座間コミニティー

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◆もみの木よ。泣きわめけ。

2017年09月26日 16時34分09秒 | 聖書
杉の木は倒れ、みごとな木々が荒らされたからだ。(ゼカリヤ一一・二)
森の中でかしの木が倒れる音がしたならば、それはきこりが歩いているしるしである。そして全山の木は、鋭い斧が明日はわが身を打つのではないかと震える。私たちはみな、伐採のしるしをつけられている木のようである。一本の木が倒れれば、杉の木のような大きな木も、もみのような小さな木も、定められた時が近づいていることを知らなければならない。
人の死をしばしば聞くことで、私たちは死に関して平気にならないようにしたい。教会の塔にいる小鳥が礼拝の鐘の鳴る時に巣を作り、厳粛な弔鐘があたりの空気を震わせる時に静かに眠るというようであってはならない。死を一切の出来事のうち最も重大なものとし、死の接近によって厳粛な思いに満たされるものでありたい。自分の永遠の運命が一本の糸にかかっているのに、戯れているのは実に軽薄である。
剣は抜き放たれてはいない。それなら、それをもてあそぶようなことはしないようにしよう。それは磨きあげられ、刃は鋭い。もてあそぶべきものではない。
死に対する備えをしない人は、単なる愚か者以下である。神の御声が園の木の間に聞こえる時、いちじくもいちじく桑も、にれも、杉も等しくその響きを聞け。
キリストのしもべよ。備えをせよ。主は、不信仰な世が全く予期しない時に不意においでになる。心して忠実に主のわざをせよ。すぐにあなたの墓穴が掘られる時が来るからである。親たちよ。用意せよ。心してあなたの子どもたちを、神を恐れるように育てあげよ。なぜなら、子どもたちはすぐに孤児にならなければならないからである。実業家たちよ。あなたの事業を正しくし、心を尽くして神に仕えるように心がけよ。あなたの地上の務めはすぐに終わり、善であれ悪であれ、あなたが肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからである。
私たちのすべてが、偉大な王の法廷に出る時、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とのおほめのみことばをいただけるように備えていけますように。
 
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「自分に都合の良いことを言ってもらうために・・

2017年09月26日 16時33分10秒 | 聖書

次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」(Ⅱテモテ3:3)

サタンは主を聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせた。
神殿と都とを見渡すことができて、犠牲を献げるために集まって来る多くの人々が見える。
多くの人々も主を見ることができる。

「あなたは神の子なのだから、下に身を投げてみたら」
「神は御使いたちに命じて、あなたを支えさせるよ。あなたは人々から喝采を浴びて、注目の的になり、スーパーヒーローになるよ」
「そうするなら、人々を救いに導きやすいんじゃないの」

奇跡は、御父のみこころの中にあり、不必要な奇跡はされない。
を試みることになる。
主が御言葉でサタンに対抗された時、サタンも同じく御言葉を持って来た。
知恵にたけて狡猾だ。

「すべての道」が抜け落ちていて、前後の文脈を無視し、聖書のメッセージを異なったものに変えている。
神のみこころに従うなら、神の守りが保障されているのであって、みこころに反して、自分勝手に歩むなら、その保障下にはない。

サタンも御言葉もどきを持って来る。
自分に都合の良い御言葉、自分勝手に持って来る御言葉は、サタンの狡猾な誘惑であることを見抜き、十分気をつけよく祈っていよう。

自分の思いが強く、願望が強い時、欺かれてしまう。右でも左でも白でも黒でも御心のままにと、自分を明け渡す時、御霊に正しく導かれる。
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偽者を見抜くためには、本物をよく知らなければならない。
御言葉をいつも側に置き、内に宿る御霊によって正しい道に歩もう。
主はすべての事について、理解する力を必ず与えると約束して下さっている。


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おはようございます。

2017年09月26日 07時21分13秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年09月26日 07時20分21秒 | キリスト教

聖コスマと聖ダミアノ殉教者

4世紀

 コスマとダミアノは、アラビアのキリスト信者の家庭に、双子として生まれた。2人は若いころシリアで医学を学び、キリキアのエゲアで開業した。自分たちがキリスト者としてできる奉仕は、無償で人びとの治療をすることだとして、決して報酬は取らなかった。そのため「銀貨を取らない者たち」と呼ばれた。

