座間コミニティー

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◆昨夜、……

2018年04月10日 19時11分29秒 | 聖書
神の御使いが、私の前に立って……。(使徒二七・二三)
あらしと長いやみ、それにいつ難破するかもしれない危険が重なったため、船にいた人々は生きた心地もしなかったが、その中でただ一人落ち着いている人がいた。そして彼のことばによって、他の人々も力づけられたのである。それはパウロであった。彼は「元気を出しなさい」と言うことができた。船には多くの戦いで鍛えぬかれたローマの軍人もおり、老練で勇敢な船乗りもいたが、あわれなユダヤ人の囚人がだれよりも落ち着いていたのである。彼には、その勇気を与える、目には見えない友があった。主イエスは御使いを送って、忠実なしもべの耳に慰めのことばをかけられた。そのために彼は顔を輝かせ、くつろいでいる人のように語った。
もし私たちが主を恐れているならば、最悪の事態に至っても、そこで適切な助けを待ち望むことができる。御使いは、あらしが来ても私たちから遠ざかることなく、暗やみによって妨げられることもない。セラフィムは、信者のうちの最も貧しい家族を訪問することさえ、少しも屈辱とは思わないのである。平常は訪れることが少なくても、御使いはあらしの夜にはしばしば私たちを訪れてくれる。私たちが困難にある時、友人は去っていくこともあろう。しかし、天上の居住者との交わりはいっそう繁くなる。そしてヤコブのはしごを通って御座から送られる愛のことばによって、私たちは困難に直面する力を得る。
愛する友よ。あなたは今悩みのうちにいるか。では特別な助けを求めよ。イエスは契約の使者であり、今そのご臨在を熱心に求めるならば、拒まれることはない。そのご臨在がどれだけ心の励ましとなるかを、パウロのように、あらしの夜、いかりが役に立たなくなり、岩が目の前に迫っている時、神の御使いがかたわらに立っているのを経験した者は記憶している。
 神の御使いよ。近くにいて
 私の恐れを静めてください
 荒く激しい波がたけり狂っても
 主よ。あなたのご臨在は私を慰めます
 
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エペソ6:11

2018年04月10日 19時09分19秒 | 聖書

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」(エペソ6:11)

ある人の証しだ。「祈り、交わり、主との交わりを楽しみ、みそば近く歩んでいた。
御霊からの促しや示しに、一つ一つ従っていた。
特に何の問題も無い時に、突然、心が沈み、暗くなり、ネガティブな思いに襲われた。
特に理由もなかった。

心が深く沈み、重苦しく、閉塞感におおわれた。
わけがわからず、その思いを懸命に何とかしようとするが、どうにもならなかった。
どんどん否定的思いに支配され、自分はダメだ、ダメだとの失望感に陥った。

何が何だかわからず、重苦しい中で主に向かって、助けを求めて心から叫んだ。
その祈りの中で、まさに悪魔からの攻撃であると、知ることができた。
悪魔の私たちへの効果的攻撃法が「失望」に陥らせる事だと言われている。

「失望落胆」で攻撃して来る。悪魔は偽り者であり、偽りの父だ。
頭のスクリーンに嘘を描いて見せて来る。
これまでの歩み、失敗に関して、親子、夫婦関係、対人関係、信仰について、そこに嘘を入れて来る。

すると、思い煩いと不安、恐れで、落胆してしまう。
もし、こういう状態になれば、それは「悪魔」だ。神からではない。
サタンの熾烈な攻撃が来ている事に気づこう。
御霊は御言葉により、敵の攻撃を打ち破られる。敵は破られる。

御言葉を心に据え、信じよう。御言葉を握り、御言葉に立ち、御言葉を心に満たそう。
悪魔は退かざるを得ず、平安が戻る。

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霊の敵の勢力がある。サタンは自らを隠す事が、最大の攻撃だ。
サタンが無く、思い煩い、恐れ、不安が目の前にあるばかりだ。
天国へ帰るまでは、策略者との霊の戦いである事を今一度覚えよう。
すでに勝利の主が共におられる。

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おはようございます。

2018年04月10日 06時37分52秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年04月10日 06時37分05秒 | キリスト教

