経済学部の学生で、国民経済学の基礎となる理論経済学を好む人は圧倒的に少数である。今日では、高等数学が理解できないと、TEXTだけでは、最先端に理論が理解できないし、さらに、新たな知見をえることは難しいからだ。同様に、あらゆる分野で、理論的に原理を詰める思考は、万人向きではない。ここに、Whyを理で詰めることと、大衆化された大学教育とは両立しない。すでに、教授人が理論経済学という予選を通過し、理論に強いという自負すら衰えてきた。まして、原理論へ還元し、原理論を修正するために個別の専門を研究しているわけではない。他方、誰でもなじみやすいのが、Howの思考である。とりあえず、具体的に「どうのようにするか?」というマニュアルを作成し、それを社内教育で上手く刷り込むと、企業としては業務の流れが成立する。しかも、「新らしい」開拓は、古いHowを実際の経験にあわせ、新たに書き換えることから始まる。Howの世界では、製造業が自己金融の機能を持ち始めた。ソニーが最初にその道を切り開いた。トヨタが自然の流れで、自己金融力を高めた。パナソニックもそうである。その結果、日本の産業界では、金融が専業として存立の危機に立たされた。これは、Whyという根源的な問いをしても構わないが、今日は辞めておく。金融業は、預金利息を共同で引き下げ、銀行にとっての負債を軽減するというHowに活路を見出し、投資信託という元本保証のない商品の手数料で生き延びる道を選んだ。すると、これは国民経済学として原理的に正しいのか、というWhy論が少数の理論好きから出てくる。これは、正鵠を得た疑問である。水野和夫という見るからにだめな人は、資本主義は終わったという。そうではない。資本主義の高度化と、社会主義の高度化とが「情報革命」のおかげで「新たに結合」進化し、SNSを通じ得られる情報が金融業界が得られる情報独占を崩壊させたからである。株式会社という制度が市場原理の基づき機能し始めたので、投資信託という金融技術が、シュムペーターのいう「新しい結合」の中心に躍り出たのである。馬鹿にされていた証券業が、「新しい結合」を読み解くセンサーとして機能し、同時に、株式市場のAI化のおかげで、過度の高等、過度の暴落に対する自動水準訂正の装置が機能し始めたからである。富山県の場合、クスリごとに市場予測が可能となる投資信託を創出し、人口よりも先行するような資金の流入を呼び込む「新しい結合」の装置が決めてとなる。Howが先にあり、Whyは後回しでよい。How思考の先に、Whyへの立ち返りが生まれる。
経済的には生き延びられるという楽観から、国家主義への回帰が控えられている。 goo.gl/x8MyG6
— 中村哲夫 (@shinjyugaku) 2018年4月16日 - 07:09
習近平思想の場合は、荀子の思想が基礎となっている。 goo.gl/KS9GwB
— 中村哲夫 (@shinjyugaku) 2018年4月16日 - 12:09