座間コミニティー

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◆彼(モーセ)の手は日が沈むまで、

2018年04月16日 16時14分14秒 | 聖書
しっかりそのままであった。(出エジプト一七・一二)
モーセの祈りには非常に力があり、すべては彼の祈りにかかっていた。モーセの嘆願は、実際に戦っているヨシュア以上に敵を恐れさせた。しかしどちらも必要であった。そのように、たましいの戦いにおいても、力と熱情、決断と献身、勇気と強烈さが力を合わせなければならない。そうすればすべてがうまくいく。あなたは自分の罪と格闘しなければならない。しかし戦いの大部分は、密室においてひとり神と共になされなければならない。祈りはモーセの場合のように、主の前に契約のしるしを高く掲げる。杖は、神がモーセと共に働いておられるしるしであり、神がイスラエルを治めてくださるシンボルであった。祈りに励む聖徒よ。神の約束と誓いを神の前に高く掲げることを学べ。主は自ら宣言されたことを拒まれることはない。約束の杖を高く掲げて、あなたが求めているものを得よ。
モーセは疲れた。すると彼の友が助けた。あなたの祈りが衰える時、いつでも信仰にあなたの一方の手を支えさせ、聖なる望みにもう一つの手を支えさせよ。そうすれば、私たちの救いの岩、イスラエルの石の上に座した祈りは継続し、勝利を得るであろう。祈りにおいて衰えないように心せよ。モーセでさえもそれを感じたとすれば、だれが逃れることができよう。公に罪と戦うことは、罪のためひそかに祈るよりもはるかに容易である。戦場で戦っていたヨシュアは疲れなかったが、祈っていたモーセは疲れたということに注意せよ。働きが霊的なものになればなるほど、血肉によってそれを続けることは困難である。それゆえ、私たちは特別な力を叫び求めようではないか。そして、私たちの弱きを助けてくださる神の御霊が、モーセを助けられたように、私たちの手をも「日が沈むまで」しっかり挙げ続けさせてくださいますように。
時々思い出したように祈るのでは益が少ない。終夜格闘しなければならない。人生の「日が沈む」まで、そして祈りが賛美にのまれる国においてさらに輝かしい太陽が照り出すのを見る時まで、手を挙げ続けよ。
 
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◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、

2018年04月16日 16時13分02秒 | 聖書

「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。
なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・」(ヨハネ2:24)

多くの人々が主の奇跡を見て、驚嘆し、主を信じたが、主はご自身をお任せにならなかった。
任せるとは、信用する、委ねる、心を与えるという意味だ。
最初の奇跡をカナで行なわれ、数々の奇跡をされた。
それらを見た人々は主を信じた。

しかし、主はしるしを見て信じた人々に、ご自分を委ねられなかった。
主はよくご存じであった。
しるしにより心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、感情は必ず冷める。

しるしだけを求めるなら、試練の時に必ずつまずき、離れる。
軸が自分にあり、自分が中心なので、自分に得るものが無いなら離れて行く。
主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行なわれた。
主の口から語られる一つ一つの言葉によって、みわざが成された。

しかし、人々は御言葉より、奇跡に夢中になる。
そして、奇跡を見て信じた人々は、皆、離れ去ってしまった。
出エジプトを経験したイスラエルはあれほどの、神の超自然を見て、すぐに荒野で、つぶやいた。

荒野で奇跡を見続けたに関わらず、結局カナンに入れず、不信仰で滅んでしまった。
主を信じるとは、主が語られた御言葉を信じることだ。
御霊により語られた言葉を信じ受け入れ、そして御言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。

御言葉に従うとは、つまり、自分を捨てることだ。
自分を砕いて従って行く時、その時、主ご自身を知って行ける。

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信仰が自分軸にあるなら、自分に都合良い限りは従って行くが、都合悪くなると必ず身を引く。
得であれば従うが、損になる事に従いはしない。
一歩一歩、御言葉に従うなら、主はどんなにか喜ばれ、主との信頼関係が深められて行く。

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おはようございます。

2018年04月16日 07時18分34秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年04月16日 07時14分23秒 | キリスト教