聖ジェンマ・ガルガーニ

1878年-1903年

 ジェンマは、1878年にイタリアのカミリアノに生まれる。
 7歳のときに母を失ったが、病に伏す母親の枕もとで彼女の信仰は育てられた。16歳のとき兄が亡くなり、その後父親もこの世を去り、親代わりとなって弟妹を育てたが、自らも脊髄を患うという苦しみを受けた。奇跡的に全快したジェンマは、生涯を罪人の回心のため、また教会の発展のために祈りと犠牲をささげて過ごし、1903年4月11日、25歳の復活祭の前夜、神のもとに帰った。


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◆正しい者のことば

2018年04月10日 06時35分46秒 | 聖書

正しい者の舌はえり抜きの銀。
悪者の心は価値がない。      (箴言一〇20)
ある青年が、職場で全然信用がありません。問題は、ことばにあります。うそ・ごまかしがあるので、少しも、そのことばを信用できないのです。
正しい者のことばは「えり抜きの銀」といわれるほど、そのことばには価値があります。
価値のあることばとは、どんなことばでしょうか。
第一は、うそのない誠実なことば、自分をかけてものを言う人のことばです。誠意のない人に、自分を任せることはできません。いつ裏切られるか分かりません。
第二は、人を慰めることのできることばです。もうだめだと自分を卑下し悲観している人を慰め励まして、立ちあがらせることができることばが口から出る人は価値ある人です。
第三は、人をはぐくむ愛のことばです。私たちは、何か人に批判されたり悪口を言われたりすると、よーし、今度会ったらこう言ってやろうと、人をやっつけることばを心の中で一生懸命考え、練習までして準備するところがあります。ところが、人を励まし前進させ育てるようなことば、つまり愛のことばはなかなか出てきません。このような愛といつくしみに満ちた、人をはぐくむことばを持っている人は、何と幸いでしょうか。価値ある心を持った価値ある人です。
こんな価値あることばを話す正しい人とは、どんな人でしょうか。第一は、神を恐れかしこんでいる人です。きよい力強い神の前に、えりを正しています。第二は、神が、こんな弱いけがれた罪人も愛していてくださる。こんな私も、イエス・キリストの十字架によって罪をゆるしてくださっていると知った人です。神の愛とゆるしを知っている人なのです。
「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ七47)。
 
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◆「どくろ」と呼ばれている所に来ると……。

2018年04月10日 06時35分02秒 | 聖書
(ルカ二三・三三)
慰めの丘はどくろの丘である。慰めの家は十字架の木で造られている。王の祝福の宮は裂かれた岩(それは主の脇腹を刺した槍で裂かれた)の上に建てられている。聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほどたましいに喜びを与えるものはない。
 この罪の世の暗いときに
 御使いの歓喜にもまさる
 優しい力をもって慰められるとは
 なんと不思議なことだろう
 ああ、悲しみに沈む目よ
 ベツレヘムの星のあたりよりも
 十字架にこそ向けられるように
ゴルゴタの、真昼なのに真夜中のように暗い所から光が輝き、かつてののろいの木の陰からは野の花が美しく咲く。水のない乾いた地に、神の恵みは水晶のような清水あふれる泉を掘りだし、その一滴一滴は人類の苦悩をいやすことができる。
戦いの時を通ったあなたは、慰めを見いだしたのがオリーブ山でもシナイの丘でもタボルの峰でもなく、ゲツセマネであり、ガバタであり、ゴルゴタであったことを告白するだろう。ゲツセマネの苦菜がしばしばあなたのいのちの苦味を取り、ガバタのむちは心労を追い散らし、カルバリの苦しみは、他のすべての苦痛を除く。こうして、カルバリの苦しみは私たちに、他のものと比べることのできない豊かな慰めを与える。
もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、その深い愛をさぐることができなかったであろう。私たちが日々受けるあわれみは、すべて愛を歌っている。それはさながら、耳をあてると故郷の深い海のささやきが聞こえる貝がらに似ている。しかし私たちが、海そのものの音を開こうと願うなら、日々の祝福を考えるだけでなく、十字架を見上げなければならない。愛を知ろうと願う者は、カルバリに退き、そこで死なれた悲しみの人を見なければならない。
 
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詩篇98篇4-9節

2018年04月10日 06時33分19秒 | 聖書

98:8 もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。
98:9 確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。


