竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

宇留地小学校の記憶8

2018-06-11 | お山の大将そばバカ日誌
今年の大雪で土台が下がり湾曲してしまった屋根を3トンジャッキ、建築用足場ジャッキ、建築用ジャッキ×2の持ってるジャッキ全てをを使い持ち上げ、土台を入れ替え、我ながら見栄えの良い薪置き場になりました。
その頃にはスミレも咲き始め良い季節になりました。

又、坂の上の家にも自転車があった。家まで持ち上げるのは大変なので持ち主は勤めから帰ると学校の体育館の搬入口にいつも立てかけてあった。
普段は鍵を掛けてあるが時々掛け忘れて置いてある。この時がチャーンス、早速運動場に引っ張り出し三角乗り(サドルが高く跨げないからフレームの三角部分に足を通し反対側のペダルを漕いで乗る)方法。上の家から見えない運動場半分を何周も何周も何周も乗った。
その内どうしてもサドルに跨って大人乗りをしたくなるのが人の常、大将も例外ではない。
毎日牛乳屋さんが朝早くからの配達の帰りに学校に寄ってくれる。大型の貨物自転車の両脇のカバンんの中と荷台の箱には牛乳瓶がぎっしり入って居た。配達の帰りだから空瓶だが相当に重い。
それを小学校高学年のそれも小柄なTがその自転車で遠くからお尻をモミモミやってくるんだから凄い、このモミモミってのは大人用の自転車だから高いサドルに乗ってペダルを漕ぐとお尻が右へ左へ揉まれるように動く様をそう言う。このTは名うてのやんちゃもんだと言うが・・・・

ある日牛乳屋さんのTが大将の母親と話してる隙に大将乗りたい一心であろうことかその大型の牛乳瓶を満載した重たい自転車のサドルの高いところ、お尻をモミモミしてもペダルまでの足が届くのは漕ぐ時の上半分、反対側のペダルが回ってくるまで足が宙に浮いてる様な、ペダルまでしこたま距離があるのに跨って生まれて初めて大人乗りをしてしまった。運動場を何周かしてさて元の位置に返して置かなければと思ったが跨ったまま降りる事が出来ない、無理して降りれば牛乳瓶が木っ端微塵になるのは必致。
そうこうしてる内にTさんが戻って来た、でも降りられない、大将心を決めて「おろして〜」情けないったらありゃしない。
止めてくれるとばっかり思ってたら「ぼやっ もっと回れ、回れっ 乗れたがいや」。大事な商売もんをと怒られるとばかり思ってたら応援してくれた。が、大将半はべそ、母親は平身低頭「すみません、すみません」の繰り返し。
尻をモミモミしながら悠々と帰って行く小柄な牛乳屋さんの背中が眩しかった。
名うてのやんちゃもん?、根性のある素敵な男でした。
この人は しっちょもの Tさん/font>

宇留地小学校の記憶7

2018-04-24 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将そばバカ日誌   
の前に
今回の大雪にはいろんな所で被害が出ました。唐変木に来られるお客様の中にもビニールハウスの倒壊、庭木の枝折れ、倒木、除雪での体調崩し等のお話をお聞きしました
唐変木も例外ではなく、早朝のそば打ちが済むとほぼ毎日70cm程の除雪、お客様の来られる少し前には一二時間の間に更に積もった雪の始末。
店の屋根雪に及んではこれまでの最高回数四度の屋根雪降ろし、4回目には雪下ろしではなく雪あげの状態でした。
それでも春はやってきました。
枝が折れ傷ついても何事もなかった様に今年も咲きました。大雨には何度も溢れ、自主避難までした側溝の工事が念願叶って、広く深く掃除がし易く出来上がりました。
細かい砂利も引いてるもらいこれまで気になっていた駐車区分ラインを石灰で、コンクリート部分にはペンキで、幅は大きめにユッタリと、ちよっとの事で車の整理ができました。

工事のついでに畑の土を入れてもらいお陰様で畝を二本増設、春大根の播種もすみました。

それでは本題に

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宇留地の記憶7  事件簿
お山の大将独り言の時間です   

初めての自転車
父親は駅までの通勤に自転車を使っていた。
穴水に疎開した頃部屋を借りた「与の助」には後ろフェンダーに白い富士山の形をしたフレームに赤い反射鏡が取り付けてあるのを記憶している、大将二歳。
玄関から入った土間にはその部分だけ天窓の陽射しに照らされスタンドを掛けピカピカ光る自転車が止めてある。今思うと「富士自転車」その頃では高級な自転車
大将二歳の頃、いつもペダルをぐるぐる回しながら多分構造の勉強をして居たんだ。父の大事な自転車。その頃宇留地では自転車を持っている家はそう無かったと思う。

