鍼たま抜粋記

表参道・青山にある鍼灸院が発信するブログ『鍼たま』の中から、東洋医学・鍼灸に関連することを抜粋したブログです。

ちびまるこちゃんの藤木君

2011-02-10 01:46:54 | 東洋学・鍼灸について
いつの間にか長寿番組の中身入りをしている「ちびまるこちゃん」。ひところのブームは落ち着き、日曜日のお茶の間の一ページに定着。このちびまるこちゃんの登場人物はバラエティに富んでいますが、クラスにも必ず一人はいるようなキャラクター群が、「いたいた!」という親近感を持たせてくれています。
そんなキャラクター群の中で注目したのが、藤木君。
藤木君
藤木君は胃腸が弱くていつも暗いキャラ。この「胃腸が弱い」というのと「暗い」というのは、東洋医学的視点から見ても、とても絶妙な性格付けがされていると思います。
人間は生きるために呼吸、飲食、排泄を続けていかなければなりません。この一連の働きが滞りなく行われていれば無病であり、大きな病気にもかかりにくいのですが、逆に言えば、呼吸がうまく出来ない、食欲にばらつきがある、便秘がちである、というところから病の元が始まっているとも言えます。
藤木君の場合、そのうちの飲食(胃腸)がうまくいっていません。それは、彼の血色の悪い顔色や唇の色からわかります。年齢から考えると、おそらく小さいときから慢性的に胃が弱いのでしょう。
胃には、東洋医学では「水穀の海」という呼び名があります。「水穀」とは体の気・血の元になる原材料のことを指しており、胃は口から入ってきたものを消化して腐熟させ、体の原材料の元をつくり、できた水穀をここから五臓六腑へ供給していくので、その様を「海」と表現しました。この気・血の安定は、身体への供給だけではなく、精神の充実にも大きな働きをします。身体の栄養状態、精神の安定状態両方にとって、この胃のはたらきは非常に重要になります。
現代の生活では、ビールを飲みすぎて胃を冷やしたり、コーヒーや甘いものの摂り過ぎで胃壁を悪くさせたりと、胃を酷使する方向へ行きがちです。胃は大切なはたらきをしているので、普段の生活において、胃を大切にしてあげてほしいものです。
藤木君が普段どのような食生活をしているのか分かりませんが、心身ともに楽しく朗らかに成長していってほしいと願います。
それにしても、「ちびまるこちゃん」の後に放送される「サザエさん」に出てくるアナゴさんも、相当顔色が悪いなぁと思ってしまいます。

車寅次郎とさくらの五行関係

2011-02-02 15:38:16 | 東洋学・鍼灸について

 

 

今日は日本の映画史上に残る『男はつらいよ』で東洋医学の五行関係を考えてみようと思います。

 主人公の車寅二郎は豪放磊落で人情味あふれる自然な人です。地方で仕事をしてるかなと思ったら、何の前触れもなくぷらっと柴又に帰ってきたり。そして決まって一騒動を起こして、身内やご近所さんを巻き込んでしまう。。ある回を境にして『男はつらいよ』の構成パターンはだいたい決まってきますが、毎回映画の最初のほうで必ずとらやの隣にある朝日印刷のたこ社長とケンカをします。たこ社長の茶化しを真に受けた寅さんの怒りの沸点が一気にカッとなってはじまるこのケンカは、毎回とても派手なものです。このカッとなりやすい性格は「怒」で、肝に属し東に位置します。

 それまで笑いながら会話をしていた団欒が崩れ、ケンカという修羅場になりますが、このケンカの収束をつけるのが寅次郎の妹・さくらです。さくらは慌てて、そして悲しい顔をしておいちゃん、おばちゃん、たこ社長の間に入ろうとします。すると寅次郎は徐々に冷静さを取り戻して我にかえっていきます。寅次郎には寅次郎なりの言い分もあったのですが、ばつが悪くなり居場所をなくしてまた外に出てしまう。さくらはその兄を涙交じりに諌めつつ、出て行く兄を留めようとします。同じパターンと分かっていながらも、このさくらの切なく複雑な表情にぐぐっときてしまいます。このときのさくらは、感情でいえば「悲」です。「悲」は肺に属し、西に位置します。

 この寅次郎とさくらの関係を五行で分析してみますと、西(金)が東(木)を制するという形になり、ぴったりと説明がつきます。東は木で、西は金でありますので、木の勢いを金がばっさりと切っていることになるのです。

