富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

中国のアメリカとの貿易戦争は、日本には危機だけではない。

2018年04月07日 | Weblog

<当前中美贸易逆差的一个重要原因是,美国政府限制对华出口,尤其是美国高科技产品本身具有很强的竞争力,却始终不愿卖给中国。>これは、中国側の主張である。アメリカの一番の強みである高度科学技術製品の対中輸出の制限を解除すれば、アメリカは対中貿易の赤字をすぐにでも解消できるではないか、と反論する。では、なぜ、アメリカは高度科学技術製品の対中輸出の制限を解除しないのか。それは、中国を軍事強国にする方向を加速するからだ、という反共史観が根底にあるからだ。さらに、中国は私有財産権を擁護する思想のない人類の知的資産の私有を否定する社会主義思想の国家である。ここに、米中は当面、根本的に和解できない。非和解的な静態構造が厳然としてある。また、アメリカと日本の関係においても、軍事機密に関しては、アメリカも市場自由主義を否定し、国家指令型経済原理を優先させている静態構造は変えられない。そのため、地球上のどこかで「危機」の火種が飯の種となる産軍体制を維持しなくてはならない。これは、中国も同じ産軍体制を構築している以上は、自国の体制は壊せない。日本が大事なのは、地球上の消費者である。その消費者が、世界のどの産軍体制であろうと顧客にするためには、巧みな商人型の静態構造を維持しなくてはならない。そのためには、国際的な情報も感性も知識もないような富山湾岸社会主義も死滅させてはならない。つまり、主役を総合商社におき、商人型の静態構造を維持するには、お馬鹿な野党を温室栽培しておく余裕もいる。と同じに、軍事技術という市場にも、高価格の部材という製品を売るには、情報や研究開発は欠かせない。「利をみて義を思う」程度に「憲法」をブレーキにおくのも、「利」である。これが、自由民主党においても、官僚の世界においても、財界の主流においても「暗黙知」として存在する。「和して同じない」というのには、第9条は実に便利な装置である。ここを完全に削除しないというのが国民的な合意である。だからこそ、アメリカと中国との貿易戦争という壮大なドラマにおいて、総合商社は実に賢く機能できる動態構造のなかにいる。例えば、ベトナムから中国への関税障壁は低い。だから、アメリカの農産物をベトナムで一次加工し、中国へ輸出すればよい。その逆に、中国からインド経由でアメリカに輸出できる道もある。第3国間の貿易ができるのが日本の静態構造である。たとえば、日本の盆栽は、ベトナムで生産され、中国市場へ流される。そこに顧客が存在するからだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天から、どういう死を賜るのか?

2018年04月07日 | Weblog

僕は海の釣りが大好きだが、そこにはリスクが伴う。漁業が天職でないから、海で死ぬのは天が下す罰をうけるに等しい。山登りにも挑戦しない。あこがれはあるが、読書の山を上りきった達成感は、どんな場面でも、それを活かせる。山頂に立つのは、刹那である。あえて、自然にリスクを求めることはできない。天命、天職は、どこにあるのか。それは、天恵の「脳」に与えられている。この「脳」は、耳目や、皮膚や、舌や、あれこれの感覚器官からの刺激により、コンピューターでいえば、OSオペレーション・ソフトが母体になかにいるうちから形成され、五感で形成された「意識」の静態構造が固まる。いわゆる3歳児jの魂である。厄介なのは、この静態構造には、自分で分からない「無意識」というバックヤードのデータ・ファイルが自動形成される。記憶力でもなかなか呼び出せない。これを呼びだすには、「三省」が要ると孔子学派では教えている。3つの反省、1つは忠、2つは信、3つは「習不伝」である。「習不伝」とは、教わったことを反復学習することを怠るな、という意味である。孔子学派では、幼児期からの音楽学習を全ての基本におく。歌、踊り、楽器演奏により、「和」というハーモニー効果の体験を重視する。五感で、「和音」の心地よさを味あわせる。「和することの快感」を五感で得られる最高の感覚として、それを「無意識ゾーン」のOSに組み込めば、幼児教育としてはまず成功である。次に、君子は和して同じず、小人は同じて和さず、という。同じるとは、簡単に、表面的に同一を受け入れながら、実は、本音では拒むから和を乱すことになる。今流にいうと、各人の潜在意識は皆さんで違うから、その多様性をはっきりと認め合い、そこからハーモニーを作り出すことを覚える。そのような指揮者は、良き君主である。リズムは厳格に合わせながら、個々の楽器や、肉声の音色を際立たせ、さらに和音階にみちびくことである。このように音楽教育が地域社会教育の基本である。このような儒学の教育論は、やがて高齢者に対し、さらに自由な精神世界における「音色」を許容する。しかし、ものさしである「矩」(のり)という規範を超えるなと諭す。それは、天命として生きるという使命を賜った限りは、天から死も賜るという天命という「矩」を喜んで受け入れるということである。平素、無理に延命するな、と遺言するのもよい。けれども、安楽死を希望しても、天は苦痛にのた打ち回らせる死を賜うこともある。では、良いことをしておれば、良い死に方ができるのか?そんな人間の好都合なことはない。幕引きは、天命がするのだから、無様な死に方も、天は周囲の方々への「教材」として活用し、啓蒙のための献体として利用してくれるのだ、と受け止める勇気がいる。「死」も天命と「和する」心がけがあれば、大丈夫だ。それには、身体能力が制約されてもできる読書やDVD鑑賞、絵や文章、写真などや、音楽鑑賞の感性だけは磨いたほうがよい。大地の声を聞くことだ、と悟った西洋人もいる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月6日(金)のつぶやき

2018年04月07日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする