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「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、

2015年06月30日 15時57分49秒 | 聖書

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)

誰かに対する恨み、つらみ、憎しみがあるだろうか。
それが長い間、解決されていないだろうか。
そういう感情が巣くってしまったのは、それなりの事があったのだろう。
しかし、最も苦しいのは自分自身だ。
相手ではない。その相手が頭をよぎるだけで悶々状態だ。
又、家庭や職場の対人関係において、思い通りにならない相手を変えようとして、不毛の戦いをする。
相手は決して変わらない。自分が力尽きてしまう事になる。
神の御心は「自分を捨て」「自分に死に」だ。
自分サイドから、自分の思いで相手を見るなら、恨みつらみが当然になる。
どう動いてもそうしか見えず、そこから出られない。
自我にがんじがらめだ。
ある人がどうしても愛せず、嫌いで関わりたくない相手に、試練が臨んだ。
祈りを要請されるが、どうしても祈れない。
愛したくない。悶々状態だが、どうにもならず、自分を捨てる決心をした。
神にそのままの自分を明け渡した。
すると、不思議だが、自分の思いから離れ相手の対場に立てた。
相手の立場に立って見る事ができた。
その状況で、そうせざるを得なかった心持ちに思いが至った。
自然に赦す事ができた。御霊の働きだ。
自分に死ぬ時、相手が見えるようになる。
自我で一杯の間は何も見えず、信仰も働かない。
今、もしこの状態なら、「心を変えて下さって0Kです」と自分自身を主に持って行こう。
実は好きになりたくない自我から、自由にされる。
---------------
人にはできないことが、神にはできる。
奇跡をされる。自分にはできませんと申し上げよう。
「本音は愛したくないが、主が私を用いて愛されるなら了承します」が、明け渡す事だ。
主がみわざをされる。

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