JEC狭山福音教会(大阪狭山市)の聖書・キリスト教・例話コラム

大阪狭山市にあるJEC狭山福音教会(プロテスタントキリスト教会)の牧会スタッフによる聖書・キリスト教・例話コラム。

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メッセージレジメ@2011年6月26日(川崎 豊信)

2011-06-28 12:21:59 | 聖書
日時:2011年6月26日
場所:狭山福音教会(第4主日)
聖書:詩篇92:12~15
題:「教会へのコミットメント」
ビデオはこちら→*
 
詩篇92:12~「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。2:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。」

ジョーク①
 根津博物館の館長・根津公一さんは搭乗中の飛行機がエアポケットに入った時に、コーヒーを運んでいた客室乗務員が思わず「ヤベー」と叫んだのを聞いてしまったそうだ。
 その客室乗務員は、とっさに「で、ございます。」と続けたとのこと。
 会社にコミットしたCAの話である。

ジョーク②
 次は、教会にコミットした受付奉仕者の話である。
 教会に初めて来た人に「お名前は?」と聞くと、「たぬきです」と答えた。
冗談だと思った受付の人は「私はキツネです」と言ったら叱られた。
 その人は本当に「たぬき(田貫)さん」だったのだ(本当にあった話らしい)。
(「ジョーク202」より)