聖マインラード司祭

906年-963年

 マインラードは、スイスのボーデンゼ湖畔の村で、信心深い両親の間に生まれた。5歳のときにベネディクト修道院に預けられ、教育を受けた(当時の教育・文化の中心は修道院であり、ベネディクト会からは多くの優れた聖人・学者が輩出している)。マインラードはベネディクト修道会に入って司祭になり、修道院の中の学校で少年たちの教育にあたった。その後、山奥の小屋で孤独のうちに祈りと黙想の生活を送るようになったが、多くの苦しみ悩む人々が、マインラードに慰めと救いを求めて訪れるようになったので、彼はさらに山奥に新しい小屋を建て、そこで生涯を送った。しかしここも人々の知るところとなり、彼は祈りをもって人々を慰め励ました。

 彼の遺体は小屋のそばに埋められ、この墓で祈る人は慰められて帰るので、多くの巡礼者が世界から訪れるようになった。彼の墓の上には大聖堂が建てられ、その横にはベネディクト会の大修道院、アインジーデルン修道院が建っている。

聖ベルナデッタ

1844年-1879年

 1844年1月7日、フランスのルルドという小さな村で生まれた。非常に貧しい家庭で育ったベルナデッタは、たまにしか学校に行けなかったので、読み書きもできない内気な少女だった。その上病弱で、死ぬまで喘息(ぜんそく)から逃れることはできなかった。

 1858年2月11日、ベルナデッタが14歳のとき、妹と友だちの3人で、家の近くのガブ川の岸辺にたきぎを拾いに行った。すると、目の前の洞窟に不思議な光に包まれた聖母マリアが現れた。しかし、一緒にいた妹と友だちには何も見えなかった。この日から7月16日までの5カ月の間、聖母マリアはルルドの洞窟に18回現れ、「罪びとのために祈りなさい」と、ベルナデッタをじっと見つめながら言われ、彼女は絶え間なくロザリオの祈りを唱えていた。

 ベルナデッタは、家の手伝いをしているときも、ヌヴェール愛徳修道会に入ってからも、臨終の床で耐え難い苦しみの中にあるときも、いつもロザリオの祈りをささげていた。1879年4月16日、35歳の若さで亡くなり、修道院内の墓に埋葬された。死後30年、40年、46年と彼女の墓が開けらたが、遺体は全く腐敗しておらず、1933年12月8日、教皇ピオ11世によって列聖された。ベルナデッタの遺体は、今もヌヴェール愛徳修道会の聖堂に静かに安置されている。聖地ルルドは、年間400万を越す人々が世界中から巡礼に訪れ、聖母マリアが現れた洞窟から湧き出る水によって、今も多くの奇跡が行われている。

 

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◆財産が役に立たぬ時

2018年04月16日 07時12分49秒 | 聖書

財産は激しい怒りの日には役に立たない。
しかし正義は人を死から救い出す。(箴言一一4)
数年前、台風13号が八丈島を通った時には、直径約一メートルの岩を一メートル半も動かしたということです。瞬間風速六七・八メートルの文字どおり「岩起こし」の風でした。
人生にも、「岩起こしの風」が吹き荒れることがあるのではないでしょうか。そんな時、財産は全く役に立ちません。
第一に、戦争とか不景気とか火事や地震の災害の前にも、財産が役に立たない時があります。健康な体と心のほうが必要です。
第二に、心の中に巣くう罪の前にも財産は無力です。希望に満ちたきよい心のほうが必要です。
第三に、死の前には、それこそ財産は無力です。百万ドルやるから助けてくれと言って死んだ百万長者がいます。
これらはみな、やがて来るべき「怒りの日」の予告です。聖書によれば、怒りの日が来ます。世界全体・人類全体が、怒りの日をやがて迎えるのです。すべてのたよりにしていたものは、財産どころか地位も名誉も、その日には助けとなってくれません。
何が助けるものでしょうか。正義は、人を永遠の死から救い出すのです。神を知り神に従い神を愛することだけが助けるのです。神だけが、救う力を持っておられるからです。
この怒りの日のために、あなたも私も準備が必要です。
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)。
 