 「川よ、手を打ちならせ。山々よ、主の御前で喜べ」と歌っています。

川も山も人格を持っていませんので、実際的にはそのようなことは出来ません。

しかし、川も山も主が造られたものですので、擬人化して、その造ってくださったお方を褒め歌えと言っているのです

 では、何を喜び褒め称えよと言っているのでしょう。

それは、主が裁きのためにお出でになられることです。

その時は、私たちの救い主であられるイエス様が、再びこの地にお越しになられる時、つまり再臨の時です。

その時に主はすべての悪を裁かれて、滅ぼされます。

そして、神の栄光と力のみが、そこに現されます。

それは御国が完全に実現する時で、人にとっては大きな喜びの時です。

そして同時に、それは自然にとっても、様々な破壊からの解放の時となるからです。

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黙示録20章12節

2018年04月10日 06時30分43秒 | 聖書

★また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。


■O:今日のコラム
さばきを知る時、私たちの生き方が変わります。

さばきとは主を求める者にとっては大きな慰めであり喜びです。なぜならそのさばきの中で主は、私たちの心のはかりごとさえも正しく判別され、神をおそれ敬って生きた全ての人生の歩みに対して正しい報いをくださるからです。さばきとは私たち主の民が覚えなければならない重要なテーマなのです。

多くの場合、私たちはこう考えます。「私は既にイエス・キリストを信じているので神の恵みによりさばきとは無関係だ。」と。しかし、恵みの福音を宣べ伝えたパウロ自身がクリスチャンたちに対してこのように手紙を書き送っています。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。」(2コリント5:10-11a)

さらにヘブル人への手紙にはこのようにも記されています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

神学の弊害の一つに「置換神学」というものがあります。たとえばイスラエルを全て拒絶し、教会に置き換えたのが置換神学です。

しかし、これはイスラエルと教会のことだけでなく、神を信じる者と信じない者に対しても置換神学の概念が働き、このようなさばきについて聖書に書かれている箇所を読む時には絶えず自分を脇に置き、「これは神を知らないあの人々に対するさばき。」というフィルターを通して御言葉を読んでしまうのです。それなので御言葉を読んでも悔い改めに至ることがありません。

しかし、一方ではこの様にも記されています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネの福音書3:17-18)

この箇所を読む時、私たちは現代の「信じる」という概念と初代教会時代の「信じる」という概念には大きな違いがあることを知らなければなりません。現代の「信じる」という言葉は時に「キリストを信じているので、後は何をしても大丈夫。」という罪を犯しながらもなお天の相続者になるためのフリーパスポートのように用いられてしまう場合があります。

しかしパウロもユダもはっきりとそれは主の教えではなく、恵みを放縦に変えた状態だ。と警告をしています。初代教会時代の「信じる」という言葉には「忠実、真実、従う」と言う意味が含まれており、信じることは教理や神学を概念の中で受け入れることではなく、人生全てを捧げて主イエスに従うことを意味していました。

しかし、どこまでも罪と肉の性質があり、自己中心で自分勝手な私たちが主に従うということは出来ないことだと感じます。主に従い生きようとすると絶えず内なる戦いと葛藤を感じ、時には弱さに打ち負かされたかのように感じる時もあるでしょう。

そのような私たちに主は御座にあるもう一つの性質へと導きの手を差し伸ばしてくださっています。それは「恵みの御座」です。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15-16)

ここに一つの矛盾が主の御座で生じます。主の御座において「さばきの座」と「恵みの座」が交差するからです。主のさばきは絶対的なさばきであり、決してそこに偽りや不正や許容があってはなりません。

しかし、それと同時に主の恵みは偉大なあわれみであり、全てを信じ、全てを赦し、全てを愛し受け入れる恵みなのです。この矛盾はただ一つの場所だけで解決します。それが主イエスキリストの十字架です。

十字架の縦の線はどこまでも父なる神に忠実に真実に歩まれた、さばきに対する御子の姿であり、十字架の横の線はどこまでも私たちを愛し、赦し、あわれみを示して下さった、恵みに対する御子の姿です。

私たちが主の御前に大胆に立つことが出来るのでは、私たちの立派さや、力のゆえでなく、ただ主イエスの十字架のゆえであることを覚え、1年の終わりに十字架を見上げ、その十字架の恵みに心から感謝する時間を持ちましょう。



■A:考えてみよう
一年を振り返り、一つ一つの恵みを数え、具体的に主の御前に感謝を告白し、賛美を捧げる時間を持ちましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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