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教派争いと現代心理学

2018-11-17 15:12:33 | 日記
  先日はパウロの仲間観を調べるため、新約聖書の諸々のパウロが書いた手紙の所を読んだら、改めて彼が当時のキリスト教の分派争いに非常に悩んでいた事を再確認させられた。「キリストにおいて一つ」と繰り返しても、その争いは止む気配もなかった...。歴史の通り、分派争いはひどくなり、それで戦争も起きるわけです。また、仏教やイスラムでも同じ経過をたどっています。今もそれぞれ深刻な問題になっています。「イエスも、シャカも、マホメッドも世界平和を望んだのに、何故、宗教戦争が起きるのか」と若い時の僕も牧師や神父、神学生などに多く質問しましたが、誰も答えに窮していました。


  例えば、マタイ・マルコ・ルカなどが書いたイエス像でも、実際は一つ一つ違うわけです。何もイエスでなくても、例えば、この僕の見方も本当に一人一人違う。小学時代あたりから僕も気が付いています。人間の視点は一人一人違う以上、そうなるのも当然です。更にもっと大事な事として、人間一人の人格は実に多様な面を持っている点です。一面的や二面的では語れません。誰でも「あいつは○○だ」と決めつける事はできないわけですね。そのような事は、世界の国際化が進んだ20世紀になって哲学や心理学で言われ始めてきた事です。

  ならば、イエスの人格も無限に多面だし、それを見る人たちの視点も一人一人違う。ならば、イエスへの見方も一人一人違ってくるわけです。そして、似た見方をする人たち同士がグループを作り、何とか派になっていった。当時は心理学は発達していなかったから、人格の多面性とか、それを見る人たちの視点も多様である事に誰も気が付かなかった。「キリストにおいて一つ」と言われると、自分や自分の派だけが正しいと思いこみ、他の見方をする人たちや派はインチキだみたいにも思い合い、ケンカになっていった。パウロも20世紀の心理学は知らなかったから、打つ手もなかった。パウロ自身も気が付かず、悩むだけだった事が推察されます。20世紀の心理学を知っていれば、「キリストにおいて一つ。されど、その人格や見方は多様なり、無限なり」と述べた所ですが。

   因みに、分派に打つ手がなかったから、パウロはダメだという見方の人の意見も僕は昔からよく聞きます。僕も若い時は一時そう思いました。でも、それは当時の心理学が未発達だったためであり、決して、パウロが無能だったわけでもないわけです。早い話、我々も2000年前に生まれ、キリスト教を信じたら、同じように見方の違う人たちを排斥しますよ。歴史的背景はどんな場合でも考慮しないといけません。

  イスラムや仏教内の争いにも言えますし、大きく言えば、異なる宗教の対立にも言えると思います。神とか、人を越える仏教の空の観念はそれ自体が無限に多様だし、それを見る人たちの視点も多様です。そのような心理学の発展が宗教対立・差別を将来は解決していくのかもしれないと期待もしていますが。とにかく、戦争と差別はいかなるものでも悪く、あってはならない事ですね。また、気持ちは広く持ちたいものです。
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