(二)278頁
〇だるまを正月に望月町から売りに来る。(芦田本郷)第1巻(二)278頁
〇だるまを売りに地元の人が来て各家を回る。(佐久町下川原)第1巻(二)278頁
〇ダルマを売りに地元の人が年の暮れに歩く。(佐久町余地)第1巻(二)278頁
〇だるまを売りに正月に高崎方面の人が来る。(八千穂村崎田)第1巻(二)278頁

北信
〇だるま売りが上水内郡信州新町から来た。(信州新町外鹿谷)第4巻(二)290頁
〇だるま屋が春に来た。「フクダルマ」と呼びながらかごに入れて来ただるまを売った。(信州新町日名)第4巻(二)290頁
〇だるま売りが長野市から正月に売りに来た。「ダルマ ダルマー」と呼びながら売った。(鬼無里村四角面)第4巻(二)290頁
〇だるまを「ノボリダルマ…」と呼びながら、売りに来る。(上山田町力石)第4巻(二)291頁
〇福だるま商が「フクダルマー フクダルマー」と呼びながら、冬から春にかけて売りに来た。(三水村上赤塩)第4巻(二)291頁

といった事例が見られる。いずれも交易の項にある。ようはだるまを売りに来る人がいたということになる。さすがに高崎に近い東信には「高崎から」という事例も見られるが、地域にもだるまを売る行商のような人たちがいたようだ。またその時期も年明けから春にかけてというように、やはり新春はだるまを取り換える時期にあたるということになるだろう。

 では南信はどうかとみてみる。

〇だるまに供える(これは年取りに「餅を供える場所」という問いに対する回答)。(伊那市青島)第2巻(二)465頁
〇年神棚と神棚、おびす・大黒様、だるまへはお茶を、仏様へは水を供える(これは年取りの日の供え物への回答)。(伊那市青島)第2巻(二)468頁

以上2例は同じ青島のものであることから同じ人の回答だろう。以下の例は「だるま市」の事例である。

〇だるま市が上伊那郡高遠町であり、だるま、縁起物、日用品を売っていた。今は行かなくなった。(T-箕輪町上古田)第2巻(二)337頁
〇旧一月十四日にだるま市が上伊那郡高遠町であり、だるまを売っていた。(南箕輪村北殿、伊那市中坪、宮田村北割)第2巻(二)337頁
〇旧正月十四日にだるま市が上伊那郡高遠町であり、だるまや縁起物を売っていた。現在は二月十一日に行われている。(伊那市小沢、伊那市北福地、長谷村市野瀬)第2巻(二)337頁
〇二月十一日にだるま市が上伊那郡高遠町の鉾持神社であり、だるまが売られる。(伊那市野底)第2巻(二)337頁
〇旧正月十四日、現二月十一日にだるま市が上伊那郡高遠町の鉾持神社で開かれ、だるまのほか縁起物が売られる。旧正月十四日のだるま市は昭和三十年ころまで続いた。(伊那市青島)第2巻(二)337頁
〇二月十一日にだるま市が上伊那郡高遠町であり、だるまのほかに装飾品、まんじゅう、菓子、おもちゃ類が売られる。(高遠町荊口)第2巻(二)337頁
〇二月十一日にだるま市(十四日市)が上伊那郡高遠町であり、福だるまが売られる。昔は蚕種なども売った。(長谷村溝口)第2巻(二)337頁
〇旧一月十四日(現二月十一日)にだるま市(十四日市)が上伊那郡高遠町であり、だるまや縁起物を売る。(長谷村市野瀬)第2巻(二)337頁
〇旧一月十四日に十四日市(だるま市)が鉾持神社参道であり、だるまを売った。(高遠町勝間)第2巻(二)337頁
〇旧一月十四日に十四日市が上伊那郡高遠町であり、だるま、食べ物、おもちゃを売った。(高遠町中村)第2巻(二)338頁
〇旧一月十四日(現二月十一日)に十四日市が上伊那郡高遠町鉾持町であり、だるまを売る。昔は物々交換であったという。(高遠町東高遠)第2巻(二)338頁

 冒頭の上古田の例のようにかつては高遠から少し遠いところまでだるま市の名は知られていたのだろうが、やはり中心は三峰川流域の人たちが集まったことが事例からうかがわれる。「だるま市」以外の事例は下記のようなものになる。

〇だるま売りが群馬県から秋に来る。(茅野市湯川)第2巻(二)319頁
〇だるま売りが春に、「ダルマヤ ダルマー」といって売りに来た。(S初-原村払沢)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが秋の終わりに、「ダルマ ダルマー」といって売りに来た。(茅野市湯川)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが一月に、「ダルマー ダルマー」といって売りに来た。(S40-茅野市大池)第2巻(二)327頁
〇だるま屋が一月十五日、十六日に、「ダルマヤ ダルマ」といって売りに来た。(S15-南箕輪村北殿)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが春の初めに、「ダルマ- ダルマー エンギダルマダルマ」といって売りに来た。(T初-中川村南田島)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが二月に最近はトラックで、「ダルマーダルマ」といって売りに来る。(市野瀬)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが春先に、「フクダルマー フクダルマー」といって売りに来る。(富士見町若宮)第2巻(二)327頁
〇だるま売りが春と秋に、「フクダルマ」といって売りに来た。(茅野市塩沢)第2巻(二)328頁

 やはり群馬県から直接来たのではないかという事例もあれば、どこからははっきりしないが、行商に来た様子がうかがえる。

 さて、こうしてみてくると交易に関して「だるま」が登場することが顕著であることがわかる。そこで索引には1項目もない中信において交易上に登場しないのか本文で確認してみると、下記のような例が掲載されていた。

〇だるま売りが「ダルマー ダルマー エーフクダルマ」といって春に来た。(美麻村千見)第3巻(二)326頁

 唯一の例であるとともに、美麻村と中信の中では周縁部にあたる。他の地域と中信の違いを想像してみると、実は中信では「市」の項目にだるまを売る例が多くみられる。例えば

〇松本市で一月十日、十一日にあめ市があり、あめや福だるまが売られる。(松本市平田)第3巻(二)340頁
〇北安曇郡池田町で二月一日にあめ市があり、あめ、縁起、だるまが売られたり、商店の大売り出しがあったりする。(池田町十日市場)第3巻(二)340頁
〇東筑摩郡四賀村会田本町で三月八日にあめ市があり、あめ、だるま、おもちゃなどが売られたり、一般の商品も売り出されたりする。(四賀村取出)第3巻(二)341頁
〇北安曇、南安曇、東筑摩の三地方の商業の中心地では一月十日ころから三月ころにかけてあめ市があり、あめ、縁起、だるま、おもちゃなどが売られる。(豊科町田沢)第3巻(二)341頁

といったものが多くみられる。とくに最後に示した例がひの地域をよく物語っているかもしれない。ようはこの地域では各所で「あめ市」なるものが開かれ、あめのほか縁起物が売られ、その中に「だるま」がある。ようはこの地域では売り人が訪れるのではなく、市を訪れてだるまを手に入れるという習俗があっため、他の地域と少し様子が異なったのではないかと推察される。

 以上主に交易上に「だるま」を捉えて来たわけであるが、手に入れた「だるま」に対する記述は皆無だった。これらの点については、ほかの文献に探りをいれてみるしかなさそうである。

終わり

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****