トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

構造体だけになったトンネルがある町

2017年01月06日 | 日記

「みなでのらんけ」と呼びかけている阿佐海岸鉄道のASA301号車です。保有車両が2台という、第3セクター鉄道の阿佐海岸鉄道の車両です。1年ぐらい前に、高知県最東端の駅、阿佐海岸鉄道の甲浦(かんのうら)駅を訪ねた日(「所有車両は2両だけ、阿佐海岸鉄道に乗る」
2015年10月12日の日記)、途中のJR海部(かいふ)駅の手前で気になるものを見つけました。

これが、ずっと気になっていた、JR海部駅の手前にあった町内(まちうち)トンネルです。トンネルを覆っていたはずの山が無くなっており、わずかに樹木が生えているだけのトンネルです。青春18きっぷの季節でしたので、久しぶりに訪ねてみることにしました。

片道は特急列車を利用することにして、9時51分に徳島駅を出発する牟岐線の”むろと1号”で牟岐駅に向かいました。キハ185ー23号車(普通車自由席一部指定席)とキハ185ー20号車(普通車自由席)の2両編成でした。

JR牟岐駅で、普通列車に乗り継ぎます。到着したときにはJR海部駅行きの普通列車が待っていました。1232号車。ワンマン運転の単行気動車でした。

JR海部駅に到着しました。昭和48(1973)年の国鉄時代に、四国初の高架駅として開業した駅です。当時は終着駅だったそうです。向かって右側が乗車してきたJR車両の1232号車。しばらくすると、左側のホームには、阿佐海岸鉄道のASA301号車が到着して、次の甲浦駅行き列車になって出発を待っています。阿佐海岸鉄道の駅が開業したのは、平成4(1992)年のことでした。

JRの待合室です。運賃は電車の中で精算するようになっています。海部駅は、徳島県海部郡海陽町奥浦字一宇谷にあります。元の海部町でしたが、平成18(2006)年旧海南町と海部町、宍喰町が”平成の大合併”により合併し、海陽町が発足しました。

阿佐海岸鉄道のホームへは、高架上の構内踏切を渡っていくことになっています。

こちらは、阿佐海岸鉄道の駅名標です。ポップ体の字体です。海部川に生息するオオウナギとホタルのイラストが添えられています。早朝の列車は、JR牟岐駅と阿佐海岸鉄道の甲浦駅間を直通しているので、JR阿波海南駅も表示されています。

JR牟岐駅方面に町内トンネルが見えました。さっそく、行ってみることにしました。

JR側の待合室の裏にある階段を下ります。ホームは3階ぐらいの高さにあるようです。

駅舎です。1階の屋根のある建物は、かつて「海部町観光案内所」がありました。平成27(2015)年から交流施設「あまづの社(もり)」になっています。海陽町児童青少年を支援する会が運営されているそうです。この日は閉鎖されていました。

駅から、JR牟岐線と平行して走る国道55号に出ます。やってきたJR牟岐駅方面に向かって引き返します。空の青さがまぶしいぐらいの暖かい日射しの下を歩きます。

駅から歩いて10分ぐらいで、海部川に架かる海部大橋に着きました。「鞆浦の町並みと法華寺 1.1km」という案内もありました。古くから、海部川の上流地域は木材の山地として知られていました。切り出された木材は、筏に組んで、海部川を使って鞆浦港まで運ばれ、そこから兵庫の港(神戸港)に送られていたそうです。室町時代(「兵庫北関入船納帳」1445年)には、兵庫北関を通過する阿波産の木材の半数が、海部と隣町の宍喰(ししくい)からのものだったといわれています。それ以上に、私にとっては、幼い時から何回も訪ねた広島県福山市の「鞆の浦」と同じ名前のところがあることが驚きでした。福山市の鞆の浦は勇壮な「鯛網」で知られています。

海部川は、阿南地域では最も大きい川だといわれています。川口付近のようすです。案内にあった鞆浦は、写真の右側にありました。

めざす町内トンネルはすでに越えて来ていましたので、国道55号を少し引き返して、JR牟岐線の高架をくぐる道との分岐点まで戻ります。

トンネルの上を覆っているブッシュの下に、JR牟岐駅側からのトンネルの入口が見えました。やや見えずらいのですが・・。尖塔をもつマンションがトンネルと同じレベルで建っています。

高架をくぐってすぐ左折して、牟岐線に沿って伸びる坂道を上っていきます。上り切って、マンションのそばにいけば、トンネルのJR海部駅側の入口が見えると思っていたのですが・・。簡単ではありませんでした。目の前のブッシュをかき分けて進むことになりました。

