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いじめ問題・・・

2012-07-12 22:03:34 | 独り言
今日の日本社会は、効率を最優先し非効率と思われる選択肢を除外し失敗や損失の可能性を極力回避して十分以上の成果が得られると分かっている分野にだけ投資を振り向ける・・・社会である。効率至上主義社会とでも呼ぶべきか?

この効率至上主義社会だからこそ、昨今の様々な社会問題が発生しているのだと思う。耐震偽装問題も然り、いじめ問題も然りだ。

過去記事にも書いた筈だが、耐震強度をオンザエッジ(これより強度が弱いと違法となると云う耐震強度ギリギリ)で高層ビルを建てる業界慣習が耐震偽装を生む土壌だ。十二分の耐震強度を持たせると原価が上がり施工者も施工主も結果的に不利益を被るので、オーバークオリティを排除しなければならないとなる。これがVE設計であり、無駄や過剰を取り除き不足を補って、結果的に最新の高層建造物は、役所が決めた耐震基準ギリギリで設計される事になる。

今日の日本の雇用に於いて、生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して排除する事や、生産性で個人を格付けする事や、その結果として冷遇されるのは努力を怠った結果としての「自己責任」としてクールに割り切る事等は、もはや当たり前の事だろう。逆に、生産性の優劣で処遇が変わらない事への不満が募って士気が落ちる事を避けるべきだろう。

「生産性の低いモノ、採算のとれない部門のモノ」は、それに相応しい「処罰」を受けるべきだという事を、経営者も従業員も株主も公言している。こうして、営利団体だけではなく働く側の意識も「出来の悪いモノ」は罰せられて当然となっていると思う。

そう云った中で学校だけが、子供達がお互いの成長を相互に支援し合い、お互いの特徴を個性として相互に尊重し合い、それぞれの能力の差や努力の差を評価せず比較しない小社会で在り続ける事に限界が到達しているのだと思う。子供達を競争させ、能力や努力に応じて格付けを行い、高い評点を得た子には報酬を与える・・・方法が最も効率的に学校教育を遂行する事も出来るのだろう。

それに・・・子供達にとって級友達は潜在的な「敵」でもある。同級で、同学年で、同学齢集団の中での相対的な優劣こそが、成績評価でも、体育種目の記録でも、進学でも、就職でも、今現在の競争にも、将来の競争にも、凡そ全ての競争に関わってくる訳だ。だから、子供達が学校に於いて級友達の成熟や能力の開花を阻害する様に振る舞う事は合理的な事でもある。級友が自分より無能であり無気力であり学習意欲が無い状態である方が、相対的な優劣を競う場合には自らには有利なのだ。我々の効率至上主義社会は相対的な競争で成立している事は否定出来ない事実なのである。

そう云った不幸な社会の仕組みを薄々知りながらも、子供らしい正義感で利己排他から踏み留まっているのカモ知れないし、バレルと不利だとあからさまな排他行動は控えているのカモしれない。教員や親は、あらゆる事を相対的競争として処理しようとする癖に、子供達には許さないと云うのも判らない理屈だ。

成人した立派な大人で構成された我々の社会が、子供達に誇れる市民的成熟を果たせていない現状を鑑みても、学校で子供達に市民的成熟を支援するカリキュラムを組んでも無意味だろう。いじめは悪い事・・・だと誰もが言う。「何故、人を殺してはいけないのか?」と同じ切り口で、
「いじめられる側は、いじめられるのは嫌なので、いじめは悪い事」なのだろう。何故、悪い事だと知っている「いじめ」が行われるのか?は、悪い事だと知っている窃盗や暴力や殺人が行われるのと同じく行為者側への何らかの現世的な利益があるから・・・だと思う。スッキリする、面白い、一緒になっていじめないと自分が次のターゲットになる・・・、こうしたいじめに纏わる現世的な利益を破壊する事こそが教育現場に於けるいじめ対策なのだろう。

成人した立派な大人で構成された件の中学校や教育委員会が当初「いじめ」を否定したのも、業務を適切に遂行していないと「無能」の烙印を押されて排除されたり努力を怠った結果としての「自己責任」として冷遇されたりする「いじめ」に遭いたくなかったからだろうし、視聴率欲しさのマスコミや得点稼ぎの政治家から「いじめ」られたくなかったからだろう。だが、ネット上の正義とも結託して・・・業務を適切に遂行していないから「いじめ」られても当然だと日本全体から他罰的な「いじめ」に遭っているではないか?これを見て子供達が正当な理由が在れば全日本からフルボッコするような「いじめ」も正義の名の下に許されると思ってしまうのでは無いのだろうか?

業務を適切に遂行していないから、峻厳に責任追及され罰せられ排除されて当然なのだろう。そんな「出来の悪いモノ」は罰せられて当然なのだとして・・・、我々大人が身に付ける事が出来なかった市民的成熟を次世代の子供達には到達して欲しいという望みも叶わないだろう。「いじめ」が個人の邪悪さや暴力性だけに起因すると思わない。正義を語るマスコミは、出来の悪いモノをいじめる事を商売のタネにしているでは無いか?彼らに許されて「いじめっ子」には許されない理由は何だろう?































「いじめは承認要求の裏返しだから、教育現場では子供達全員の個性を認めてやって欲しい」と云ういじめ対策を知人から御提案頂いたが、教員をしている妻を見ていて・・・(平等に)子供達全員の個性を認めて子供達全員の承認要求を満たし続ける事は教育現場では不可能だと思っている。公立の教育現場でも効率至上主義は導入されつつあり生産性の低い個人は排除されていく傾向が強まっていて(対全員は不可能なので、一部の生徒に対して)生徒本意の指導をする先生は(教科指導・学年運営としての)本来の仕事が出来なくなり(その皺寄せが周囲の同僚に及んで、既に手一杯の仕事を抱えている同僚にも無理が掛かり)本人か同僚が(精神的重圧か過労で)倒れて休職するか、退職するか、出校拒否するか、仕事を巡って同僚と衝突を繰り返すかと云う修羅場になっているのだそうだ。公務員の世界で、効率至上主義が徹底した民間企業の厳しさを理解できるのか否かは不明だが、妻曰く「携わる全員が同じテンションで平等に仕事をしたい。サボる人や生産性の低い人がチームに居ると自分自身が困るので排除したいと思ってしまう」が、悪だとは思えないのは私自身も効率至上主義に毒された結果だろう。 浜の真砂は 尽くるとも・・・だろうか?


(もう少し、良い人ぶって書く事も出来たカモ?)

こんな感じでアップしておきますね。

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