キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

「山河ありき」 2

2017年09月04日 | ☆記憶
この日を境に南昌は大混乱におちいった。

 混乱の模様をいちいち写しとったら、きりがないので省略するが、東京の外務省からは領事宛に、「在留日本人をまとめて無事帰国せられたし」との電報を最後に、一切の通信連絡はとだえた。機を失せず、南昌市の辻という辻に壁があれば壁に貼り出された国民政府軍最高司令官、蒋介石氏(故人)の「暴に報いるに暴をもってするな、日本人に理由なく危害を加えた者は直ちに死刑に処す」との佈告を読んで少しは落付いたが死の恐怖は去らなかった。

 当時私には妻と五才と三才の子供がいて、明日の運命さえ予測され難い極限状態におかれると、「詩」などを生む余裕は失われていた。其のなかに或晩句友が見せた、

   さすらいの民に雲濃き今日の月
   月今宵傷心覆い難き身の

の句は忘れ難く今でも憶えている。

 日本軍は早晩武装解除が行われるであろう。そうなれば、女子供を含む約三百人の在留日本人の運命はどうなるか?糸の切れた凧みたいな存在になるのは目に見えていた。
協議のすえ当面の自衛策として、先ず米と塩をたくわえ、小銃、手榴弾等を隠匿して、最悪の事態に備える事にした。

 或日街の中に爆竹等が鳴り騒然となったので、出て見ると、何度か嫌政府で談笑し飲食を共にした事のある、県長(知事に相当)以下逃げ遅れた幹部等が敵国に協力した漢奸(祖国に弓をひいた最大の裏切者)として、後ろ手に縛られ、頭には「三角帽」を被せられ、洋車(やんちょう)(人力車)に乗せられて市内を引廻されているところであった。

 あまりにも変わり果てた県長の姿に一瞬息を呑み、正視することが出来なかった。
 こうした事態の中で、未だむきずの日本軍将校の或る者は、飲酒抜刀して「俺は降伏などせん」と料亭の柱に切りつけたり、訳もなく拳銃を発砲したり、いたる所で、其の狂気が見られた。

 終戦後素早い行動をとったのは憲兵であった。彼等は凡ゆる交通機関を利用して、街から姿を消した。今考えて見ると最も賢明な行動であったと思はれる。

 前面に展開していた、大陸では不敗の日本軍大部隊が揚子江を目ざして大移動を開始したのは、終戦後七日ばかりしてからであった。日本軍の武装解除を目前にして、軍から「南昌郊外を通過する部隊のために御迷惑と思ふけれども「湯茶の接待をして貰えないか」との申し出があった。総軍司令部から派遣されて慰問に来て居て、たまたま終戦に合い滞留していた、軍楽隊と共に南昌郊外の森に、あらん限りのドラム缶を集め、毎日そのドラム缶に湯を沸かし、通過する兵士にさヽやかな湯茶をふるまった。

 中国大陸の南方から真黒に日焼して汗にまみれ、近ずくと異様の臭気を放つ兵士が完全武装のまヽ続々と吾等の待つ広場に、しばしの憩をとった。一杯の湯茶に喉をうるほした兵士の中には「日本人の女が居る」と感動のあまり棒立になる者も居た。永い間戦塵にまみれ中国奥地の山ばかりを見てきた兵士には日本婦人の着物姿はたまらないなつかしさを覚えたに相違ない。

 大休止が解けて、赤茶けた丘の上で軍楽隊が奏する「蛍の光」は恰かも帝国陸軍の最後をみとる葬送曲のように聞こえて、言葉では言い現せない悲しみが胸を突きあげてきた。横に整列した、女接待員等は、ハンカチで目を押さえすすり泣いて行軍の兵士を見送った。日本軍の敗戦を信じ難い様子の行軍兵士には「何故泣くのか」判らなかったかも知れない。日本刀を吊し背を正した馬上の部隊長、それに続いて歩いて行く兵士の横顔に折柄落ちかかった大陸の夕日が紅く染めてゐた。

 世界最強の軍隊として世界中の人々に怖れられ、吾々日本人も心からそのように思っていた、日本帝国陸軍の最後の姿がここにあった。

八月十五日の終戦記念日が近ずくと、その時の光景がまざまざとよみがえる。

その頃北満はソ聯軍の侵攻により毛沢東の率ゆる共産軍の手に落ち、南昌前面には、「新四軍」と言う共産軍が国民政府軍の目をかすめて出没しては、密かに日本軍に「吾々に味方しないか」と誘いかけてくると噂の種にされていた。
もともと国民政府軍と共産軍共同で日本軍に当たっていたが、今、日本の降伏によって、遅かれ早かれ国民政府軍と戦わなければならない宿命にある共産軍にとって降伏した日本軍兵士を一人でも多く自己の陣営に引き入れたかったであろう。

 この新四軍という共産軍は、一般社会では当然のことであるが、農民達が野菜をくれても、或いは泊っても必ずその代価を支払い、必要があればよろこんで農家に奉仕すると言うぐあいで、今までの「奪う」「犯す」「焼く」の兵隊とは、うって変って厳正な軍紀のもとに行動する軍隊として、民衆の心をしっかり掴んでゐるようであった。
国民政府側では武装のまヽの日本軍を放置して置くのは危険と感じたのか、終戦から十数日過ぎの暑い日に吾々が最も恐れていた日本軍の武装解除が行われた。もうわれわれの背後には力強い後楯はない。自力で生きてゆくほかはないと決心した。

階級章だけつけた丸腰の兵隊は「徒手官兵」と稱され復員に便利な揚子江沿岸の荒地に自から竹の柱に萱を葺き、自給自足の態勢で船を待つことになった。

日本占領時代の和平地区では、南京臨時政府発行の「儲備券」が唯一の通貨で、吾々の月給もこの通貨で支払はれていたが、終戦と同時にこの通貨は紙切れ同様となり、代って国民政府の発行する「法幣」が流通することになった。このことは和平地区の民衆とわれわれが無一文になったことを意味する。

 日本軍武装解除後の南昌市の治安は中国軍の警備に任されていたところ、或る日日本人商店に陳列してあった、綿布を暴民が持ち去ろうとしたのを警備の兵士が阻止しようとして爭になり、これを口火に掠奪は全市にひろがり、日本人が市内に雑居していては、いつどんなことが起るか判らない状態になったので、警備当局の好意を受けいれ、昨日まで日本軍の司令部であった跡に集まり難を避けた。翌々日だったと思ふ、自活に欠くことのできない食糧品、綿布等を二十余隻の帆船に積み込み瀋陽湖を経て揚子江沿岸の港町、九江市の日本人小学校に辿りついた。


つづく

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