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◆彼が……

2015年03月30日 06時19分12秒 | 聖書

そむいた人たちとともに数えられたからである。(イザヤ五三・一二)

なぜイエスは、自分が罪人とみなされることを忍ばれたのであろうか。この驚くべき謙遜は、多くの有力な理由によって解くことができる。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。

 

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