学校へ越して来たその頃にはこの自転車かあるいは別の自転車かは定かでないが父は金沢に単身赴任中週一穴水駅まで通勤に使ってた。道路は未舗装、砂利道、道の両端っこは僅かに砂利が少なく走りやすい。
その自転車たるやノーパンクタイヤ、チューブの入ってない硬いゴムだけのタイヤで砂利道を走るもんだからクッションなんて有ったもんじゃない。減らないだけが取り柄、きっと父親は駅に着く頃は手が痺れていた   と思う。
その後この自転車は大将達が金沢に引っ越す頃数奇な運命に会う。
「お父さん、この自転車要らんがなら売ってきてやる」と言う男がいた。
数日後男は「こんだけで売れた」と数千円持って現れた。実はもっと価値のある品、チョッコシちょんぼされた模様。

始めての自転車の稿 続く

宇留地の記憶と今年の大雪

2018-03-14 | お山の大将そばバカ日誌
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宇留地の記憶(6)  ちっちゃな事件簿

その前に唐変木の近況を
今年の大雪大将の生涯一二を争う多さ
小鳥も玄関に逃げ込んできた

父にはイナゴ事件もあったが知ってか知らいでか時々事件を起こす。
若い頃は酒が好きで大酒を飲んだ、呑んでも乱れはしなかったが生涯酒は好きだった。あんなこんなの数年後、父は県の職員となり、金沢に単身赴任、旧金沢市庁舎裏、金沢城石垣の下、現在テニスコートのある位置の英語の名前の宿舎で以前はアメリカの持ち物だったかも知れない。夏には大きな欅にアブラゼミの抜け殻が沢山くっついていて大将用夏休みの恰好の宿題材料となる。
ある日母親が部屋の掃除に金沢に出かけ襖を開けるとそこには色取り取りの焼酎の空き瓶がズラリと並んでたのを見たらしい。

若い頃友人が「飲もう」と高下駄、学帽姿で「干鰯」を新聞紙にくるみ、小脇に抱えて持って来た。それを肴に一瞬く間に一升酒をやらかしたらしい。

某日母が大根を擦りおろしていると、父がその辛い汁をくれといってお椀にもらい「これはビタミンCが豊富で体によろしい」とか何とか言ってグビグビと一気にやった。暫くして青い顔で「気持ち悪い」 父の胃袋には刺激が強すぎたらしい

某日母が台所に棚を付けて欲しいと父に頼んだ。早速得意のと言うか仕事がらと言うか机に向かい図面を引き出した。
母はもどかしく、板、鋸と釘、金槌を持ち出し設計図が出来上がる前に棚が出来上がってしまったらしい。    メデタシめでたし

父は当時蛇腹式のカメラを持っていた。カバーを外すと折り畳んであるレンズが飛び出してくる。確かライカ(外国製かな?)
後ろの四角いカバーを開けると結構幅のあるフィルムがボビンに巻かれてた。
露出もピントもギザギザなリングを手動で回す、シャッターはレンズの先にキャシャなレバーが付いてて右の方へジーッと倒す。
当時フィルムも印画紙も貴重だったせいか映った写真はどれも小さく大きいのは少なかった。
その父親が宇留地小学校の玄関で海軍の制服制帽白手袋直立不動で映った写真があるはず。大尉だったそうでカッコ良かったです。
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宇留地の記憶5

2018-01-31 | お山の大将そばバカ日誌
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宇留地の記憶(5)  ちっちゃな出来事編
お山の大将独り言の時間です

50銭玉2枚アメ一個1円

ある日母親の小物入れの引き出しに50銭硬貨が二枚他の物と一緒にあった。
当時はもう50銭硬貨は使われなくなっていた頃。  でも もしかして  頭に浮かんだのは「合わせれば1円だ」もしかして何か買えるかも。
そっとポケットに忍ばせドキドキしながら1km程離れた下の集落まで藁草履をつっかけて走った。この辺りの集落にただ一軒のなんでも売ってる店「どのまえ」(堂の前かも知れない)、心の中では これはいけない事なんだ と知りながら走った。
店に着くと何時ものおばさんがいて、突っ立ったままの大将に「何欲しいがや」大将、握りしめた50銭玉2個をポケットから出して手のひらに、「このアメ買えるん?」指差した先の瓶の中に赤青黄透明色で直径2センチ強くらいの大っきな飴玉が「一個1円」と書いてある。おばさんは掌に乗った二個の50銭を眺め一寸躊躇しながら大将の指差した青色のアメ玉一個摘み出して掌に乗せてくれた「気つけて帰るげぞ」、ほう張ると甘くて弾ける様なサイダーの味がした。
後年三つ下の集落、関寺橋(せきでら橋)の側にラムネを製造してる飲料工場が有った。

