【北近畿の新たな可能性と関西経済の発展】
☆平成27年1月26日 15時30分から19時30分
☆ホテルグランヴィア大阪
☆第一部 シンポジウム
①基調講演 大阪大学名誉教授 宮本又郎氏
【テーマ】 松本重太郎翁の偉大な功績、起業精神 経営哲学等について
②トークセッション
【テーマ】 北近畿の新たな可能性と関西経済の発展
【コーディネイタ―】 毎日新聞社編集委員
【パネリスト】
南海電気鉄道株式会社 山中氏
大阪商工会議所 佐藤氏
大阪国際フォーラム 萩尾氏
大阪大学 宮本氏
京都府京丹後市長 中山氏
☆第二部 経済交流レセプション(名刺交換)
豊かな自然にはぐくまれた京丹後の海・山・里の幸・地酒などをお楽しみいただきながらの交流会です。参加無料ですので是非ご参加下さい。
松本 重太郎(まつもと じゅうたろう、天保15年10月5日(1844年11月14日) - 大正2年(1913年)6月20日)は日本の実業家。関西経済界の重鎮。旧姓は松岡、幼名は亀蔵。肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立、経営に参画し、西の松本、東の渋沢と呼ばれた。数寄者としても有名で号を叟軒と称す。
生い立ち
丹後国竹野郡間人村(現・京都府京丹後市丹後町間人)に松岡亀右衛門の次男として生まれた。松岡家は、江戸時代には代々庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄であった。10歳のとき、京都の呉服商菱屋勘七に丁稚奉公にあがる。3年後、大坂に出て天満の呉服商綿屋利八方に移り、ここで10数年間勤めた。綿屋は大坂の有力呉服問屋の1つで、ここで商人として活躍していく素地を造り上げる事ができた。明治元年(1868年)、24歳ごろ独立し、松本重太郎と名を改める。ちょうど兵庫と大阪の開港が行われた年である。さっそく重太郎は、洋反物のブローカーを始める。大坂にはすでに山口吉郎兵衛、伊藤九兵衛、平野平兵衛など、洋反物を取り扱って急速にのしあがった商人がいた。最初は行商だったが、1870年ごろには東区平野町に「丹重」を屋号とする店舗を構えた。重太郎が大躍進したのは西南戦争のときで、このとき軍用羅紗の買占めを行い、巨利を得た。
☆平成27年1月26日 15時30分から19時30分
☆ホテルグランヴィア大阪
☆第一部 シンポジウム
①基調講演 大阪大学名誉教授 宮本又郎氏
【テーマ】 松本重太郎翁の偉大な功績、起業精神 経営哲学等について
②トークセッション
【テーマ】 北近畿の新たな可能性と関西経済の発展
【コーディネイタ―】 毎日新聞社編集委員
【パネリスト】
南海電気鉄道株式会社 山中氏
大阪商工会議所 佐藤氏
大阪国際フォーラム 萩尾氏
大阪大学 宮本氏
京都府京丹後市長 中山氏
☆第二部 経済交流レセプション(名刺交換)
豊かな自然にはぐくまれた京丹後の海・山・里の幸・地酒などをお楽しみいただきながらの交流会です。参加無料ですので是非ご参加下さい。
松本 重太郎(まつもと じゅうたろう、天保15年10月5日(1844年11月14日) - 大正2年(1913年)6月20日)は日本の実業家。関西経済界の重鎮。旧姓は松岡、幼名は亀蔵。肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立、経営に参画し、西の松本、東の渋沢と呼ばれた。数寄者としても有名で号を叟軒と称す。
生い立ち
丹後国竹野郡間人村(現・京都府京丹後市丹後町間人)に松岡亀右衛門の次男として生まれた。松岡家は、江戸時代には代々庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄であった。10歳のとき、京都の呉服商菱屋勘七に丁稚奉公にあがる。3年後、大坂に出て天満の呉服商綿屋利八方に移り、ここで10数年間勤めた。綿屋は大坂の有力呉服問屋の1つで、ここで商人として活躍していく素地を造り上げる事ができた。明治元年(1868年)、24歳ごろ独立し、松本重太郎と名を改める。ちょうど兵庫と大阪の開港が行われた年である。さっそく重太郎は、洋反物のブローカーを始める。大坂にはすでに山口吉郎兵衛、伊藤九兵衛、平野平兵衛など、洋反物を取り扱って急速にのしあがった商人がいた。最初は行商だったが、1870年ごろには東区平野町に「丹重」を屋号とする店舗を構えた。重太郎が大躍進したのは西南戦争のときで、このとき軍用羅紗の買占めを行い、巨利を得た。