座間コミニティー

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◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、

2018年04月03日 18時57分11秒 | 聖書
おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ五三・六)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
 
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ルカ1:38

2018年04月03日 18時56分04秒 | 聖書

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)

マリヤはナザレの田舎で暮らすごく平凡な女性だった。
ヨセフと婚約中で大きな喜びの中にいた。結婚の夢を描いていただろう。
突然の事態に「どうしてそんなことに・・」マリヤは、なぜ自分なのかと大きな戸惑い、恐れ、不安に襲われる。
これはマリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。神が一方的にマリヤを選ばれたのだ。

ヨセフはどうなるのか。聖霊によりみごもるなど、そんな唐突な事を誰が信じられるだろう。
結婚は壊れてしまうだろう。人はどう思うだろう。それより姦淫は死刑だ。
お言葉通りになるとは、死を意味する事になる。
周囲に自己弁護も出来ない立場をマリヤは受け入れ、覚悟を決め、決意し、神に身を差し出した。
その身を献げきった。

私達はどうだろう。主のお言葉通りにではなく、私の言葉の通りにとばかりに、神に「ああして下さい、こうして下さい、あっちへ行って下さい、こっちへ来て下さい」とまるで主をしもべのようにしてしまう。
しかし、「この身になりますように」と、自分の思いを捨て、自分の将来も献げ、自分を全く明け渡したのは、マリヤの信仰だ。

今、あなたにも導きが臨んでいるだろうか。
マリヤと同様、神はあなたを選び、あなたにより神のわざを成そうとしておられる。
特別にあなたを選ばれた。この身になりますようにと、信仰によりお献げしよう。
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あれが出来てから、もう少し状態が整ってからと思うが御霊の促し、導きが一番価値のあるものだ。
おことばどおりにこの身になりますようにと、主に自分自身を明け渡し、信仰を持って素直に献げよう。


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おはようございます。

2018年04月03日 09時01分33秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年04月03日 09時00分48秒 | キリスト教

聖シクストゥス1世教皇

在位115?~125?

 この時代、教皇はギリシア語の名前を付けるのが通常だった。「シクストゥス」という名は「第6番目」という意味で、聖ペトロの次の教皇から数えて6番目にあたるのでこう呼ばれたのかもしれない。また、ギリシア語の同じ音で「ひげを剃った」という意味もある。彼の時代、ローマ人の間ではひげをたくわえるのがはやっていたので、彼の特徴としてこの名がついたのかもしれない。

 当時、キリスト信者たちは厳しい迫害を受けていた。教皇になれば、殉教が待っていることは間違いなかった。こういう状況の中で、教皇となったシクストゥス1世は勇気ある人である。彼は典礼に力を入れ、司祭が感謝の賛歌を唱えるとき、全信徒が司祭と一緒に唱えるべきであると主張した。教皇として10年間を治め、127年に殉教したと言われている。

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◆まっすぐに歩め

2018年04月03日 08時59分29秒 | 聖書

まっすぐに歩む者の歩みは安全である。
しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。(箴言一〇9)
選挙運動中に、つとめて政見放送を聞いていると、「正直者がばかを見る社会でなくしたい」と、多くの候補者が判で押したように言いました。さて、「正直者はほんとうにばかを見ている」のでしょうか。
ある国から帰ってきた人が、こんなことを言っていました。「どろぼうはつかまっても、警官に盗品の半分をやればゆるしてもらえる。盗んだ品がたとえ届けられても、警察署の中でドロンと消えてしまう。」そういう事情ですから、道路工事をしてもダム工事をしても、みんな食い物にされています。結局、みんながめいめい好き勝手なしたい放題をしているこの国は、いつになっても、貧しい乱れた国情から脱出できないでいるというのです。
そうです。長い目で見る時、「自分の道を曲げる者は思い知らされ」ています。昭和の初めにあんなに力を誇ったドイツのナチ政権は、どこに行ったでしょうか。ごまかしと暴虐と不義がそのまま続いて繁栄したという歴史上の事実はありません。ナポレオンはこう言ったといいます。「私の帝国は滅びた。しかし、イエス・キリストの愛の王国は今も前進を続けている。」神は生きておられます。そして、見ておられます。あなたや私や私たち人類の不義・ごまかし・暴虐を見守っておられます。悪者は滅びるのです。
神の前に悔い改めなければなりません。十字架のイエス・キリストの死こそ、この人類――あなたと私――の罪の清算であり解決です。罪をゆるされ、神に従うまっすぐな道を歩みましょう。そこに、ほんとうの安全があります。
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言一四34)。
 