 キリスト教徒の迫害が始まると、2人は捕まって、信仰を守りとおし処刑された。2人の遺体はシチリアに送られ、シールスに埋葬された。後に皇帝ユスチニアヌスは、コンスタンチノープルに、2人にささげた教会を建てた。フラ・アンジェリコによる2人の生涯の絵は有名である。

 彼らは、医師、薬剤師および医学の保護の聖人として知られている。

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◆ちょっとだけ

2017年09月26日 07時19分18秒 | 聖書

ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、
なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。(箴言二三31)
これは、酒に魅せられた体験者のことばではないでしょうか。そうでなければ言えないような表現です。直訳すると、「ぶどう酒が赤く、その杯の中にその目を与え、まっすぐ行く時、それを見てはならない」となります。ぶどう酒が赤く輝き、ウインクするというのです。「ウインクされても見てはならない」とは、面白い言い表し方です。
酒におぼれて家庭を破壊し、自分でも死の苦しみをする人々は案外多くいます。救世軍中将山室軍平が酒の害をあげているのを見ましょう。健康を害する。能率を減退させる。人を愚かにする。人を短命にする。人を貧窮に追いこむ。人を犯罪に追いやる。家庭を破壊する。非行少年を出す。……と読んでいくと、ちょっとこわくなります。
何年か前のこと、もう夜の十二時近かった、からっ風の吹き抜けていく駅のホームで、ぐでんぐでんに酔っぱらった中年男が哀調を帯びたスーダラ節を歌っていました。奇妙なことに、時々思い出します。
 チョイト一杯のつもりで飲んで
 いつの間にやらはしご酒
 気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
 これじゃ体にいいわきゃないよ
 分かっちゃいるけどやめられない……。
ちょっとだけ、……これは悪魔がいつも口にする、ありふれた手口ではないでしょうか。ダビデも、屋上からバテ・シェバのヌードを見た時、やはり、ちょっとだけだと、バテ・シェバを召し寄せたことでしょう。ユダが、仲間の財布から金をくすねた時も、ちょっとだけのつもりだったでしょう。しかし、ダビデもイスカリオテ・ユダも、それではすみませんでした。自分の中にあるちょっとだけという心のメカニズムを反省してみる必要があります。
 
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◆谷底にあるミルトスの木……。

2017年09月26日 07時18分29秒 | 聖書
(ゼカリヤ一・八)
この章の幻は、ゼカリヤの時代のイスラエルの状態を記したものである。しかし、私たちに対する意義を考えるなら、今日の世にある神の教会について述べていると言えるだろう。
教会は谷底に繁茂するミルトスの木にたとえられる。心を留めて見ないと、それは隠れていて人目につかず、誉れを求めようともしないし、また注意をひこうともしない。教会は、そのかしらである主のように栄光をもつ。しかしその栄光は肉の目からは隠されている。教会がそのすべての光彩を放つ時は、まだ来ていないからである。
またこの聖句によって、私たちは平安を教えられる。それはあらしがどれほど山頂に吹きつけようとも、谷底のミルトスの木は静かだからである。ごつごつした岩の多いアルプスの高峰で暴風雨が猛威をふるう時も、神の都を喜ばせる川の流れる谷間では、静かな岸辺にミルトスの木が茂り、猛烈な風にも揺れ動くことはない。神の教会の内部の平静はなんとすばらしいものか。反対があり迫害があっても、教会はこの世の与えることのできない、またこの世によっては奪われることのない平安をもっている。人のすべての考えにまさる神の平安が、神の民の心と思いとを守っている。
この幻は、聖徒たちの平和な不断の成長を力強く表してはいないだろうか。ミルトスの木は落葉樹ではなく常緑樹である。そして教会も、最悪の事態に立ち至ってもなお幸いな恵みの緑を失わない。否、厳寒が来れば来るほど、ますますその緑を濃くする。最も厳しい逆境の時に、教会は最も繁栄した。
それゆえ、この聖句は勝利を暗示する。ミルトスの木は平和の象徴であり、かつ勝利を暗示する。勝利者の額はミルトスの木や月桂樹をもって飾られた。そして教会も常に勝利してはいなかったか。すべてのクリスチャンは、自分を愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となるのではないだろうか。聖徒たちは生きている時は平和の中におり、死んでからは勝利の腕の中に眠る者ではないだろうか。
 
