27:26 「しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。」 誓いの時の代価として捧げるものには、いろいろなものがありました。
ここでは、家畜の初子はその評価としてはならないと告げています。
なぜかというと、家畜の初子はどのようなものであれ、すなわち牛であれ、羊であれ、また山羊であれ、皆、主のものであるからだと告げています。
主のものであるというのは、はじめから主に捧げるべきもの、つまり神殿に持って行って、感謝として捧げるべきものだからであるというのです。
初子を捧げるという時に、人間の初子の場合には、お金に換えて捧げるのです。
捧げる理由は、自分たちの努力によってのみ獲得されたのではなくて、主の守りと支えの中で、主から与えられたものであるからです。
ですから、初物は主に捧げるべきものであるというのです。
従って、その初物は、誓願の評価の対象にはならないというのです。
私たちが獲得したものは、実は主が与えてくださったものなのです。
この理解が、神への感謝へと導くのです。
家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は主からのもの。 (箴言一九14)
日本人に生まれるのも、男や女に生まれるのも、貧乏人や財産家に生まれるのも、頭がよく生まれるのも、ハンサムに生まれるのも、人間にはすべて選択がききません。神のおぼしめしのままです。ところが結婚は、人間にできる大きな選択のチャンスです。ですから、大いに心して結婚相手を選び、結婚がなされなければなりません。
箴言にも、けんかと争いの絶えない妻といっしょに暮らすのは、雨もりの家に住むようだと言っています(一九13)。立っていても座っていても、仕事をしていても眠っていても、その不運から逃れられないのです。また聖書は、そんな妻といっしょに住むより、屋根の片すみに住み、荒野にひとり住むほうがましだとも言っています(箴言二一9、19)。逆にいえば、思慮深い妻を得た者の人生は祝福です。
ところで聖書は、この自由選択できると考えられる妻についても、「思慮深い妻は主からのもの」と語ります。この「主からのもの」ということばは、もとの文では非常に強調されています。人間は、容貌とか、財産・門地・学歴などで配偶者を選んでいるかもしれません。しかし、やはり神が、最もよい適当な配偶者を与えてくださるのです。アブラハムは息子の妻を捜した時、ひたすら神に祈り、財産や門地や容貌ではなく、神の導く人を求めました。そして息子のイサクも、この問題を自分の判断や欲求に任せたのでなく、ひたすら神から待ち望んだのです。配偶者について、そのように神に伺い、神の目にかなった人を神に従ってめとるという態度をとるべきことを知りましょう。
もうおそすぎると言わないでください。ご自分の息子娘たちのために、ほんとうに虚心坦懐に神の前に出て、よりたのむべきではないでしょうか。
(Ⅱペテロ一・四)
もしあなたが実際に神の御約束の尊さを知り、心にそれを楽しみたいと願うならば、神の御約束を熟考せよ。御約束は酒ぶねの中のぶどうのようだ。それを踏めば果汁が流れ出る。聖なるみことばをくり返し熟考することは、しばしばその成就への序曲となる。御約束を思い巡らすうちに、あなたの求める恵みが、知らぬうちにあなたを訪れる。多くのクリスチャンが御約束を探して聖書を熟読しているうちに、御約束を保証する恵みがいつしかたましいの内部に浸透してくるのを経験した。そして彼らは御約束を心の近くに置くように導かれたのを喜んだ。
しかし、御約束を静思するだけでなく、それを神のみことばとしてたましいに受け入れなければならない。そしてたましいにこのように言え。「もし私が人と約束するならば、相手の能力、品性を注意深く考える。神の御約束についても同様である。私は恵みの偉大さに目を見張ってはならない――その結果よろめくかもしれない。むしろ約束した方の偉大さに目を留めなければならない。そうすれば勇気が与えられるであろう。私のたましいよ。おまえに語りかけておられるのは神であり、おまえ自身の神、偽りを言うことのできない神なのだ。おまえが今考えている神のみことばは、神の存在が真実であるように真実なのだ。神は変わることのない方である。一度言われたことを取り消されたことはなく、慰めのみことばのただ一つでも撤回されたことはない。また力において欠けているところはない。おまえにこのように語っておられるのは、天地を造られた神である。神はまた知恵において欠けておられない。恵みを与える時期を誤ることもなさらない。神は恵みを与えるべき時と、保留すべき時とを知っておられる。したがって、御約束が真実不変な全知全能の神のみことばであるのを見る時、私は御約束を信じるのであり、また信じなければならないのだ」と。
