トシコロのありのままの暮らし


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セミについて

2021-07-24 11:24:56 | 日記
  セミについて.         2021年7月書

  夏になると東京でもいろいろなセミの声が聞こえます。木がたくさんある佐久はもっとセミの声が聞こえるでしょう。「ミーン・ミーン」、「ジー・ジー」、「オーシンツクツク・オーシンツクツク」、「カナカナ」。僕が聞いた声はこの四つですが、みなさんはもっと多くの種類を聞いていることでしょう。このうち、ぼくは「オーシンツクツク」を一番聞いています。
 「しずかさや、いわにしみいる、せみの音」という俳句があるとおり、はげしい音なのに、聞いてみるとクラシック音楽のようにしずけさをわれわれは感じますね。子供の時からぼくはふしぎに思っている事です。ぼくもセミの声は大好きです。
  セミはタマゴで生まれて、幼虫になりますが、何年も地中、つまり、土の中にすみつづけ、木の根などを食べながら、無言でくらしています。その年数はセミのしゅるいによってもちがいます。そのようなことが好きな人は、本やインターネットでしらべてみて下さい。そして、大きくなったら、土の中から出て、木にのぼり、サナギになり、さらには、そこから成虫になり、空も飛べるようになり、オスのセミは恋人になるメスを求めて、あのようにさかんに鳴(な)きます。そのあと、結婚してタマゴを産(う)んだら、まだ暑い時でも力つきて、死ぬわけです。そして、その子供たちも同じ一生をくりかえす。
  セミにも心はあると思いますが、大人になり、自分が死ぬことがわかるのかは何とも言えません。ぼくにもわかりません。でも、死ぬ少し前に鳴いたり、恋人をもとめるなど、やるべきことややりたいことをやる。われわれ人間にも言えることですね。人間は自分が死ぬことは知っているから、なおさら、やるべきことややりたいことをやるわけです。それでだれもしあわせになります。ぼくの同級生に早く体が弱って死ぬ病気の人たちが二人いましたが、二人共、そうしました。一人は勉強が大好きだから思い切り勉強しました。知らないことを知ることは楽しいですからね。もう一人は、科学が好きで、科学の勉強をしました。二人共、自分は25歳くらいで天国に行くことがわかっていましたが、その間、思い切り好きなことをしていたわけです。二人は今も時々ぼくの夢(ゆめ)の中に出てきます。天国から会いにやってきているのですね。死んでも、二人と心はつながり、友人なのです。
  セミからも多くのことが考えられますね。セミの音楽を聞きましょう。

 命を懸けてはいけないもの

2021-07-22 10:34:00 | 日記
   組織である。どのようなものでも、組織のために一生懸命になってはいけない。例えば、医者やナースなどの社会性の高い仕事、奉仕活動、芸術、学問、恋愛、友愛、信仰と、身体的な命よりも価値が高いものはいくらでもある。今は世間的にバカにされているようだが、無論、政治家としての活動もそうだし、役人の仕事も本来はそうである。犬養毅など、日本でも命掛けで政治をした人も輩出していたわけである。

  ところが組織のために一生懸命になるとろくな結果は出ない。近年の日本では、東芝が典型例かも知れない。「会社組織のために」と多くの社員が尽くすと、顧客などの声も聞けなくなり、品質の悪い製品になったり、汚職などの何かの不祥事を社員ぐるみで隠すなどして、しまいには潰れるわけである。強いて言えば、関係者は組織内にしか目が向かなくなり、内向きになるから狂うのだろうか。会社が一番判りやすい例だが、福祉関係、身障団体、役所関係、宗教関係、政党、軍隊とそうである。もっと大きく、国家組織も言える。

  戦前の日本の歴史。陸軍と海軍の組織こだわりや両者の対立の事はたくさん聞いた。確かに、両軍の高級軍人は内向きな視野しかなかった。世界を見る目どころか、日本国内もまともに見れなかった。でも、他の社会組織も同様だった。会社、役所、政党、宗教関係と。昭和初め、政党間の足の引っ張り合いばかりしていたことは有名である。組織主義に各党が陥ったわけである。これでは政治が無力化して、当時は力のあった軍部が台頭したのも当然である。国民は組織ごとにばらばらになっていたわけだから。

  無論、会社や政党を越える国家組織は、軍隊を動かせるから、国民がそれにこだわり、尽くすと恐ろしい事になる。日本もそうだったし、ナチス・ドイツ、第二次大戦後はアメリカやソ連もそうである。アメリカもベトナム戦争をしたし、ソ連に至っては戦争のほか、全てに組織主義で滅びた。

  戦前の教育勅語には国家組織の事は明記されていなかったようだが、その頂点である天皇のために尽くせ。そこから国民の多くが国家組織奉仕になり、特に第二次世界大戦中は極端な形になったと考えられる。国民は天皇とは面識もないから、天皇個人に尽くすことはできないので、それに代わって国家組織への忠誠となったようである。国家組織と国民統合の区別が戦前はあいまいだった点もまずかった。天皇制を存続させるならば、この二つの区別を付けないといけない。

  戦前、戦後の別なく、天皇制に反対するクリスチャンたちの意見も聞いたが、だれ一人国家組織との絡みは述べなかった。教会組織へのこだわりが強く、後年は牧師レイプを教会組織を大切にするために隠ぺいしていたのも皮肉だと。実際は国家組織こだわりが戦争の根の一つだし、教会関係も似た体質はあるのに。