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◆キリストの、尊い血……。

2018年04月16日 07時11分57秒 | 聖書
(Ⅰペテロ一・一九)
十字架の下に立ち、尊い血潮のしたたる両手両足と脇腹を見よ。その御血潮が尊いのは、贖罪の効力があるためであり、それによって民の罪は贖われ、律法の下から解き放たれ、神と和解させられて一つにされるからである。
また御血潮はきよめる力をもつ。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」信者はキリストの御血によってきよめられ、しみや、しわや、そのようなものの何一つない者とされる。おお、私たちをきよめ、多くの不法の汚点を取り去る尊い血よ。あらゆる方法を尽くして神に逆らった私たちを、愛する御子によって神の御前に受け入れられるものとする血よ!
その血はまた、信仰を持続させる力をもつので尊い。血の注がれるもとにいれば、破壊の天使から安全でいられる。神が私たちを見逃された真の理由は、その血をご覧になったためであることを覚えよ。信仰の目のかすむ時、ここに慰めがある。神の目は常に変わらないからである。
また、キリストの血が尊いのは、聖化の感化力のためである。罪を取り去り義とするその血が、新しい性質を躍動させ、また導き、罪を征服させ、神の命令に服従させる。キリストの血管から流れ出る血ほど、聖潔への大いなる原動力はない。
さらにキリストの血がことばに尽くせないほど尊いのは、罪に打ち勝たせる力のためである。「兄弟たちは、小羊の血……のゆえに彼に打ち勝った」と記されている。どうして勝てないことがあろう。イエスの尊い血によって戦う者は、敗北を知らない武器によって戦う者である。
イエスの血よ! 罪はその前に滅び去り、死もまた力を失い、天国の門はその前に開かれる。
イエスの血よ! 私たちがその力に信頼する限り、私たちは勝利に勝利を重ねて前進する。
 
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詩篇99篇6-9節

2018年04月16日 07時09分36秒 | 聖書

99:8 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。
99:9 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。


「我らの神、主をあがめよ」と語っています。

それは「主が聖であられるからだ」と言っています。

聖であるというのは、きよい方であるということです。

その御人格の内に、汚れがない方であると言っているのです。

 このお方が聖であるということは、悔い改めて神の下に信頼を持って頼ってくる者に、イエス様にある罪の許しを与え、反対に、信仰を持たずに悪に付く者に、神は裁きを持って報いをもたらす方であると言っているのです。

神の聖さはこのように、人を2つの群れに分けてしまいます。

神にある聖さに預かる者と、そうではない者との分離です。

それは、神による裁きによってもたらされます。

つまり、神の聖さは、神の裁きによって明らかにされることを、私たちに伝えているのです。


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ヨハネの黙示録22章15節

2018年04月16日 07時06分28秒 | 聖書

★犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。

■O:今日のコラム
イエス様は、ご自分の権威にしたがって、それぞれに永遠の報いを与えられます。ここで、イエス様が都に入れる者とそうでない者を選り分けられます。

都に入れない一番のトップリストに挙げられているのが「犬ども」です。これは、あなたの飼い犬は天国に入れませんよ、ということではありません。

文字通り、犬が問題なのではありません。聖書で犬と表現されている時、以下のような者を指します。

・悔い改めることをせず、自分の好む道に向かい、自分の利益を求める牧者(イザヤ56:11参照)
・自分を義とする悪い働き人(ピリピ3:2参照)
・兄弟に対して敵意、争い、そねみ、憤りを持つ者(ガラテヤ5:15-21参照)
・自分で吐いた物のところへ平気で戻る者。元の性質、古い価値感に戻る者。低いアイデンティティー、自己卑下(箴言26:11,2ペテロ2:22参照)

私たちは天国行きの切符を持っているから、これらは私たちには関係のないことなのでしょうか。そうではありません。これは、イエス様を信じていながらも、何度もそこから離れていく者たち、確信しながらも、再び後ろに引き戻っていく者たちのことを言っています。

つまり、黙示録22章15節の「犬ども」とは、クリスチャンであることが前提の言葉なのです。

終わりの時代にあって、神様を愛する者たちの最大の願い、関心事は、やがて天の御国に上げられ、主の食卓にあずかること、最愛の花婿なるイエス様と一つとされることだと思います。

