勝海舟『氷川清話』(15) 政治家の秘訣
政治家の秘訣は、外に何もないよ。
只々正心誠意の四字ばかりだ。此の四字に依りて遣りさへすれば
縦令如何なる人民でも、」是に感服しないものはない筈だ。
又、縦令如何なる無法の国でも、故なく乱暴するものはない筈だ。
所で見なさい、今の政治家は、僅か四千萬や、五千萬足らずの人心を収撹することの出来ないのは勿論、何時も列国の為に、恥辱を受けて、独立国の体面をさへ全うすることが出来ないとは、如何にも歯痒いではないか。
つまり彼等は、この政治家の秘訣を知らないからだ。
よし知つて居ても行わないのだから、矢張り知らないも同じことだ。
何事でも凡て知行合一出なければならないよ。
そこで先ず内政の事にしろ、畢竟此の秘訣を知らないから、何事でも杓子定規の法律万能主義でやらうとする。
それは理屈は中々つんでも居やうが、どうも法律以外、理屈以上に、云ふに云はれぬ一種の呼吸があつて、知らず識らず民心を纏めると云ふ風な妙味がない。
徳川氏などは、深く此の辺に意を用いたものだ。
譬へば、久能山だとか、日光だとかいふものを、世の中の人は、ただ単に徳川氏の祖廟とばかり思つて居るだらうが、あれは決してそうではない。
彼所には、ちゃんと信長、秀吉、家康、三人の霊を合祀して在るのだ。
一方天下に厳命を下して、豊国の廟を毀たしめるかと思へば、他の一方には、又こんなに深く意を用ゐた所がある。
これで織田豊臣の遺臣等も、自然に心を徳川氏に寄せて来たものだ。
この辺の深味は、迚(とて)も当世の政治家には解らない。
全体、徳川氏の遣り方は、
今云つか四文字の秘訣を体認して、能く民を親しみ、其の実情に適応する政治を布くに在つたのだ
そして其の重んずる所は、其の人にあるので、法律規則などには、余り重きを置かなかつた八代将軍に到りて、始めて諸法度の類も出来上った位だが、
是れとても総べて北條時代の式目が土台になつて居る。
それは彼の貞永式目といふものは、深く人心に染込んで、
久しく世に行われて来たものだから、
新たに土台から作りかへるよりは、此の舊慣に依る方が、
却つて人心を治め易いといふ深い処から出たのだ。
中々注意したものではないか。
夫れで、此の民を親しむについて、
民間の実情を探る為めには、余程骨を折ったものだ。
東照宮の如きも、駿府に隠居せられた後は、
只々ぢつと城中に引き籠つてでも居られたかと思ふと、
どうしてどうしてなかなかさうではない。
常に駿府近傍の庄屋とか、故老とか云ふ人々を集めて、
囲碁会といふものを催ふし、
輪番び其の人々の家へ碁を打ちにいかれたさうだ。
今に静岡近傍の旧家には東照宮が来て碁を打たれた、
と云ふ座敷がだんだん存して居る。
なに、ほんとに道楽で碁を打たれた、
と云ふ座敷がだんだん存して居る。
なに、ほんとに道楽で碁を打たれるものか。
只々かかる席上の事とて、互に無遠慮になり、
出放題の世間話なども出て来て、
果ては賓主相忘れるといふやうな佳境に入ることが、
取りも直さず、東照宮の深慮の存する所であつたのサ。
三代将軍の如きも、
此の点には深く意を用ゐられた、旧御城内に大玄関の外に、別に一つ小さな玄関があつた。
何の為めの玄関かと思つて、よく調べて見ると、これぞ三代将軍か、市中を微行せられる時分に出入せられた玄関といふことだ。
大玄関から出入すると、色々の面倒があるから是れを避ける為めに、態々此の玄関を作って置いて、何時も近習二三人を具して、其所から出て
市中を歩きまはり、民間の景況を視察せられたと云ふ事だ。
その時分、今の番所々々に壮年血気の番士共が集まつて、撃剣をするやら、相撲を取るやら、元気の事ばかりして居たさうだが、将軍には、特に此れが気に入って居られたと云ふことだ。
これに付いては某といふ重臣だ、
今一寸其人の名を忘れたが、其の人の如きは、
在日将軍の御前へ出て、
将軍が市中を微行せられるのは如何にも危険だといふことを諌言したが、
併し将軍のことだから、毫もそれを顧み給はなかつた。
そこで、其の人も致し方なく、其の儘御前を罷り出でた。
然るに、其の夜将軍は、
例の通り近習を従へて、日本橋辺を微行せられた。
此所彼所の模様などを打ち眺めつつ歩いて居られた。
所が向ふから、雲突くばかりの大の男がやつて来て、いきなり将軍に突き当った。
将軍は、あの通りのきかぬ気の方であられたから、
勃然として直ぐに其の男に組み付いて、
取って投げやうとせられた。
けれども其の男大変な腕力家で、
却って将軍を放り投げて、一目散に逃げて仕舞つた。
翌日になると、其の某は御前に出て、
『只今御近習より承りますれば、