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◆そのとき、イエスを、

2018年04月03日 08時56分18秒 | 聖書
十字架につけるため彼らに引き渡した。(ヨハネ一九・一六)
主は終夜苦しみの中にあり、未明にカヤパの邸宅を出てピラトのもとに送られ、ピラトからへロデに、ヘロデから再びピラトのもとへと引き立てられた。したがって主の体力は極度に衰えていた。しかも食物も休息も与えられなかった。彼らは血に飢え渇いていたので、主を殺すために十字架を負わせて引き出した。エルサレムの娘たちが泣き悲しんだのも当然である。私のたましいよ。おまえもまた泣け。
尊い主が引き出されるのを見て、私たちは何を学んだらよいだろうか。私たちはいけにえのやぎに影として示された真理を見ないであろうか。すなわち祭司長がいけにえのやぎを引いてきて、その頭に手を置き、民の罪を言い表し、それによってその罪をやぎに負わせて民を救うということが行われた。それから係りの者がやぎを荒野に導き、民の罪を担わせて去らせる。こうして罪は行方知れずとなる。同様にイエスも祭司や役人の前に引き出され、彼らによって罪ありと宣告された。神ご自身が私たちの罪をイエスの上に転嫁されたのである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」すなわちイエスは私たちの罪の身代わりとして、その肩に、十字架によって象徴される私たちの罪を負われた。大いなるいけにえのやぎは、このようにして役人によって連れ去られた。
愛する友よ。あなたはイエスがあなたの罪をもち去られたことを確信するか。あなたが主の肩に十字架を見る時、それがあなたの罪を表すと思うか。あなたの罪がもち去られたかどうかを示す方法はただ一つある。手を主の頭に置き、あなたの罪を告白して主にゆだねる時、あなたの罪はキリストに転嫁され、もはやあなたの上にはない。そして主はそれを十字架よりも重い荷として肩に担われたのである。
この絵姿を、あなたが自分の救いを喜ぶまで失わないようにせよ。そしてさらにあなたの不義を担われた愛する贖い主をあがめることができるように。
 
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詩篇97篇8-9節

2018年04月03日 08時50分08秒 | 聖書

97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。
97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。


シオンとは、エルサレムの神殿がある丘の所のことです。

ユダの娘というのは、ユダ民族のことです。

両方とも、主が共にいる所と、その民のことを語っています。

そして彼らは今、喜びに踊っているというのです。

その喜びの理由は、主が裁きを行われたからであるというのです。

裁きを行うとは、主が主に逆らう者達を駆逐して、主を敬う者達を守り支えてくださったことです。

そこに、主の憐れみと力が示されて守られたことに感謝して、民は今、喜び踊っているのです。

この喜びは、自分たちが主の裁きによって守られたことに対する喜びですが、同時にそれは、主が御自分の義を持って悪しき者を裁かれたという喜びでもあります。

それによって、主ご自身が力と権威を現されて、ご自分が真の神であられることを人々に明らかにされた、そのことを喜んでいるのです。


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エゼキエル書13章10~12節

2018年04月03日 08時47分42秒 | 聖書

★実に、彼らは、平安がないのに「平安。」と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。しっくいで上塗りする者どもに言え。「それは、すぐはげ落ちる。」大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、「上塗りしたしっくいはどこにあるのか。」と言わないだろうか。


■O:今日のコラム
私の実家は、もう20年以上前に建てた家なのですが、建った当時は外見も内装も本当に綺麗で、申し分ない出来栄えに家族みんなが喜んだのを覚えています。

しかし、それから約3年後、天井に大きなシミが出始めました。どこからか雨漏りしていたのです。建てた業者を呼んで調べてもらうと原因が分からず、様子を見てくれと言われました。雨漏りする度に業者を呼んでは原因が分からず、それを繰り返すこと15年、らちがあかないので他の業者に来てもらったところ、手抜き工事だったことが判明しました。

建てた業者に対しこの事を伝えたところ、それまでにかかった費用は返してもらい、違う業者に新たに工事をしてもらって、ようやく雨漏りが直った、ということがありました。

この箇所は、壁を上塗りをしてしまえば内側の状態は見えなくなくなる建築業者の手抜き工事のようなものです。しかし、突然の大雨、強風が吹けば、雨漏りし、真相が見えて来るんです。

平和だ平和だと人々を喜ばせる偽りの預言者は、争いの渦に巻き込まれると真相が露わにされるのです。



■A:考えてみよう
私たちは、自分たちの不安を癒すために、気休めに「平安」を語る偽預言者の言葉に頼ります。しかし、それは、欠陥だらけの壁をしっくいで上塗りしてしまうようなもので、わざわいの日には何の役にも立ちません。

このような時代であるからこそ、私たちは神のみことばをしっかりと握りしめ、主だけを見つめていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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4月2日(月)のつぶやき

2018年04月03日 02時34分08秒 | 仏教
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