しかし、今一度私たちは目を覚まし、今、自分がどこに立っているか、御国に入る準備が出来ているのかどうか、吟味する必要があります。なぜなら、みことばには、はっきりとクリスチャンであっても外に出されるということが書いてあるからです。

都に入れないリストの2つ目以降、「魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者」は全て、行いについて書かれています。しかし、「犬ども」は、行いではなく、肉の性質について触れています。つまり、私たちの内側、目に見えないたましいの領域について語っているのです。

この、「犬ども」が一番はじめに挙げられていることは、決して偶然なことではありません。主は、「まず内側をきよめなさい」と言っておられるのです。

結局は、律法学者、パリサイ人たちのように、外側は立派に見えても、内側が偽善と不法でいっぱいであるなら、私たちはゲヘナの刑罰をのがれることはできません(マタイ23:33参照)。

終わりの時、最後まで戦い抜かなければならないこと、私たちが勝ち取るべき領域は、私たちの内側にあるのです。

さて、今日は、2017年最後の日です。私たちはどのように、2017年を締めくくるでしょうか。競争においては、どのようにスタートし、どのように走るかが重要です。しかし、最終的に重要なのは、どのようにゴールするかということです。

どのようにイエス様と出会い、イエス様との歩みをスタートさせたかという証しは尊いものです。しかし、もっと大切なことは、最後まで主が与えてくださったレースから離れず、自分の立つべき場所に留まり続け、最後の最後まで忍耐をもって走るべき道のりを走り抜いたか、ということです。何かを始めることは大切ですが、最後までやり遂げることはもっと大切なことなのです。

私たちは、最後の時、地上の人生をどのように締めくくり、そしてどのように天の御国へと入れられていくのでしょうか。このことを考えるのはとても重要な事です。なぜなら主が戻って来られ、主と共に過ごす永遠の時が間近であるからです。

最後の走りが本当に肝心です。だからこそ、今、目を覚まし、私たちを後ろに引き戻す敵の力に打ち勝たなければなりません。

最後まで走り抜く、とは、自分の夢や願いが達成することでも、主の約束を全て見届けることでもありません。最後の最後まで、小羊の血潮によって罪汚れを洗い、ゴールに向かって私たちの内なる人が完成されていく歩みなのです。

「正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録22:11b)

最後の走りは、「いよいよ聖なるもの」とされていく最後の段階です。

自分は成長している、と思っていても、内側にはまだまだ勝ち取らなければならない領域がたくさんあるはずです。私たちの中に住みついている「犬ども」すなわち、悔い改めのない生き方、自分の意のままに生きる性質、兄弟を訴え自分を義とする歩み、低いアイデンティティー、世の価値観に引き戻る性質、これらが完全にきよめられなければなりません。

「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」(黙示録22:14)

やがて、主が再び戻って来られた時に、小羊の血潮で洗われている者は、幸いな者なのです。十字架の血潮だけが、私たちをきよめ、聖なる花嫁としてくださいます。

自分の力で信仰の歩みを全うすることは到底できません。だからこそ、イエス様の血潮により頼み、最後の最後まで、自分の肉を欲望とともに十字架につけ、イエス様の血潮を告白し続けようではありませんか。

神様が私たちに与えてくださったレースから離れず、最後の章を立派に締めくくるなら、その者たちは、幸いな章の始まりを迎えるのです。

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(1テモテ6:12a)

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:12-13)



■A:考えてみよう
・私たちの目的地はどこでしょうか。
・私たちが最後まで走り抜くために、今、神様が望んでいる場所に立っているだろうか。
・2017年をどのように締めくくり、どのように2018年をスタートさせるでしょうか。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ひさえ 】


今年も一年間、マナメールを購読してくださりありがとうございました。皆様の励ましと祈りに支えられ、主の恵みによって365日一年間、毎日配信することが出来ました。

また、2018年も、主の約束の完成に向かって、信仰の創始者であり完成者である主を見つめながら一歩一歩前進してまいりたいと願います。

日本の諸教会、主の聖徒たちが真理のみことばによって養われ、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長し、キリストの御からだなる教会が最後の時代に勢いを増して建て上げられていくことを願い祈ります。

2018年も宜しくお願いいたします。

主イエスの恵みが皆様とともにありますように。アーメン。



愛と感謝を込めて 

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