Trips with my RV.

RVでの小旅行。

人の記憶はドンドン書き換わっていくらしい

2011-10-28 21:48:17 | Innocent joke
top - Science - Mind Hack
「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」 WIRED JAPAN
                      TEXT BY Jonah Lehrer
                      TRANSLATION BY ガリレオ -高橋朋子/合原弘子
                      2011年10月27日

「自分自身」とは何か?・・・我ながら青臭い問いである。

今日を生きる我々は、子供時代から「自分自身」を問う事も問われる事もないまま、予め「正解」の決まっている「知識」を記憶する事を要求され、自分とは無関係にも思える「正解」を答える事を要求され続けている。「その『正解』をどう考えるか」とは、誰からも聞かれない筈だ。自分自身でも「その『正解』をどう考えるか」を自らに問う事はない。

勿論、言葉を覚える前も、他者と自分の区別が曖昧な頃からも「何らかの『自分自身』」は存在した筈だ。生後間もない赤ちゃんを見ても、彼・彼女には「何らかの『自分自身』」が存在する事を見て取れる。「三つ子の魂百まで」と云う諺は「持って生まれた性質、才能はその人の一生離れない」と云う意味だそうだが、教育を受ける前の『自分自身』こそが、無駄な知識や教養で本来の『自分自身』を束縛していない本物の「自分自身」だ・・・とは私は思ってはいない。10年前の自分と今日の自分は違う・・・と思えるので、10年前の「自分自身」と今日の「自分自身」も違うのだろう。その違いが「10年間の『記憶(知識の蓄積、経験の蓄積、好悪感情の蓄積)』」なのだろう。

「自分自身」とは何か?・・・と改めて問えば、「自分の生きてきた証としての全記憶」と答えれば良いのか?それとも「自分の全記憶に影響された『何か』」と答えれば良いのだろうか?何れにしろ、自分の「記憶」が「自分自身」を培っている事を否定する人は居ないと思う。だが・・・


冒初にURL引用したWIRED JAPANの記事は例示に過ぎず、誰しも思い当たるフシは在る筈だ。自分の、絶対に忘れる筈のない重大な記憶に纏わる思い出話を、当時そこに居合わせた人(人達)とした時・・・、自分の「真実の記憶」とは違う「真実の記憶」を、当時そこに居合わせた人から聞いた事は無いだろうか?その時、貴方は・・・貴方自身の記憶こそが真実で、他の人は適当に忘れてしまっているから適当な事を云っているのだろうと思う筈だ。

「事実は一つしかないが、真実は人の数だけある。」との名言がある。この意味は、如何に客観的であろうとしても、自分の中で作り上げられた事実のイメージ(真実と解釈しているモノ)は、自分の記憶に収めた時点で既に偏っている・・・と、なっている。「客観的な事実」とは、受け手に依る善悪の判断もなければ、適不適の審査もなく、好き嫌い等の感情も含めた人の思惑などカケラも入らない無垢な唯一の事実は、その事実が起きた時にしか存在せず、それを人がそれぞれの記憶に収めた時に人の思惑で改変されてしまうから・・・真実は人の数だけある、としてきた。

毎度の如くに分かり難い例示だが・・・娘の小学生時代の思い出話を聞いていて、その記憶は娘の記憶ではなく私自身の記憶の筈・・・と云うエピソードに違和感を覚えた事がある。そのエピソードに依って娘は注射嫌いになったと云うのだが、その「注射針が折れた」と云うエピソードは私自身のモノの筈で、妻に聞いても・・・娘に関しては殊そんな体験は幼少期から今日まで無かった筈だ。そのエピソードは、私が娘に語って聞かせた・・・私自身の記憶だと思っている事だ。だが、語って聞かせた事で、娘はウソの記憶を自分自身の記憶として手に入れ、そのウソの記憶が娘のトラウマを作ってしまった訳だ。

記憶はウソをつく (祥伝社新書 177) 榎本 博明

内容紹介
「記憶とは、本当に過去にあったもの」。普通は、そう信じて疑わない。けれど最近の研究では、記憶が必ずしも真実ではないことが明らかになってきている。  記憶は、後で入ってきた情報や、現在の心理状態の影響を受けて刻々と姿を変えてしまうことがある、というのだ。 そう、あなたの記憶は、後になって作られたものかもしれないのだ。自分の記憶が書き換え可能であるなら、記憶で思い出す過去が本当にあったものなのか、誰もが不安になるだろう。 裁判での自白や目撃証言も、人間の記憶が元になっている。記憶があてにならないとしたら、どう真実を見極めたらいいのだろうか。 本書は、そうした記憶のウソについて、最新の研究成果に基づき、さまざまな角度から検証したものである。


記憶とは「経験した物事を心の中に留め、忘れずに覚えていること。また、覚えている事柄」と辞書に書かれている。少なくとも記憶の持ち主には、「自分が忘れずに覚えている事」=「記憶」は疑いようのない真実である。だが・・・、様々な研究から「記憶の再固定化(memory reconsolidation)」で度々書き換わっていく事が判明していて、「自分が忘れずに覚えている事」=「記憶」は真実でも事実でもないらしい。

