totoroの小道

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小説的な授業

2017-11-09 05:47:51 | 国語

授業する教師も子供も、参観する者も、この先この授業はどうなるのだろうという、わくわく感がある授業を追求していきたい。

しかし、巷にあふれている授業はそうではない。
先生の台本通りに進む。

先生の台本通りに発表してくれる子を指名し
台本通りでない意見がでると、「それもあるね。」で素通りしてしまう。

指導案を見ると、およそ1時間の授業が予想でき、全くその通りに進んでいく。
それが授業なのだというかもしれないが、見ていてドキドキ感がなくつまらない。
そうした授業を参観すると、
「この先生発問が上手いな。」
「切り返しが上手いな」
「板書の構成が巧みだな」
などと、先生を見ることになる。
本当は子供の一言一言を聞きたいのだが、台本以外の意見は殆ど出てこないから.....

 

 

7月の授業研究の回で、渡辺先生から「小説的な授業」について教えて頂いた。

これは、従来から思っていたこととぴったり重なった。

授業を登山にたとえてみる
従来の授業のやり方
山頂があり、事前にそれに登るルートが決まっている。
教師はそのルートを知っている。
子どもがルートを間違えそうだったら、外れないように教師は導き、ガイドをする。

 

授業の流れは教師によって決まっており、
発問やくみ取る子どもの発言は教師の域をでるものではなく、
流れからはずれた誤答などは授業の中に取り入れることはない。

 

小説的な授業
 『問い』と『返答』から授業が展開していく。
その流れは事前から決まっているものではなく、
そこにいる教師と子供たちによって作られるもので、
誰も結末を予想することができない。
そのことから、創造的で小説的だと言うことができるため、
『小説的な授業』と呼ぶことができる。

 

事前に教師は山を研究するものの、山頂やルートは決定しない。
子供たちと一緒に登山の道をさがしていく。
山頂にいかに効率よく行こうとするのではなく、
それよりその過程にある小川で会ったり、花だったりを楽しみながら登山する。


つまり、授業の流れはその場にいる教師と子供たちによって作られていく。
そこには、必要の無い発言などはなく、全てに必然性があることを教師は知っている。

 

およそ「授業」は、教師と子どもとの対話を通して行われる。
対話とは、「問い」と「返答」である。
授業は、教師の発問から始まる。
教師の発問には、期待する返答がすでにある。


ところが、教師の発問は、発問自体が多義であり、様々な問いを内包している。
子どもたちは、教師の発問を解釈し、様々に受け取れる「問い」の一つを「自分の問い」として「返答」する。
それは、時として、教師が意図した「問い」とは全く異なることがある。
その結果、子どもたちの返答は、教師の求めた返答から外れたものになり、誤答のように見える。

が、もし、その「子どもの返答」をその返答が生み出された「子どもの問い」にまでさかのぼったのならば、
教師の「発問」と、子どもの「誤答」を結ぶ必然性が浮かびあがり、
「誤答」の中にある新たな解釈に気付き、授業の中で、その解釈を位置づけることができる。
その時、教師と子どもは、同じ「問い」の追究者となる。

 

 

浜松授業研究の会次回予定    

77回 11月18日  土  9:00  12:00 天竜壬生ホール 第1会議室
78回 12月16日  土  9:00  12:00 天竜壬生ホール 第1会議室

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