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「シマハタの光と陰」第6章の解説

2018-10-13 11:39:28 | 日記
   まず、三浦修という人は実在の人です。今は生死も掴めていませんが。本名で書かせていただきました。その父母の名前は僕は聞いていないから、小説名として付けました。


   1977年8月、三浦氏のお母様が少しの時間でしたが、僕の家に上がってもらって、修氏の話を色々としてくれました。それと、修氏の体の状態。その2つが第6章の話の材料です。


   修氏のお母様は繰り返し、「私は修を大変甘やかした。小さい時からご馳走を毎日食べさせた。おかげで、修は大きくなっても、甘えん坊のどうにもならない子にしか育たなかった。人との付き合い方も知らなくて。私はダメだ。後悔している」と泣きそうな声で語っていたのが印象的で、僕は心の中で反復し続け、はっきり記憶しているわけです。お母様の悲痛な叫びも僕は何とか活かしたいと思い続けてきました。やっとこのような形で世間に伝える事ができました。

  1955年前後の日本はまだ貧しかった。「ご馳走」と言っても何なのか、著述に迷いました。当時は日本には入らなかったマンゴーみたいなものを書くわけにもいかないし。当時、東京にもあり、日本一でもあった洋菓子店と和菓子店を書いてみたわけです。あと、夕食。当時は限られていましたからね。僕は1956年生まれですが、幼少期の我が家の食卓は魚が毎日でした。鶏肉はご馳走だった。牛肉は食べていなかった。そのような時期に、実際は書いたものよりも、ぜいたくな物ばかり食べていたわけです。

ところで、小さい子はグルメを求めるでしょうか。「うまい物を食べる事が幸せ」と思うでしょうか。違うはずです。何故なら、小さい子は何がおいしいか、知らないから。小さい子供をレストランに連れていき、何が食べたいかを聞くと、大体、ハンバーグかスパゲティと答えるそうです。それしか、食べ物を知らないから。ご馳走の観念もない。僕の子供の時を思い出しても、中学くらいになってもそうでした。「うまい物を食べて楽しく」は大人の観念ですね。ならば、そのお母様は甘やかしというよりも、「大人の観念」を押し付けていた。そして、修は早くから舌が肥え、野菜類が嫌いにもなり、シマハタに入園後、野菜類が多いシマハタの食事に出会い、物凄く苦労したわけです。

   食べ物のこと以外でも、修には悲しい面が。お読みになれば判る通り、大人に囲まれて、子供の友人ができなかった事です。おとぎ話に出てくる王子様みたいな育ち方をしたと。これでは社会性が付きません。因みに、僕の場合は学齢前は品川区に住み、近所の子供たちがよく家に遊びに来ました。ガキ大将みたいな子が僕を親切にしてくれました。引っ越して品川区の人たちとは縁が切れましたが、その代り、光明養護学校で友人がたくさんできました。自分と比べても、修氏の幼少時代は本当は非常に寂しいものだった事が判ります。何も身障児に限らず、子供たちにグルメ・ご馳走は要りません。

   それから、見た訳でもない修氏の介護の様子。僕も要介護者ですが、普通に座る事は出来ます。風呂の時でも、家庭用の小さい湯舟ならば、入れてさえもらえれば、一人で座ってもいられる。でも、「座れない」修氏はそういうわけにはいかない。「そのような体ならば、入浴の時はどうなるのか」と40年前からずっと考え続けているので、その考察の結果をそこに書いたわけです。介護者は本当に大変だし、それを一手にお母様は引き受けていた。風呂の介護だけでも体力がものすごく消耗します。修氏が入園したいきさつは、「お母様の体がもたなくて」と聞いています。実際にカゼをこじらせたかは判りませんが、判りやすい話だし、そのような事をきっかけに施設に入った身障児も昔はたくさんいたから、その事も念頭に置いて、あのようにしたわけです。

   お母様の無念が生かされれば、幸いに思います。
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