江戸で公儀彫物師、徳川家御用務めた高松又八郎邦教の愛弟子だった、
異才石原吟八郎が亡くなったのは1767年。
日光東照宮の修復を手掛ける又八郎の仕出として、
又八に可愛がられ、
息子吟八、星野政八、小倉弥八、大塚三次郎、
石原常八郎、前原藤次郎、高瀬万之助、文治郎らに技を伝え、
妻沼聖天堂で病に臥せってから、
鑿をふるうことは無かった吟八郎。
日光東照宮から関東特有の彫りは、
上州花輪集団の彫師に代々、引き継がれ参拝者の目、今は点。
吟八郎が亡くなる2年前から若御子神社彫り始めた、
山名(高崎)八幡宮、
文治郎が、息子千次郎の嫉妬を背で受けて、
これぞ「跡目の彫師」と認めた福田源治郎。
以後、並木源治の名で、足跡を残す。
1769年6月14日文治郎39歳、
勢多(高崎)山名の荒れ地、烏川の傍に、
「木鼻の龍鼻」が出来上がる。
ここで、へまをするわけで、脇障子、文治郎の作のファイルがないわけで・・・。
写真 2018.6.18 高崎市山名八幡宮
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