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「仲間意識」に因んで思う聴覚障碍者の問題

2018-11-14 11:43:50 | 日記
   前回の文に仲間意識の危うさを少し考察してみたが、以下は経験からの話です。


   70年代後半に僕も入っていた福祉会の一つも、仲間意識を尊重するものでした。でも、そこに一人、聴覚障碍を持つ男性が行ってきました。当然、話し言葉は通じないわけですから、手話が一番の意思疎通手段。僕は手が不自由な関係で手話はできないし、(それは実際にやってみないと覚えられないので)簡単な手話も覚えられなかったです。僕を別にしても、口に出して言わなくても、そのメンバーは彼を仲間と呼ぶ事に違和感を感じていました。「その事で、私も、他の人たちも悩んでいた」と手話のできるメンバーの一人から、後年お便りを頂いた事もあります。僕も彼を仲間だとは思えなかった。また、大事な事は、彼本人も会のメンバーを仲間とは思わなかった点です。会に来た目的は「聴障問題の悲惨さを伝えるため」。単に「聴障者対健聴者」の図式でしか、人を見ていないわけです。


  手話も一種の独立した言語。僕が外国人たちと付き合うはるか前から「言語が違うと、仲間関係は難しい」と思ったのも以上の経験によるものです。今の僕は以上の経験から聴覚障碍者問題にも目が向き、TVで放送されるその種の放送も興味深く見ていますが、今も彼ら同士の世界を作っている感じです。彼らと付き合うとしたら、隣人愛方式、つまり、そのひと個人に対して、自分を大切にするように相手も尊重して、個人と個人で付き合うしかないと。昔の僕も、その事に気が付かなかったから、以上の人と付き合えなかったわけです。また、大事な事として、聴覚障碍者も個性・考え方・好きな事などが一人一人違いますが、それも個人と個人で付き合わないと判らないと思います。

  更に言えば、聴覚障碍を持つ人たちも、それゆえに意思疎通の問題が目立つだけで、問題の本質は他の人たちと変わらないと思います。個性とか考え方みたいな事は、個人付き合いしないと見えてこないでしょうし。もう一つ言うと、手話で繋がれている聴障者間の仲間関係も何なのかと。そこにも危ういものが潜んでいるわけですが。

   その会は彼が入った事もあり、仲間関係の危うさが早くに露呈されました。彼が入って来て良かったと僕も思っています。また、言葉は通じても、健全者と身障者や知的障碍者などが仲間になれるのか。難しいし、身障者同士の危うさは80年代の首都圏で多くの身障団体が団体同士ケンカしたり、内紛で潰れていった事を見ても明らかです。更には、仲間関係を人は望んでいるのか。望んでいるものは愛。それしか、僕は信じません。だから、聖書も廃れないし、恋愛とか友情が常に文学のテーマになるわけですね。
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