昨夜も亦微行なされました趣ですが、何ぞ面白いことでもありましたか』と御尋ね申した所が、
将軍は『いやまた世間もなかなか油断が出来ぬ哩。
昨夜は斯く斯くのことでひどい目に遇つた』と件の顛末を話された。
然る処某は何喰わぬ顔して『それは誠に御危険のことで』と云つたままで、
御前を罷り出た。
将軍も扨ては彼奴めが、と思召されたけれども、
流石は将軍のことであつたから、
其の儘お許しになつたさうだ。
どうだ、創業勵時の元気が、
躍然として此の話の内から窺ひ見られるではないか。
其の後、漸く治世になるにつれて、
徳川氏も次第に文弱の風に感染して来たが、
それでも八代将軍の時代には、
まだ質樸簡易の元気が認められたやうな話がある。」
或る時、八代将軍が、目黒へ鷹野に行かれた。然るに其の鷹野の最中に、
一人の馬子が、悠々と馬を引いてその場へ遣って来た。近習の人々は、
之を見て、馬子の無礼を怒り、ひどく叱責を加えた。
処が馬子め、平気で『何箟棒め、鷹野がなんだい。』と罵り乍ら行き過ぎ哉うとした。
将軍は何と思われたか、誰かあの馬子を投げてみよ。』ちょ言われたから、
近習の人々二三人、馬子を中に取り囲んで組みついた。
所が馬子め、頗る豪の者で、却って近習の人々を取って投げて、
又悠然と行つて仕舞つた。将軍はこの有様を見て、
莞爾として『馬子でも中々侮れないよ。』と一言せらたのみで、
何の御尤めもなかつたと云ふことだ。
どうだ面白い話だらう。
其れはま閑話休題として置いて、内政のことを今少し話さう。
日本国中で、古来民政の能く行き届いた処は、
まづ甲州と、尾州と、小田原との三ヶ所だらうよ。
信玄や、信長や、早雲の遺徳は未だこの三ヶ所の人民に慕われて居るらしい。
信長といふ男は、流石に天下に大望を持って居ただけあつて、
民生の事には、深く意を用ゐて、租税を軽うし、明力を養ひ、
大いに武を天下に用うるの実力を蓄へたと見ゑる。
今日尾州へ行つて、よ吟味しなさい。
当時の善政良法が、今尚ほ歴々として残って居ることを見出すだらう。
信玄が唯の武将で中つたことは、
一たび甲州へ行けば直ぐに解る。
見なさい。かの地の人は、今でも信玄を神として信仰して居るのだ。
これは当時民政がよく行き届いて、人民が心服して居た証拠ではないか。
その兵法如きも、規律あり節制ある当今の西洋流と少しも違ひはない。
近頃まで八王子に,信玄当時の槍法が遺つて居て、
毎年一度その槍法の調練をすることになつて居たが、
其の槍を使うのを見ると、
近頃のやうに、御面御胴といふ風な、個人的の勝負ではなくつて、
大勢の人が、一様に槍先きを揃へて、
えいえいと声をかけながら、初めは緩やかに、
次第次第に急になり、漸く敵に近づくと、
一斉に槍先を揃へて敵陣に突貫するのだ。
一寸見た所では、甚だ迂潤の哉うだが、
おれは後で西洋の操練を習つたから、
始めて此の法の頗る実用に叶つて居ることを知った。
又、揃いの赤具足をその将士に着せて、敵の目を奪ひ、
兼て味方の士気を鼓舞したのなどは、
大いに今日の西洋風に叶って居る所がある。
之が実に信玄の遺法であつて。
後生井伊家の特色となったものだ。
早雲といふ男も傑物であつたに相違ない。
赤手空拳で以て関八州を横領し、甘く人心を収撹したのは、中々の手腕家だ。
当時関八州は、管領の所領であつて、万事京都風で、小六ヶ敷ことばかりであつた。
丁度方今流行の繁文縟禮であつたのだ。
其処へ早雲が来て、この繁文縟禮の弊風を一掃してしまひ、
また苛税を免じて、民力の休養を計つた。
つまりこれで甘くめたのだ。
徳川時代には、小田原付近から、関八州へかけてが、
全国中で一番地租の安い所であつたがこれは全く早雲の餘澤だ。
それで、北条氏が滅んだ後に、徳川氏が駿遠参の故土から、
この関八州へ転封させられたのだが、
もともと租税の安い所えあつたから、
徳川氏の方では、其の實、非常の迷惑であつたのだ。
太閤といふ男は、中々の狡猾者で、
よくこの事情を承知して居りながら、
所謂その名を与えて、その実を奪ふの政策に出でたのだ。
併し、其所は流石に徳川氏だ。
少しも早雲の遺法を頽さず、従来の為来りに従って、之を治めたのである。
併し如何に治氏の術を呑み込んで居ても、
今も昔も人間万事金といふ者が其土台であるから、
若し之れが無かつた日には、如何なる大政治家が出ても、
到底其の手腕を施すことはできない。
見なさい。如何に仲のよい夫婦でも、金が無くなって、
家政が左り前になると、犬も喰わない喧嘩を遣るではないか。
国家の事だつて、其れに異なる事はない。
財政が困難になると、議論ばかり八釜しくなつて、何の仕事も出来ない。
其処へ付け込んで、種々の魔がさすものだ。