 以上は、会社にコミット(根差す)したCAと教会の受付係にコミットしようとした奉仕者のジョークである。

 さて本日は「教会へのコミットメント」ことについて聖書から見てゆきたい。ここで使うコミットメントの意味は「その場の感情や状況に流されるのではなく、一度決めたことをしっかりとやり通す」という意味である。ポイントは以下の3つになる。


~~~~~~~~~~~~~~~アウトライン~~~~~~~~~~~~~~~~~
A 聖書的理由(エペソ5:25~)
-キリストは教会を愛したてあげた-

B 実際的理由(エペソ4:11~)
-神の家族には神の子らが必要である-

C 個人的理由(詩篇92:12~)
-霊的成長のために互いに支えあい戒めあうために-
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 聖書的理由(エペソ5:25~)
-キリストは教会を愛したてあげた-


参照聖句→エペソ5:25~「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

* 25節「キリストが教会を愛し」→キリストは教会を導き、養い、生涯、教会とともに生活する。これと同様に夫は妻を愛するように勧められている。
* 27節「栄光の教会」→なぜキリストが教会を建て上げられたのか?その問いの答えは次のEGに集約されている。EG→「神が見える教会を造られたのは、人間が集まって礼拝と交わりをともにすることを必要としているのを、考慮されたからである。 それは人間を、現実的で具体的な方法によって助けるためである」 
ハロルド・リンゼル・元フラー神学校伝道学教授

(メッセージA)
 あなたの霊的成長、神の国の拡大のためには、しっかりと自分の教会を見つけてコミットしてゆくことが大切である。
 でないと根無し草のようになり、霊的・人格的に成長が難しい。
成長のためには自分の教会を見つけて、やがては消費者として行くというよりも奉仕者として行く必要がある。

(例話A)
 高山右近(1552~1615)は、信長や秀吉に仕えた、戦国時代を代表するキリシタン大名であった。
人を裏切るのがあたりまえの戦国時代にあって、最後まで愛を信じたのが右近である。そして、人をめったに信用しなかった豊臣秀吉からも、信頼されていたという。右近が誠実な人となれたのは、ある事件がきっかけであった。
 右近は永禄7(1564)年、12歳で洗礼を受ける。キリシタンの父親から半ば強制されての受洗であったため、最初はあまり信仰に熱心で時なかった。洗礼を受けて9年後の1573年、21歳の右近は大阪・高槻城の城主、和田惟長(これなが)に仕えていた。

 惟長とは父親同士が友人で、幼いときから共に過ごした兄弟のような間柄であり、互いに尊敬し合っていた。ところが、右近に家臣たちの人望が集まると、惟長は右近の暗殺を企てる。その噂を聞いた右近は、敵意をあらわにして惟長を問い詰めた。すると、惟長がいきなり斬りかかってきたため、右近も応戦し、右近は惟長を殺してしまう。
 兄弟同然の惟長を殺したことを後悔した右近は、自分を責め続ける。惟長に刀を抜かせたのは、自分が敵意をもって惟長に臨んだからではないのかと。苦しむ右近の脳裏によぎったのは、幼い頃に接した、「敵を愛せよ」というキリストの教えであった。右近はあらためて宣教師を招き、話を聞く。そして、どんな敵でも愛することで味方に変えられるはずだと、悔い改め、信仰を深めた。
 
 新しい高槻城の城主となった右近は、キリストのように、たとえ裏切られても愛を貫く大名となったのだ。
 21歳で城主となった右近は、キリストの愛を領地で実践した。まず、領内各地に20以上の教会を建設し、仕事のない貧しい人たちを雇って管理を任せた。更に、今で言うボランティア団体を組織し、戦いで親を失った孤児や貧しい人たちの病気の治療を行った。つまり、領民の生活保障や恩給制度のある福祉国家をつくったのだった。また、他の多くのキリシタン大名がしたように、寺院を破壊することをせず、仏教に対しても隣人を愛する心で接した。それまでの領主にはない思いやりのある政策に人々は感動し、高槻の嶺民2万5千人の7割近くがキリシタンとなる。

 城内には教会と庭園が造られ、高山右近夫妻とその両親は、宣教師たちから聖書の話を聞き、歓談し、祈りの日々を送っていた。将来の日本に必要とされる聖職者を養成するセミナリヨ(神学校)を設立し、宣教師(バテレン)たちの家を建てた。右近は、時には説教を引き受け、御言葉を人々に語った。妻はこの夫を心から敬愛していたという。

 右近がキリストの愛に基づいて、まず領内に教会を造った。そこで人々は救われ成長した。教会が基盤となって福祉事業が成功した。目に見える教会はこのように推進力のあるものだ。キリストが愛し力強く働かれるからである。
 私たちは、キリストが愛した教会をおなじように愛し建て上げるべきである。
(「御翼」より)

B 実際的理由(エペソ4:11~)
-神の家族には神の子らが必要である-


参照聖句→エペソ4:11~「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

* 4節「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」→使徒とは①キリストと出会った者②奇跡の賜物がある③主から召命を受けた者。マタイ10章では12名、後にパウロが加わった。預言者とは神から直接に与えられた啓示を人に語る者。伝道者とは福音を述べ伝える者。
* 4節「お立てになった」→ここでは働きの分与について書かれている。奉仕的な賜物についてはロマ12章に、霊的な賜物については1コリント12章に書かれている。

(メッセージB)
 チームにはチームメンバーが必要である。学校には生徒が必要である。サッカーチームには選手が必要である。神の家(教会)には神の子(教会メンバー)が必要である。教会にメンバーがいれば一人でするよりも大きな事が出来る。また深い事が出来るのだ。

 チャーチホッパーとは自分の都合であちこちに教会を変える人である。神中心に考えずに感情のおもむくままに行動する人である。その結果として新しい人を混乱させたり、チームを分裂させることになる。チームメンバーであればチームにコミットして自分の賜物をもって仕えることである。

(例話B)
  エルヴィス・プレスリーが9歳で洗礼を受けた教会が、保存されることとなった。50年以上放置されていた小さな礼拝堂は、2008年に修復され、エルヴイスの生家の近くに展示された。