ブッシュの隙間から撮影した、町内トンネルの海部駅側からの入口です。「町内トンネル 全長44m 徳島起点79K139m71」と白いプレートには書かれていました。ここ以上に間近で、町内トンネルを見ることができるところはないと思いました。

JR海部駅の近くにあった観光案内図です。海部大橋の案内看板にあった「鞆浦」は、駅からまっすぐ海の方に向かった先にありました。「鞆浦海岸」「鞆浦港」「鞆浦漁港」の地名が並んでいます。

「鞆浦」という地名に惹かれて、「鞆浦」に行ってみたくなりました。国道55号を引き返して、JR海部駅の前の交差点まで戻り、左折します。

小さな川に沿った道を進みます。左側に町並みがあります。正面の白いビルの先で左に折れます。

車が一台やっと通れるぐらいの通りの両側に、町並みが広がっています。民家の住所には「海部郡海陽町奥浦字町内」と書かれていました。あの構造物だけのトンネル、町内トンネルは字名である「町内」から命名されたのではないでしょうか?

町内地区からもと来た道に戻り、さらに南に進みます。突き当たりの民家のそばに道標が健っていました。

これがその道標です。「愛宕山」と書かれた右に向かって進んでいくと、「鞆浦」の懐かしい町並みがある地区になります。

鞆浦港です。青い海と空、白い船がまぶしい、美しい港です。港を中心に発展した町。「海部大橋」のところで書いたように、上流で伐採された木材の輸出港として発展してきました。「鞆」は、左手首の内側につけて、矢を放ったときに弓の弦が腕に当たらないようする武具のこと。この地域の地形が「鞆」の形に似ていたことから、「鞆浦」と名づけられたそうです。

これが、鞆浦の町並みです。確かに、三方を山に囲まれ、平地は海に面したわずかな面積だけというこの地域は、福山市の鞆の浦とよく似ています。歴史を経た建物には、大正期から昭和初期に建てられたものが多く、本瓦葺き、間口の広い平入り、千本格子のついた民家になっています。また、2階の窓に装飾的な手摺りのある家が多いともいわれています。

通りに入ってすぐの右側に、祠が祀られている巨石が建っていました。案内によれば、「鞆浦大岩宝永碑(旧暦の宝永4年10月4日の地震)」と「鞆浦大岩慶長碑(旧暦の慶長9年12月16日の津波)」だそうです。正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれています。「この二つの碑は、四国において判明している地震の文字を刻した最古の碑である」と書かれているように、災害の状況を記録し後生に伝えているものです。

通りは法華寺の門前まで続いています。海部大橋の案内の「鞆浦の集落と法華寺」らしい通りでした。建て替えられているお宅もたくさんありましたが、かつての雰囲気が十分伝わってきました。この点でも、福山市の鞆の浦のもつ雰囲気とよく似ていました。

日蓮宗法華寺です。この地に住んでおられる人たちの深い信仰心を感じます。法華寺の門前町のような雰囲気を感じる通りでした。

JR海部駅のホームに帰ってきました。町内トンネルです。トンネルとマンションの間が、ブッシュに覆われたところでした。昭和48(1973)年から使われ始めた町内トンネルは、もともと山をくぐるトンネルでした。供用開始から3年後の昭和51(1976)年に、現在のような姿になりました。そして、現在まで、構造体だけのユニークな姿で働き続けています。構造体を撤去してしまっても、機能的には問題はなさそうですが・・。

これは、トンネルの左側のようすです。左側の山の尾根が、マンションの手前につながっているように見えます。

これは、トンネルの右側のようすです。現在、ショッピングセンターが建てられているところで山が削られています。供用が開始された頃の町内トンネルは、トンネルの両側につながっていた尾根をくぐるためにつくられました。しかし、その後、住宅開発のために山が切り崩されてこのような姿になっていったようです。

気になっていたトンネルを訪ねてきました。トンネル以外に、海部大橋と「鞆浦の集落と法華寺」も訪ねることができました。この町の人たちに、町内トンネルをこのユニークな姿のまま、いつまでも存続させてほしいと願わずにはおられませんでした。

帰路は青春18きっぷによる普通列車の旅でした。徳島県最南端のJR海部駅から、JR牟岐線、JR高徳線そしてJR瀬戸大橋線で岡山駅まで、5時間40分ほどの普通列車の旅が続きました。



                       

最新の画像もっと見る

コメントを投稿