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詩篇65篇5-8節

2017年09月26日 07時16分43秒 | 聖書


65:6 あなたは、御力によって山々を堅く建て、力を帯びておられます。
65:7 あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。


神は、この地とこの世の歴史を支配しておられる方です。

この世界の歴史は、神の御支配と導きを証しているのです。

この歴史を通して、イエス様による救いの実現を知らせ、その完成の時を示して、導きを与えてくださっているのです。

世界の歴史は、混沌としているのではないのです。

「光あれ」と言われた主が、その光を持って導いておられるのです。

この造られた自然も、そこで起こることも、歴史の中で生じることも、神さまの御心とその意図に逆らって、事が起こっているのではありません。

神の御支配から逃れうるところのことは、ないのです。

主の御心のみが、完全に実現していくのです。

 ですから、世の歴史の支配者は、この主なる神であるお方を覚えて、聖書で語られているこれから起こるべきことによく注意を払って、その御旨に心を置いて歩んでいくことが、この歴史の意味を知る私たちの勤めなのです。


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ルカの福音書18章8節

2017年09月26日 07時14分08秒 | 聖書


★あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

■O:今日のコラム
この「信仰」という語には冠詞がついていて、「その信仰」というような意味があります。しかし、どんな信仰でも主からのものであるなら、無くならずに保たれ、むしろ増し加わっていくことを願います。

聖書の中で信仰がなくならないように、主から祈られた人物がいます。それはペテロです。

「『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』
シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』
しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」(ルカ22:31~34)

サタンによって、信仰が揺さぶられることを父が許されました。神のご計画を実現していくためにサタンの企みがプラスになるときに、父はその企みを認められます。弟子たちは、麦のようにふるいにかけられることになりました。

しかしイエス様は「あなたのために」と言ってペテロだけのために「信仰がなくならないように」と祈られたのです。この祈りはどこで成就したのでしょう?それはペテロが三度イエス様を否むことから成就が始まっていくのです。

主を否むことが、祈りの成就?と思われるかもしれませんが、このペテロの中の主を否む心は、初めから存在していたもので、急にこの時に与えられたものではないのです。

私たちの中にある罪の性質は、ある時が来るまでは、なりをひそめているものなのです。これが十字架の前にあらわになることが必要だったのです。そして、不信仰を悔い改めて癒されることが。
十字架によって、弟子たちの信仰がふるわれるときに、揺るがない信仰を持っている人物が励ましを与えるためにです。

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:61~62)

ペテロは、イエス様の御言葉によって激しく悔い改めたのです。世にある悲しみは死をもたらしますが、神の御心にそった悲しみは、救いに至らせる悔い改めを生じるのです。悔い改めは御言葉によって心を突き刺されて起こるものです。そしてそれは救いを得させるのです。あるべき姿へと回復を与えるのです。

このような深い悲しみを伴った悔い改めによって砕かれた器となっていくことは、信仰がなくならないために重要なことなのです。

それゆえにペテロは、イエス様の復活を聞いて弟子たちが信じなかったときにも、イエス様に対する揺るがない信仰を持ち、よみがえりを信じて真っ先に墓に向かって走っていく者とされていたのです。



■A:考えてみよう
日々、悔い改めの恵み感謝して受取りましょう。砕かれた器となることを選び取りましょう。
ただ主の御心がなりますように、という心を求めましょう。


■P:祈り
私に毎日、悔い改めの霊を注いでください。悔い改めをもって神の国の奥深くに入ってい行けるようにさせてください。
私の罪をあなたがどれほど悲しんでおられるかを悟らせてください。私を砕かれた器としてください。 



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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9月25日(月)のつぶやき

2017年09月26日 02時26分20秒 | キリスト教
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