TMA講師代表の私見:
一般に、図書館司書の世界では、貸し出しの数量計算に「冊数」が使われる。大学図書館や、学校図書館では、学生総数という分母が確定数なので、年間あたり学生総数に対し、何冊の書籍が借り出されているかで、その大学の入試以後の真の偏差値は分かる。文学部、人文学部などでは、有効な指数である。問題は、市民を対象とする図書館の場合である。
市民の総人口あたりの年間の貸し出し冊数では、あまりに漠然としすぎる。そうではない。大事なのは、図書という知的資本財を無償で貸し出すということは、「知財銀行」が、知の市場に無償で融資することになるから、貸し出す本の平均単価を仮に800円とすると、年間に1万冊貸し出せば、800万円の知的資本財を公的に融資したことになる。こうして、市民の頭とココロに、知性と徳性が社会資本として再活用されるようになる。
図書館は、知識を資本とする21世紀の世界にあっては、「知財銀行」と定義できる。従って、富山市の住民税の総額収入に対し、市立図書館の蔵書は、図書という知的資本財の蔵書価格の総額との関係で、数的な比例関係が計算できる。
貸し出しできる本は、無償で融資できる長期資本財と定義できるから、年初のストック残高に対し、1年間の融資総額が計算できる。このロジックは、大学図書館でも可能である。特に私立大学では、購買した図書価格がそのまま大学の資産勘定の資産の部に計上できる。大事なのは、平均単価×貸し出し総数=知的資本財の無償融資額が計算できることである。
このように考えると、公立図書館は、知識を資本とする21世紀の世界の「知財銀行」と再定義できる。TSUTAYAとタイアップするべきか、それに反対する進歩的市民団体との図書館戦争は、双方向に次元が低すぎる。では、新潮社の社長が、新刊図書は、せめて公立図書館では、発売から6か月間、無償貸し出ししないでくれという主張をしている。これは、馬鹿な図書館では、人気のある本は、何十、何百の副本を用意して、市民の期待に応えるから、こういう出版業界の主張も出てくる。しかし、図書館に常備されるべき、高価な辞典、年表、文献目録など、総記の類に徹した良心的な出版社も数多く存在する。出版界は、図書館のおかげで読者を失ったというのは言いがかりである。
富山市立図書館では、伝統的に複本は2冊まで。その代わり、人気だけで選書しないで、名著として長く使用できる知的な資本財となるもの広く選んでいる。
公立図書館がうまく運用できない自治体は、都市という公共財に占める知的資本財の無償融資の制度が、理論的な骨子であることが見えていない。賢い市民と、そうではない市民様の違いは、その自治体図書館を見ればよくわかる。もちろん、「良心的な図書館」というのにも、嘘がある。反政府的な市民運動のたまり場となっている事例がないわけではない。だから、TSUTATAと提携という選択肢も出てくる。