私たちがこのように御約束を黙想し、御約束の与え主に思いをいたすならば、その御約束の美しさを経験し、その成就を得るであろう。
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「いのちをつなぐ生活保護は恥じゃない!デモ」
東京メトロ(丸ノ内線、日比谷線、千代田線)霞ヶ関駅B2出口すぐ、
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当日の自己申告によって交通費上限500円を補助します。
27:9 「主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。」
誓願の印として、その願いが実現した時に、動物を捧げる約束をする人もいます。
そうした時は、一度捧げた動物は、もう聖なるものであると語っているのです。
つまり聖なるものとは、主のものであるということです。
ですから、後になって、都合が悪くなったので、その動物を他のものと変更してくれといっても、一度捧げたものは主のものであるので、返還はできないことを語っているのです。そして、もしそれでもと言って、新しい動物を持ってきて捧げても、そのどちらの動物も聖なるものとなってしまって、共々に主のものとなってしまうというのです。
つまり、人間の勝手な思いによって、神のものとされたものを取り返すなどということはできないと、告げているのです。
キリスト者は、イエス様によって聖なるものとされたものです。
つまり、神の者とされたものです。
そのキリストが聖としてくださった者を、人は変えることはできません。
それほどに、神の選びの確かさがあるのです。
神の御心は変わらないのです。
愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。
奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。(箴言一九10)
愚かな人にぜいたくは似合わないとは、辛らつなことばです。ソロモンは、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言一一22)と言いました。これも、ぜいたくが似合わない姿です。成りあがりの金持ちが、料亭に行って、玄関で札に火をつけて自分の履き物を捜させたという昔の話を聞いたことがあります。これもやはり、ぜいたくが似合わない姿です。
ぜいたくが似合うとは、どういうことでしょうか。何年か前、私は旅の途中にちょっと寄り道をして、鹿田という昔ながらの陶器づくりの村へ行ってみました。そこでは、動力機械で陶土をくだかず、昔どおりに水車で土をくだいて陶土をつくっていました。豊かな水が川から流れ、水車の水受けの古い木箱に注ぎます。そして、水がその箱をいっぱいにしてあふれるようになると、ゴットンと音がしてその箱は傾き、今までためていた水をみな注ぎ出してしまいます。すると、ゴットンときねが動いて土をくだくのです。あふれて、与えつくして、お役に立つ。――これこそ、ぜいたくが似合う姿ではないかと思ったのです。
そういう人は、すべてのよきものはいつも神から来ることを知って、神を見あげ、神に期待しています。あふれるほどの神の恵みを心に受け、物質的にも与えられると、惜しげもなくそれを与えつくし、また、からになって神を見あげます。
愚かな者はそうではありません。自分のものでもないのに、自分のもののようにむさぼり、誇り、ためこみます。豊かな人生は、愚かな者にはふさわしくありません。すべてのよいもののもとである神、すべての主人である神をないがしろにして、自分が主人になって暮らす生き方は、人間としてふさわしい生き方ではないのです。
信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ一・五―七)
あなたがもし聖霊の感化と助けにより信仰の全き確信の恵みを得ることを願うならば、聖書に記されているように「あらゆる努力を」せよ。
あなたの信仰が正しいものであるように心せよ。すなわち、単に教理を信じるというのではなく、キリストにより頼み、キリストのみに信頼する信仰でなければならない。勇気をもって励め。神があなたに獅子の容貌を与えてくださり、あなたが正義の自覚をもって、恐れることなく、大胆に前進できるように願い求めよ。聖書をよく学び、知識を得よ。教理に関する知識は、信仰を堅固にするのに非常に役立つ。みことばを理解する努力をせよ。みことばを心の中に豊かに蓄えよ。