宇留地の記憶

2018-01-24 | お山の大将そばバカ日誌
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宇留地の記憶(4)  ちっちゃな出来事編
お山の大将独り言の時間です

初めて見たバイク
ある日、遠くに青い煙がモクモクと見えた。小豆色のバイクがモクモクモクモク煙を吐き、ビービー音を立てながら砂利道を上って行った。バイクはトーハツあるいはヤマグチモペット、Vベルト駆動  多分
大将の傍には十六歳頃から今の歳までバイクの無かった事は無い、現在も約45年前位のホンダCD250がある。十六と書いたが実は免許取得年齢は当時十七歳、現在陸上自衛隊金沢駐屯地の所に自動車学校(現北鉄自動車学校)があった頃受験者を集めてミーティングが行われた。あとで友人に聞いたが何の加減かトイレに行ってる間に「十七歳未満の者は受験できません」と行ったらしいが「聞いて無いよ」って・・・・そのまま受験して合格その後そのまんまで来てしまった。今年書き換え、最初の認知症検査あり

初めて見たバス
ある日、今では珍しいボンネットバス、時々テレビに出てくる昭和初期のレトロなバスが日に一二度クウークウー喘ぎながら町から上がって来る「じどっ」(自動車の事)玄関を飛び出しグランドを超え、下の道路が見える階段まで走って行って見てた。乗った記憶の無いバス。 ISUZU 多分
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宇留地の記憶 ちっちゃな出来事

2018-01-16 | お山の大将そばバカ日誌
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宇留地の記憶(3)  ちっちゃな出来事編
お山の大将独り言の時間です
   
Fさまの荷馬車
当時は様を付ける程の方だった様です
一つ上の集落に地主さんがいて、学校の普請や何かの折には寄付をしていた。
当時砂利道だった県道から集落に上がってくるにはやはり砂利道の緩やかな坂を登って来る、坂の登り口に祠様の不気味な穴があった。精米所前まで5、60メートル程進むと急に勾配がきつくなる、ここを過ぎると又緩やかな坂になる。
ある日の夕方、新築用の材木を満載した馬車を引き、馬が激しくタテガミを揺らしながら坂を上がって来た、馬は体が大きく筋肉質、蹄の上辺りの後ろ側に毛が生えていた。立派な体格を呈していた。
精米所の前の駆け上がりまで砂利道に蹄を突きたけながら上って来たがとうとう止まってしまった。
馬方は急いで下がり始めた馬車を止めようとブレーキを引く、傍にあった竹の棒で思いっきり馬の尻を叩く、馬は渾身の力で坂を登ろうとまたも砂利道に蹄を立てて進もうとするが馬車はピクリとも動かない、「ビシッ ビシッ」何回も何回も何回も馬の尻に容赦なく竹の棒が飛ぶ、馬はその度にもがくが馬車は動かない。
そうこうしてる内に今度は馬の腹に下に枯れ枝や枯葉を持って来た馬方が何をするのかと思いきや火を着けた。
大将もう見ていられない、急いで家に帰り「坂が上れない馬の下で火を燃やしとる」と父に何とかしてほしいと告げ、父は見に行ったがその後馬車が上れたのかどうなったか分からない
後に父はF様に「手紙を書いといたよ」今となっては本当かどうか分からないが黒っぽい栗毛色の目の綺麗な馬だった。

そしてある日、トラックの荷物の上に人が乗って町から上がって来た。F様の息子さんの傍らには真新しい自転車が積んであった。子供用の自転車、偶然見た出来事だけど。

宇留地の記憶 ちっちゃな出来事

2018-01-09 | お山の大将そばバカ日誌
ちっちゃな出来事2
母親は農繁期には田植え、稲刈りを手伝い、畑仕事もよくやってた。
大将も田植えを手伝った事がある。当時は六角田植え枠を転がした跡を定規にして植える。裸足で田に入り、アゼに居る人が苗を投げ渡し腰を90度に曲げて植える。しか〜ししばらくして田から上がってびっくり、くるぶしの辺りに5cm位の真っ黒く長細いものがクネクネとしてくっついて居る。「なに これ」引っ張ってもヌルヌルして取れない、おじちゃんが虫の首っ玉をつまんで取ってくれた。田んぼに生息するヒルだそうだ。
稲架かけは手伝ったぞ。稲架干しのコメは美味しいんだぞ。ただね、縦横に組み上げた稲架竹が風の強い時にピューピュー、ヒョロヒョロ鳴って山姥が歌ってる。」
「母ちゃん ションベン」  ムシロ戸をくぐり、板を渡しただけの便所は怖かったぞ。