  あと、学生の自然発生的な集いだった全学連が組織化され、新左翼になっていった事とか、組織化された身障運動がケンカが多発して行き詰まったことなど、組織こだわりのおかしさはいくらでもあるるわけです。軍隊組織が典型例であるように、組織にこだわると個人の気持ちを無視するような冷たさも出てくる訳で、問題の根は深いわけですね。

小山田圭吾氏の件から想う

2021-07-20 10:41:18 | 日記
   和光学園在学中の障碍児や韓国・朝鮮系の人たちへのイジメと差別事件で、オリンピック関係の音楽を取り下げられたという。まず、本人については、この件を機会に、改心して、世界の差別撤廃の音楽を作るなど、そのような事をして欲しいし、世間も暖かく見守り、改心のサポートをして欲しいです。

  それにしても、彼の学校の先生とか親はどのような教育をしてきたのだろうか。和光学園は小学から大学まである学園で、全人教育をして、僕が知る限りでも、50年くらい前から身障者や盲人、聴障者や韓国系の人たちも受け入れてきた所です。光明養護学校の卒業生もかなりそこに通ったわけです。その事を知っている僕には考えらない出来事です。未成年の悪い行いは先生とか親、世間の影響がかなりありますからね。

   日本国内にも差別がある事を世界に発信する事になったのも、ある意味では歴史の必然だったと思います。仮に小山田氏のオリンピック協力がなくても、別の件で日本の差別問題は世界に広まったと思いますが、今回の件はそれが早くなったわけですね。

   因みに、悪い人をただ感情的に叩くのも、これまた差別であり、ファシズムの根でもあります。今回の件で日本が差別撤廃に向かうのか、それとも、差別がひどくなり、新ファシズムに向かうのか、試されているわけですね。どちらを我々は選びますか。...。

不死細胞

2021-07-19 11:06:04 | 日記
  ガン細胞の事である。他の細胞には寿命があるが、ガン細胞だけは水と栄養だけを与えれば永久に生き続けるわけだから。それをクローン培養し、育てたらゴジラみたいな怪獣が生まれ、世界を荒らし回るSFもできるのではないかと思いたくなる。

  死を自覚しないと、生やお金への執着が強くなり、心のガンになるのかもしれない。例の和歌山の金持ち殺人事件は殺した側も、殺された側もそうだった気がする。聞くところ、身体のガンは今は治るそうだが、心のガンは治療が難しく、厄介である。

  また、意識と遺伝子は相互に影響を与え合う事が今は判ってきたが、ならば、死にたくない意識が遺伝子に影響を与えて、ガン細胞化を促進している事も考えられる。

  最近まで僕も不死意識は強かった。いつガンになってもおかしくなかったとも思うわけです。死を消去する事は良いことか。細胞レベルの問題も、個人とか、もっとマクロに社会の事にもつながっていると思われるから、我々の意識の鏡にも使えますね。

 死の自覚の原点

2021-07-18 10:59:17 | 日記
  僕の場合も、2011年3月11日の大震災である。関東信越から北の人たちはそのような例が多いのではないか。又、ロシアのサハリン州(樺太)や千島に住む人たちも。地震には国境はないわけだから。

  東京でも、震度5が5分間。こんなに長い地震は過去にはなかったわけで、家がそのまま壊れて、その下敷きになり、僕も死ぬかと思った。それで僕も死ぬ存在である事に初めて気が付いた。さらに記憶を掘り起こすと、僕の真の弱さもこれだと気が付いた。身体の障碍でもなく。ならば、全ての人間は死ぬ以上、個性の違いはあっても、同じ弱さを持つ事も初めて分かった。全ての人たちが死を自覚すれば、弱さの連帯が生まれ、全ての差別も消えて、真の福祉・共生社会が生まれる事も。本当に東北地方の避難所ではそのような光景も見られた。人為的に人と仲良くしたり、愛したり、神仏を求めてもムダである事も...。以上は凡夫・迷える子羊である僕なりの一種の悟りだったかもしれない。又は、精神世界の本で言う所のアセンションだったかも。でも、どういうわけか、半年くらいできれいに忘れた。その前同様、「身障者と健全者の違い」みたいな事も再び書くようになり、元の発想に戻った。

   それから9年経った去年はコロナで再び死を思うが、それは「自分がかかったら」という想像であり、理論の中でのものだから大したことはなく、コロナ・ウィルスの弱点も知ってからは死を想わなくなった。コロナが終わっても少子高齢化で日本の景気は良くならない事も判り、関心は少子高齢化に向けられた。それと、今年の65歳の年齢が重なり、10年前の想いが今復活している。

   例えば、仏教の中には高い崖から見下ろしたり、断食などを体験して死を自覚させる行がある。僕もテレビで見た。本当に修行者たちは死を自覚するようになるという。イスラムの断食や、キリスト教の聖餐式も目的は同じだろう。そして、無論、宗教とは関係ないのに、東日本大震災の我々の経験もそのようなものだったと。かなりの人たちも一旦は忘れたと思うが、心の奥底では覚え続け、僕がそうだったように、何かの拍子に出てくるのかもしれない。そして、意識が変わり、多くの人たちの意識が変われば、社会も変わり、共生・連帯・福祉社会になっていくと思われる。

  その犠牲者のためにも言うが、東日本大震災の我々の経験はムダではなかった。