 このように東洋医学の視点で『男はつらいよ』を観てみると、意外な発見や、また違った楽しみがあるかもしれません。


曹操孟徳と東洋医学

2011-02-01 22:24:01 | 東洋学・鍼灸について
漢末の三国時代は、魏・呉・蜀で覇権を争った混乱の時代です。魏は曹操、呉は孫権、蜀は劉備。『三国志』では蜀の劉備が主人公で善玉、そして曹操は「治世の能臣」「乱世の奸雄」と評されるように、悪玉として描かれています。しかしその一方で、本当は曹操は清廉な政治家であり、実は曹操が主人公であったという説があるほどで、時代の評価によって裁かれた物語といえなくもないようです。

本日は、その曹操と東洋医学の接点を見てみます。

曹操と関係する医家は三人います。
それは張仲景(ちょうちゅうけい)、王叔和(おうしゅくか)、華佗(かだ)の三人です。
張仲景は中国では「医聖」と呼ばれる人で、現在でも湯液学の原典になっている『傷寒雑病論』という書物を記しています。
次の王叔和は、『脈経』という脈診の総合書を書いた人であり、『脈経』は脉診についてまとめた最初の本ともいえます。
そして華佗は「五禽の術」と呼ばれる健康体操(導引)を創始したとされており、また、数々の秘話を持つ伝説の医家であります。
これら、中国の医学史の中でも名前の通った3人がいずれも曹操と接点を持っている。
曹操は頭痛持ちだったようです。そしてその頭痛は曹操にとっても悩みの種で、その対処にはかなり神経をすり減らしていたようでもあります。権力者に登りつめていく中で、ストレスもたまっていたでしょうし、年を取るごとにどんどん悪くなる一方であったと言います。権力を持ちながら頭痛もちでもある、そういった背景からして、曹操自身がいろいろな治療方法を探し求めていたことは容易に想像がつきます。
『脈経』を書いた王叔和は、魏王国の太医令(一番くらいの高い医者)にまでなっています。
さらに、華佗に関しては、曹操の頭痛を鍼灸で治療し、かなりの効果を上げていた言います。曹操は華佗の腕にほれ込み、華佗を自分の下に置こうとするのですが、庶民の中の医療人として生きる華佗にとって、曹操の申し出はありがたくなく、それに応じません。それに怒った曹操は、華佗を捕まえ、終には死刑にまでしてしまいます・・・。その後曹操の息子が病気になり、治ることなく若くして亡くなります。そのときに曹操は、「私が華佗を死刑にしたことで、息子の命まで奪ってしまった・・・」と嘆き悲しんだといわれています。
このように、『三国志』のもう一人の主人公、曹操にも、このように東洋医学との接点を持っていたのでした。
当時はまだ紙も出版技術もなく、その頃の本は失われています。また、華佗の医療も詳しくは伝わっていません。物語を通して華佗の足跡を知るのみです。
曹操孟徳の肖像

最後に陳寿の曹操評から・・・
「曹操は、才能ある者には、官職を授け、各人の器により才能を開花させ、(中略)遂に、最高権力を握り、大事業を達成したのは、彼の明晰な構成力が、優れていたからである。曹操こそは非常に傑出した人物であり、時代を超越した英傑であるといえる。」