そうそう寒い朝目が覚めると外は晴天で真っ白く眩しい雪景色。土間で掛け声と共に餅つきが始まってた。へっついに薪を炊き、蒸し上がった餅米をセイロごと臼に放り込む。もくもくの湯気の向こうに母親の姿もあった。丸めてお重ね餅も見よう見まねで手を真っ白にして手伝ってた、相の手はベテランの女衆、熱いから水桶に手を浸しながら手際よく餅を反す。つきたて熱々のお餅をもらい口の周りを米粉やらアンコだらけ、醤油でもいただいた。 杵付きだからニューっと良く伸びるんだ  半殺しなんて奴もあったぞ、これは米粒がそのままの形で残ってる。臼の側に居ると時々コメやら豆が飛んで来た。
おじちゃんが「ぼう、ついてみるか」と杵を持たせてもらったがとても持ち上げられない。
トボ餅は半渇きの時かきもちにする為に薄く切る、それを稲藁で10枚1組位にすだれ状に編み込み天井から吊るして良く乾かす。それは家族が借りて居た部屋のすぐ横の仏間に乾かしてある。時々割れて板の間にカシャツと落ちてバラバラになったのを生のままがじるとちょっと塩っけがあった。落ちたかき餅の豆入りはの豆は生っぽいので不味い。カシャツと落ちた音はするのだが落ちたかけらが何時も無い・・音だけかも知れない、だってカシャンと落ちたのに何にも無いんだもん   だって〜11

宇留地の記憶 ちっちゃな出来事

2018-01-02 | お山の大将そばバカ日誌
ちっちゃな出来事 1

その頃の母親は誰隔てなく生徒を可愛がり、新聞紙を広げ、四つん這いになって頭を出す生徒の頭を手刈りバリカンでジョキジョキ、女の子の髪の毛をとくと新聞紙の上にパラパラとシラミが落ちた。  洋服の縫い目にはシラミがびっしり並んでいたし、ノミもシーツの上をピョンピョン、白いシーツは分かるが色物だと全く分からない。世話になっていたところのおばあちゃんは捕まえたノミを噛んでプチっ潰してた。

時々先生方がDDTを頭やら襟元から服の中に噴霧器でシュッシュッ、今思うとゾットするが当時は当たり前だったんだねぇ。噴霧器にはアースだったかフマキラーだったかのロゴ、直径5cm長さ30cm位のボール紙で出来たポンプ。筒の先端下部に薬剤を入れる容器が付いていてポンプを押すとノズル先から出る空気に引っ張られ薬剤が噴霧される。
生徒はうどん粉にまみれた様にみんな真っ白。

栄養不足なのか鼻の下には緑色の二本線、頭にはオデキ、ゲロを吐いたら15cm位の白い回虫?。袖は鼻を拭ってペカペカ、中耳炎も多かった(当時は耳垂れと言っていた)

冬、学校も結構な山だがもっと奥からくる生徒、雪道を裸足に草履、足は真っ赤、母親はお湯で温めていた、今ではとても考えられない。一度行った事があったが自転車も通れないほとんど登山道路、まぁその頃自転車も自動車も珍しい頃の話

大将の隣の席のK春、(宇留地小学校は複式学級)授業中にガラスでできたオハジキで遊んでてそれを鼻の中に入れて取れなくなった。何だかそわそわしてるなぁと思ってたら大将の耳元でそっと「ボヤ、ハジキが取れん」覗くと1cm程奥に丸く平らに良くもまぁピッタリと。大将お節介にも「先生K春の鼻にオハジキが詰まった」 (先生)「お母さん(大将の母)に取ってもらえ」玄関の正面にある大きな鏡の前で、母親、「指が入らないしどうしよう」と四苦八苦、大将そこで一計を案じたね!「お母さんピンセットどやぁ」と・・・治療用の先の平らなピンセットを使って解決。さすがだね、
今、彼K春は大阪に住んでて当時の恩をつくづく感じてるらしく、穴水の誰かに大将のところの電話番号を聞きつけ、忙しい時ばかり電話をしてくる、それも関西弁で毎回確実に酔っ払って、グダグダと・・・これまた長いんだ。「オイ!覚えてんのかい・K春」・・・いつまでもグダグダと元気でな!