そして次に、「知識には自制を」加えよ。自分の肉体に注意をはらい、外側の自制を保て。あなたのたましいに心して、内部の自制を保て。くちびると、生活と、心と、思いとの自制を得よ。
それに、神の御霊により忍耐を加えよ。患難に耐え、鍛えられて金のようになって出てくる忍耐を与えられるように求めよ。苦難に際してつぶやかず、また落胆しないように忍耐をまとえ。忍耐の恵みを得たならば、次に敬虔を求めよ。敬虔は信仰心以上のものである。神の栄光を現すことを、生涯を通しての目的とせよ。神の御前で生活をせよ。神に近く住み、神との交わりを求めよ。そうすればあなたは敬虔を得る。
そしてそれに兄弟愛を加えよ。すべての聖徒を愛せよ。さらに、すべての人に手を広げ、それらのたましいを愛する愛を加えよ。あなたがこのような宝石によって飾られ、これらの天来の徳を実践するならば、その程度に応じて「あなたの受けた召しと選び」を明確な証拠の上に立って知るようになる。
もしあなたが確信を得たいと願うなら、「あらゆる努力」をせよ。なぜなら不熱心と疑いは常に伴ってくるものだからである。
26:46 「以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。」
これまで、主はイスラエルの民のために、新しい地において生きる時に、どのように主に従って生きるのかという道を示されました。
その戒めを、モーセがシナイ山で主から与えられました。
ここでは、その戒めを語って、掟と定めと教えであると告げています。
掟とは、神の戒めのことです。
定めとは、神の御心のことです。
そして、教えとは、神の御旨が告げられることです。
つまり、この与えられた戒めに従って、主の民が生きるようにと、神様が与え示された導きでした。
私たちは、イエス様によって罪の許しを受けて、救いに預かり、神の民の一員とされました。
イエス様による救いに預かった私たちは、神の恵みを覚えて、神の民としての歩みをします。
その時の導きが、こうした旧約聖書に記された戒めの再認識です。
この戒めは、私たちが救いに預かるために守るのではなくて、救いに預かったのだから、恵みに感謝して、守ることを勤めるのです。
財産は多くの友を増し加え、
寄るべのない者は、その友からも引き離される。(箴言一九4)
ここに書いてあることは、すぐ分かります。大金持ちや権力の座についている人のところには、朝早くから多くの人が押しかけ、その人のためなら何でもしてくれるようです。それにひきかえ力のない貧しい人は、最後の友人からも見放されます。
しかし、これはほんとうのことでしょうか。きのうまで、大きな鯛やりっぱな盆栽や高価な宝石服飾品などのプレゼントをかかえて、朝から人々が訪ねてきたのに、その人が失脚して権力を失うと、人々は近づかなくなります。その人がむやみに権力をふりまわしていた人ならば、なおさらです。こんなことは実際に起こっています。見せかけの権力や富は、見せかけで偽りの友しかつくりません。ですから、権力をふりまわして札びらを切ったりするのは、ほんとうに人間らしいふさわしい生き方ではありません。ところが、ほんとうの尊厳というか、威厳というか、ほんものの人生の力をその人が備えると、その人のまわりにほんとうの友が集まってくるものです。そのような人生の力を、だれが持つのでしょうか。
第一に、自分の人生や仕事が神から任命を受けたものだという、純粋で確信に満ちた使命感を持った人。
第二に、すべては神から与えられ預かったものとして、一つも自分自身の利欲のために用いない無私無欲の人。
第三に、人を恐れず神を恐れ、神の前にゆるされ、きよめられた清廉な心を持った人。
こういう人は、人に慕われ、人のリーダーとなり、人の役に立ちます。どんな職業や立場や環境に置かれていても、神を知り神の恵みに生きれば、威厳に満ちた人間らしい人生が送れるのではないでしょうか。逆に、神を離れて自我の道に落ちこむと、寄るべのない者となるのです。
(創世三九・一二)
ある種の罪と戦う場合には、逃げる以外に勝利を得る道はない。古代の博物学者はバジリスクという伝説上のへびについてよく書いている。これににらまれると、からだの自由がきかなくなり、たやすく
今日は、午前中暑さでダウンしていました。
18:00~21:00 まで共産党宣言を勉強していました。
なかなか面白い講義だったので時間が経つのが速かったですね。
皆さんもぜひ一読してみてください。
またご意見も受け賜ります。