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全人類規模の仲間意識について、改めて考えてみる

2018-11-12 11:48:52 | 日記
  30年くらい前だろうか、当時の僕が関係していた某キリスト教派の若い駆け出しの一伝道師が手紙で、その教派が(在日系などの)マイノリティや東南アジア、中南米、アフリカの人達への差別意識が強い人ばかりや、第二次世界大戦の時に当時の日本政府の戦争政策に協力した歴史を嘆く内容の事を書いた後、「人間も皆神によって作られたわけだから、全人類規模の仲間意識を持たないといけない。神の下の仲間意識を。この教派の人達は、世間同様に「日本人としての仲間意識」しか持てないから、外国系の人たちをバカにするようになる。困ったものだ」と書かれてありました。その後、その教派から僕が離れた事もあり、その人とは縁が切れましたが、「全人類規模」の仲間意識とは何なのか、判らず、心に残ったわけです。一方では、多磨全生園で知り合った無教会派の別の伝道師は「仲間意識ほど、あてにならないものはない。個人と個人で付き合い、人は愛し合わないとダメだ」とも教えられていた。この2つは矛盾もしているようです。思い出し、特にキリスト教の基礎を築いたパウロが仲間意識について、どのように語っているのか、新約聖書のパウロ書全部と、マタイ、ルカ書を全部読み、イエスやパウロのその件について調べました。(「ルカ書」を選んだのは、ルカは医者で、最もイエスの言動を客観的に伝えていると聞いた事があるからです)。


   パウロ関係ですが、「仲間」という文字は2つしか出てきません。内、一つは(教会内の)仲間争いという言葉です。「兄弟」という言葉は無数に出てきますが、仲間意識や仲間関係という言葉は全く出てきません。文脈の流れから言っても、そのような言葉が入り込む余地はありません。イエスの場合も、仲間という言葉は便宜上出てきますが、敵対する派の事を指す言葉だったり。イエスの強調した言葉は有名な「隣人愛」です。それは敵も愛する強烈な愛。

   無教会の人達の中には、「パウロの兄弟愛尊重は内向きで、イエスの隣人愛から後退している。世俗的な仲間意識と変わりがない」と言って批判されている方もいるようです。僕が拝察した限りでも、内向きになっている面は否めませんが、「兄弟」も人間の上に明確に神を置いた関係・愛であり、仲間関係や意識とは大きく違っているわけです。そこから、仲間関係・意識は人間中心の観念である事に僕は気が付きました。やはり、浄土真宗の「御同胞」が阿弥陀仏を上に置いたものであり、仲間関係・意識とは根本的に違うように。例の若い伝道師の発想は聖書から逸脱したものだと言わざるを得ません。その発想も、その教派の明治以来伝えられた発想の上に成り立っていてる。明治の日本人は国際交流の経験がまだなく、聖書もかなり日本流に解釈されたわけです。「兄弟」や「隣人」と、日本語の仲間の区別も付かなかった事は容易に想像できます。又、愛と仲間意識の混同とか。そして、兄弟や隣人の意味も日本的な仲間の意味を当てはめ、更には、愛の意味には仲間意識を当てはめ、それがずっと続いている。インターネットによれば、僕が去った後、その教派にはレイプというとんでもない事をした牧師が二人出て、特に最初の場合はその地区の牧師会が事実を隠ぺいまでしたそうです。いくら仲間でも悪い事は悪いとしなければならないのに、仲間だからと思い、かばう感じでの隠ぺい。非常に悪いし、仲間関係・意識は愛とは本当に大違いである事も判ります。

   視点を変えて科学的に見てみると、原始時代は人間としての仲間意識もあったようです。でも、人間の居住範囲が広がり、それにつれて、言葉も地域によって違ってくると、仲間意識も言葉ごとに分かれていき、言葉の違うグループには持てなくなった。更に、各地域に文化や生活習慣ができると、さらに地域ごとに通じなくなった。「あのグループは魚ばかり食べて気持ちが悪い人たちだ」みたいな差別意識の原型みたいなものも生れていった。更には、グループの経済利害も複雑に絡み合い、戦争も生れていったらしいです。仲間意識の分裂は文化を作った人間としての宿命であり、同時にそれは元々希薄な気持にしか過ぎなかった事も判ります。「全人類規模の仲間意識」なるものを仮に作っても、何の役にも立たないと思います。

   その若い伝道師は某教派内の相次ぐ差別事件にいつも激怒していました。でも、仲間関係・意識の本質に気が付かず、自分も差別の種を撒いていたわけです。インターネットで検索したら、その人は2000年ごろ、何かの急病で天国に行きました。その教派はその後は更に衰退。仲間関係・意識中心の発想が強いとこうなるわけです。更には、それでは、個人と個人の関係ができないから、友情と恋愛はできないわけだし。それは僕が青春時代に多く目撃した首都圏の福祉会や身障会にも言えるわけです。特に、仲間関係と友情の混同が目立ち、個人の相互理解ができていないから、誤解からの大ゲンカが非常に目立ったわけです。僕の考え方としても、「仲間関係・意識は、差別と裏切りの始まり」だと思っています。そうではなく、愛が大切だと。
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