尾籠な話だが大将、授業中屁をしたつもりだがチビっと中身がお出ましになってしまった「先生ションベン!」答えがわかった時にこの位手が挙げられると良いのだが
慌てて母親の元へ。 (こんな時学校に住んでると便利ですよ アアタもどうですか?)
K春とどっちもどっちかぁ。ちなみに小は「ションベこき」大は「エンコこき」

唐変木な蕎麦屋の独り言

2017-12-15 | そばバカ日誌 仕事編
薪割り機            今回の改造部分
一応完成の域に達している自作薪割り機をグレードアップを目論み、3相 200v 2.2kwの強力なパワーを無駄なく伝える様に三本がけVベルトにテンショナーを取り付けるべく「モノタロウ」から材料を仕入れ、ホームセンターを物色、相変わらず下手くそな溶接を懲りずに活用し、モータのパワーに負けない様丈夫なものを作りました。

ベルトは一段目二本、二段目三本の二段減速し、ベルトの張りを考えて作ったつもりでしたがストレートの材は結構割ることができるのですが、硬い材又は太い二股の部分を割る時にベルトがスリップしてしまいモーターのパワーを全てコーンまで伝える事ができませんでした。

取り付け前のテンション縮んだ状態
三本掛けVベルトに合わせテンション用ローラー幅20mmを3個使用
約20mm押し出した状態
制作時間 10時間。取り付けは来週です
又下手な溶接をしなければ。

宇留地小学校記憶 19 年中腹ペコ編

2017-12-01 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将そばバカ日誌
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お山の大将独り言の時間です   宇留地小学校記憶19  
年中腹ペコ おまけ編

何時だったか母親が飴を作ってくれた。フライパンに砂糖を入れて熱して溶けてトロトロにったのを少し冷まし、すくって手に取り水に冷ます、けど、きっと熱かったと思う。甘かったが少し焦げ臭かった、美味しい思い出、多分父親がパチンコの景品で取って来た砂糖だと思う。今では戦後の物不足からぼちぼち余裕が感じられる出来事。

どこからか桃を頂いて美味しく何個か食べた。一個を残し母親が大事に引き出しに仕舞って置きそのまま忘れた。気がついた頃はカビが生えとても食べられる物ではなく家族の中では今でも語り草になっている。

大将の家では当時良くスイトンを食べた。なんの事は無い小麦粉を溶き、お玉で味噌汁の中に入れるだけ。ちっちゃな餃子の形をしてた。あまり食べるのを急ぐと中がまだ生煮え究極のアルデンテ。

今では高級魚となりつつあるイワシ(多分カタクチイワシ)が当時たくさん獲れ、豊かではなかった大将の家でも時々食卓に上った。頭と腹わたを除き小骨ごとすり鉢でアタって(多分お味噌で)味付けし、ツミレは勿論、1、5cm位の厚さでフライパンに敷き、イワシハンバーグにしてケーキのように切って食べた。これは絶品、小麦粉を入れずに焼くので上手に取り分けないと割れてしまう。今では贅沢な話。


冬、父親は雪深い道を穴水駅から歩いて帰ってくる。手には尾を荒縄で縛り、冬の魚「真鱈」をぶら下げて帰ってくる。大きいから鱈の鼻先を雪に引きずりながら帰ってくる。
鱈は頭の先から尻尾まで捨てるところが無い。アラを使って鱈鍋、腹の中には大きな真子、ザクザク切って皮ごと焦げないように回しながら煮る。醤油で味付け鶏卵を割り焦げない様にどんどん回す。大将は真子の皮が好み、プリンプリンして美味しいから。
炊きたて熱々のご飯と同じくらいタップリの真子をのせてまぶして食べる。
三枚に下ろした身は刺身、真子をまぶして子付け、昆布締めは無かったなぁ。
骨事件もあった。
鱈鍋、大将は骨がカラッキシだめ。お椀に盛った鱈のアラの中にタップリ身の付いた中骨が飛び出してた。それをみた姉が「くにお身をあげるから骨ちょうだい」これが事件の始まり。大将は正直者、しっかり身をしゃぶり、綺麗になった骨を姉に「ハイ骨」それを見た姉は凄い勢いで泣き始めた。「どうしたの?」と母親「「身の付いた骨が欲しかったのにくにおが身を食べた〜」???? 大将「骨上げたのに〜」その後細身の姉のあだ名は「骨」あるいは「ガラ骨」 今でも兄弟のエピソードとしては鮮明で特筆モノ   なんてこった〜
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