Memory Reconsolidationとは、一度は長期記憶として安定化していた記憶が、想起する(思い出す)事や、夢に見る事で不安定な状態になり、そして再び安定な状態に戻る神経システムを意味する。そして、その再び安定な状態に戻った長期記憶は・・・事実でも真実でも無い場合が多いのだ。

我々は自分の記憶を、常に変わることのない「真実の記録」と捉えて、それを思い出す・・・と認識している。だが、実際は思い出した時には再びモジュレーションを受け、思い出した時迄に得られた新しい情報を破綻のない形で古い記憶中に組み込んでしまい・・・記憶は真実から勝手に離れてドンドン書き換えられてしまう。人間は正確な記録としての「記憶」は持たず、自分にとって都合の良い様に記憶をドンドン書き換える風に進化を遂げた様だ。恐らく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)からの立ち直りには好都合なのだろう。ウジウジと過去を引き摺っている人間は多くの子孫を残せなかったのカモ知れない。その引き替えとして、人間はウソの記憶を真実だと錯覚する事となった。我々は、「敵を欺くには先ず味方から」・・・では無いが、自分自身も完全に騙し切ってしまえるウソの名人の末裔なのだろう。

従来の大脳生理学では、記憶というのは符号化(Encoding)され、短期記憶(Short term memory=STM)として一時的に保持された後、それが固定化(Consolidation)され、長期記憶(Long term memory =LTM)としてニューロンネットワークの「繋がり方」として安定した後には、その情報は忘却されない限り安定した状態のままで変化しないと考えられていた。しかし、人の記憶には書き込み禁止のスイッチは付いていないので、読み出した序でに勝手に書き換えてしまう。記憶の書き換えを防止する方法は、その記憶を永久に思い出さない事だけだ。

自分の人生を賭けた夢が「記憶の再固定化」の産物だったとしたらガッカリするだろうし、何物にも代え難い大切な記憶すらも「記憶の再固定化」で書き換わった事実とは異なる妄想カモ知れないとしたら・・・ガッカリだ。

広告で生まれる「ニセの記憶」:研究結果 WIRED JAPAN Archive

飽くこともなく繰り返すTV・CMを見ていると、「虚偽の体験効果」(false experience effect)が人間の現実に架空の経験が巧みに織り込まれニューロンネットワーク・レベルで記憶が改変されると云った「記憶の再固定化」が発生し記憶が書き換わり洗脳されてしまうらしい・・・と云う記事だ。

何者かから意図的に「記憶の再固定化」をされない限り記憶が書き換わらないのだとすれば未だマシだが、別に意図的に調整されたTV・CMを見なくても、自分独りで過去の記憶を思い出してもフルオートマチックに「記憶の再固定化」が発生し記憶が書き換わってしまうのだ。

「記憶の再固定化」についての詳細は、御自身で検索して【騙されないように】読んでみて欲しい。

「記憶の再固定化」をgoogleで検索

ここで再び、「自分自身」とは何か?・・・と改めて問おう。

「自分が自分自身だと認識する『ボディ(体)』に宿っていると信じられる自分の『ゴースト(魂)』こそが『自分自身』だ。」・・・だろうか?例え、その『ゴースト(魂)』を自分たらしめている自分の『記憶」はドンドン勝手に改変されていたにしても・・・だ。

草薙素子「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・それだけじゃないわ・・・私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが<私>の一部であり、<私>という意識そのものを生み出し・・・そして、同時に<私>をある限界に制約しつづける」

当に攻殻機動隊の世界観だ。このフィクションには、脳と基幹神経系だけを残してほぼ全身を人工物に置換し「完全義体化」した人達が登場する。脳や基幹神経系は、人間の肉体から生体組織を限りなく取り除く、あるいは機械で代行していった際に自分が、自分自身であるために最低限必要な物であり、その元人間だった脳や基幹神経系に『ゴースト』が宿っているとしている。『ゴースト」とは、あらゆる生命・物理・複雑系現象に内在する霊的な属性、現象、構造の総称であり、包括的な概念である。作中では、主に人間が本来的に持つ自我や意識、霊性を指している。『ゴースト』は上下方向に無限の階層構造を持っており、その中に意識・無意識・自我などのレベルが存在するが、上部に完全支配されている訳ではなく、相互に連結しながら上部構造が緩やかに下部構造を総体としてまとめている・・・と云った古代仏教の意識論に似ている。

こうして「完全義体化」した人達の感じる「自分は何なのか?」と云うアイデンティティ・クライシス(identity crisis)は、我々生身の天然人間とは比べようもないだろう。彼らは『ゴースト』こそが人と機械を分けると主張している。

しかし、その信念の根底にあり、拠り所で在った筈の自らの記憶がツギハギだらけのハリボテだと知れば、ナニを自分自身の拠り所にすべきなのだろうか?

最後にもう一度、「自分自身」とは何か?・・・と問う。

やはり・・・先人の英知が導き出した「我思う、故に我在り」なのだろうか?

怖~い話になりそうなので(その2)へ続く・・・
ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
« 政策の混迷が景気回復を遠ざ... | トップ | (その2)人の記憶はアテに... »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2011-10-31 13:56:45
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52046533.html

コメントを投稿

Innocent joke」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事