五臓六腑論の肯定と否定の歴史

2011-01-31 16:51:58 | 東洋学・鍼灸について
東洋医学の用語に「五臓六腑」という言葉があります。この五臓六腑と言う言葉は、ビールを飲んだときなどに、「五臓六腑に染みわたるね~。」と一般的に言ったりしますように、本来東洋医学の専門用語でありますが、一般にも使われるほどになじみがあるかもしれません。
そこで今回は「五臓六腑」についてまとめてみます。
五臓六腑を具体的に分けますと、以下のようになります。
五臓: 肝・心・脾・肺・腎
六腑: 胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦
さらにこの五臓六腑は五行に分けられ、色や感情など様々に配当され、東洋医学における生理学としてそれぞれの機能に分けられていきます。
鍼灸にはいろいろな流派が存在します。そこには、五臓六腑の考え方を肯定する肯定派と、古いものだと一蹴する否定派があります。そしてその中間を行く折衷派もあります。どれがいいとか、悪いとかではなく、各先生の考え方の違いと言うところでしょうか。しかし一般の方から見ますと、自分が受けようとする鍼灸院がどういった考えに所属するかわかりませんので、混乱してしまうかもしれません。
こういった混乱はどこから来るのでしょうか。
それは、まずは日本では、五臓六腑論を否定した山脇東洋(1705~1762)に遡ることになると思います。彼は日本で最初に解剖をした人で、その結果を『蔵志』(1759)という書物にまとめました。また、同時代の古方派・吉益東洞(1702~1773)も五臓六腑論を否定しました。こういった流れのもと杉田玄白・緒方洪庵・前野良沢の『解体新書』が出版されたことで、五臓六腑論は完全に否定されたり、または軽視される流れに拍車がかかっていったようです。そして現代医学がここまで高度に発展していく中で、五臓六腑論は東洋医学だけのフィクションになってしまった感があります。
では、否定派はどうして否定したのか?
それは、五臓六腑論に出てくる各臓器を、現代解剖学の知識で解剖学的臓器単位で割り振ったことに始まります。例えば五臓六腑論で取り上げている肝は、肝臓そのものをも含みますが、さらにそれを中心にしながらも、肝臓が表すはたらきを広く捉えたものであって、現代解剖学の肝臓そのものを指しているのではありません。東洋医学の肝は、広い意味での肝臓を指していますので、その捉え方に食い違いが出てくるのも当然です。
前述したように、日本で最初の解剖をしたのは山脇東洋ですが、解剖そのものは古代に既に行われていました。東洋医学の原典『黄帝内経・霊枢』のには、「人が死んだときは解剖して之を視るべし」と記述されていることからもわかりますように、古医書の世界の人々も、解剖をしていなかったわけではありません。実際の目で確認しながらも、それを臓器単位で捉えようとしなかっただけなのです。
以上のように、解剖学的な臓器単位と五臓六腑論を短絡的につなげてしまったことが否定・軽視の始まりだったのではないでしょうか。
以前ネットで「五臓六腑」という言葉で検索をしたことがあります。
そしたら渋谷にある「五臓六腑」という居酒屋さんが出てきました。今度鍼灸学校当時の友達と飲むときは、そこへ行ってみようと思います。そしてそこでは「五臓六腑論」で大いに盛り上がってみたいと思います。

四診法(ししんほう)

2011-01-31 16:22:08 | 東洋学・鍼灸について
東洋医学の診断方法には四診法(ししんほう)というものがあります。
東洋医学では、診断方法を望・聞・問・切の四つに診断方法を区分しており、それらをあわせて四診法と呼んでいます。
四診法のそれぞれを簡単に説明すると以下のようになります。
望: 外見、容姿、歩き方など外から見て診断すること。
聞: 発声、臭いなどから診断すること。
問: 症状などを問診をして診断すること。
切: 脈診、腹診など直接患者さんに触れて診断すること。
これらを駆使して身体の状態を把握していきますが、古医書を読んでみますと、これらの技は望、聞、問、切の順にランク付けがされています。最初の「望」が上手な人、つまり患者様の身体を見ただけでどこが悪いかを把握できるのは一番優秀であると書いてあります。こういう優れた人も中にはいると思いますし、かなり熟達すればその境地まで達することが出来るのでしょう。しかし、それだけでは不十分だからこそ、その後の聞、問、切が必要になります。
私は、この四診法が説明されている順序は、その診断方法ができるできないの力量のランク付けではなく、望、聞、問、切の順番に患者様の身体に尋ねなさい、という診断の順番を示した指針であると思います。そして、望、聞、問、切はどれをとっても切り離せるものではなく、それぞれの診断方法がお互いにかみ合ってこそ力を発揮するものですので、お互いがお互い補完しながら患者様の身体を考察していくために、この順番が必要なのだと思います。とかく東洋医学・鍼灸医学においては、脉診の重要度が強調されますが、あくまで脈診は最後の確認と治療方針の決定のためで、それまでの望、聞、問がないと脉診も生きてきません。
「木を見て森を見ず」といいますが、「脈を診て身体を診ず」となっては、心身一如の全体治療を標榜する東洋医学にはなりえず、本末転倒になってしまうのでは、と思います。そこでやはり、四診法の修得にも気を遣っていかなくてはならないと思うのです。