 エルヴィスは、ここで神とゴスペル音楽に出会い、牧師からギターのコードを学んだ。48名の席しかなく、ステンドグラスなどの飾りが全くない、1920年代~30年代の典型的なアセンブリー・オブ・ゴッド教会(ペンテコステ派)である。初期のペンテコステ派の教会は、福音を伝え、宣教師を送り出してイエス様を伝えることに熱心で、立派な礼拝堂を建てること・には関心がなかった。今にもキリストが再臨するかもしれないという信仰から、朽ちる建物にではなく、魂の救いのために献金を使ったのだ。エルヴィスは、自宅から歩いて行けるこの教会に13年間出席した彼の両親は献身的な教会員で、殆ど毎週礼拝に通い、牧師のこともよく知っていたようだ。

 「プレスリー一家が、質素な教会に通ったのは、見栄を張るためではなく、教会音楽と説教、そして交わりから素晴らしいものが得られたからであろう」、とアパラチア州立大学のゴッフ教授は言う。残念ながら教会でのエルヴイスの写真はないが、「エルヴィスの音楽の好み、信仰と礼拝への理解は、この教会で形成されたと言える」と教授は語った。

 生前のエルヴィスは、家族、友人、他人のために、キャデラックや現金、宝石を与えたり、治療費を払い、家を買い、多くの家族を支え、借金を払い切った。また、-多くの慈善団体に毎年寄付を送り続けた。その寛大な行為は、メンフィス大学のエルヴィス・プレスリー奨学金基金と、エルヴイス・プレスリー慈善財団に継承されている。また、与えるという伝統は、世界中のエルヴィス・ファンクラブにも受け継がれており、各ファンクラブはエルヴィスを偲んで、慈善事業に深く関わっている。

 プレスリーの公式ホームページには、「与える方が幸い」と書いてあった。クリスマスの時期に、一口15ドル寄付すると、彼の記念館にポインセチアが飾られる。そして、その寄付金はプレスリー・プレイス(プレスリーの別荘)の選営費となる。プレスリー・プレイスとは、12棟の集合住宅であり、2001年にエルヴィス・プレスリー慈善財団によって建てられた。ここでは、ホームレスの家族を、一年間住まわせ、働きながら職業訓練校に通ってもらい、お金の管理の仕方、親業、健康管理などを教えることで自立の道を援助する。これまでに(2010年7月現在)、190人の親と300人の子どもたちがこの施設を利用している。プレスリー・プレイスに住むクレイボーン氏はこう言う。「この施設は、この世には、他人を心配し、配慮してくれる人々がいることを教えてくれた。将来、私自身も、メンフィスの負の部分を消滅させるために努力したい」と。
(「御翼」より)

 エルヴィスの与える精神は、この世の財産に固執しないペンテコステ派教会で少年の頃に培われたのであろう。プレスリーが一つの教会で成長したことの結実である。大きな教会ではなかったが、プレスリーにはそれで十分であった。じっくりと牧師からコードを習い、実際に奉仕をし、信仰について家族でじっくりと学ぶことが出来たからだ。
 セキュラー(世的)な世界に大きな影響を及ぼしたプレスリーの土台は、信仰の初めに一つの教会で培われた信仰によるところが大きいのだ。

 私たちも、教会に根付こう。教会には教会メンバーが必要である。神の家族には神の子が必要である。
 その教会が教理的に間違っているのでなければ、教会を移ることは考えものである。チャーチホッパーはどの教会に行っても満足することはなく、結果として自分を神よりも優先させるようになるからだ。

C 個人的理由(詩篇92:12~)
-霊的成長のために互いに支えあい戒めあうために-

参照聖句→詩篇92:12~「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。2:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。」

* 12節「なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように」→ナツメヤシは繁栄の象徴。レバノン杉は成長の良い良質な木として有名であった。
* 13節「主の家に植えられ、私たちの神の大庭」→正しい者が神殿に移植されて生育する木にたとえられる。正しい者とは救われた者。
* 14節「彼らは年老いてもなお、実を実らせ」→モーセは120才で召されたが、目はかすまず、気力は衰えていなかったとある(申命記34章)。

(メッセージC)
 13節が中心。植えられというのは、神からの働きによる受動体である。教会は人が選んだというよりは神が植えてくださる所なのだ。
教会について聖書は信者が霊的・人格的成長のために互いに戒め、支えあう場所であるようにと教えている。
神の家族だから、ダイレクトに言ってしまって痛いこともある。しかし人は人によって研がれるから、結果として実を実らせおい茂ることになる。根無し草的な信仰生活ではだれからも霊的に指導、注意、戒めをうけられない。
 教会に根ざせば多くの支えを受けることができる。それは教会の内側と外側とから来る。

あなたが伝道して弟子訓練してゆくためには、教会に惚れ愛することが必要である。主が植えてくださった教会にしっかりコミットすることが大切だ。

参照聖句→箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

(例話C)
 脳の神経細胞には興奮型の連絡部によって細胞を興奮させるものと、抑制型の連絡部によって興奮を抑えるものがある。
 悪の衝動に走る人は抑制型の連絡部が弱く、落ち着いていられるのはそれが強く働くからだ。
 これらの連絡部の活動は、幼児からの訓練によって鍛えられるから、放任していては抑制型が成長してこない。

 フランスの教訓ばなしに、その事を教えているかのようなものがある。子どもが盗みをし、見つかって父親のもとにつれてこられたが、叱られなかった。
 再び盗みをして父親の前に引っ張られてきたが、やはり叱らなかった。子どもは成長に従って悪事がひどくなり、ついに死刑の宣告を受け、処刑台に乗せられる日が来てしまった。
「最後の望みがなにかあるか」
「はい、おやじにあわせてください」
 すでに老いてしまった父親が処刑所にやってくると、息子はやにわに父の鼻にかみついた。「やい、おやじ。おれが何をしても注意してくれなかっばかりに、おれはとうとうこんなになってしまったんだ」。オイオイと泣きながら叫び続けた。
(「キリスト例話集」より)

 人には叱ってくれる人が必要だ。年齢が行くほどに叱ってくれる人は少なくなる。教会は友によって切磋琢磨し愛し合う場である。教会から離れてはいけない。

(結)
 一人孤独に生きるのではなく、仲間・チームに属することである。教会は神の家族である。支えあい戒めあうことのできるところだ。そして神を見上げて霊的・人格的に成長するところであるのだ。
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