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仲間意識の狭さと恐ろしさ

2018-11-05 14:08:32 | 日記
  僕は教育関係には詳しくないが、受験競争が日本で激しかった頃、仲間意識作りを学校教育の主要目的にして、受験問題を解決しようという声も一部にあったらしい。また、僕が若い時に所属した複数の会は、少なくとも、上べは仲間意識作りを求めた。それらの関係で、仲間意識について僕は色々と考えてきた。確かに、何でも話せて、一緒に酒も飲める関係の仲間関係は一見優しく見え、良いようにも見える。でも、多面的に見ると、問題があるわけである。それは、「では、仲間外の人達はどうなのか。自分たちだけに目を向けるだけで良いのか。仲間外の人達がどんなに困っていても、無関心で良いのか」という問題から始まるわけである。確かに、仲間内で非常に助け合ったとしても、それ以外の人達は世界にはいくらでもいるわけだから。更に、国・民族・宗教を単位で仲間関係を考えると、その問題点は誰でも判るだろう。考える必要すらもない。多くの歴史を見れば良い。どの時代でも。


  例えば、1940年前後。何があったのか。世界的に国や民族の仲間意識が高揚し、ヒットラーなどの権力者がその意識をあおり、戦争になっていったではないか。日本でも大和民族の民族意識が高揚され、その結果、中国人は豚扱い、アメリカ人やイギリス人は鬼扱いになった。ナチス・ドイツはゲルマン民族の仲間意識を高揚し、特にユダヤ人とロシア人への敵対心が煽られた。それ以前の日露、日清戦争でもそうだったし、太古では、大和民族とアイヌとの戦争も起きている。又は、西洋では十字軍戦争もあった。古代ユダヤ人と他の民族の戦争も。

  確かに、1940年ごろは日本で、中国人やアメリカ人に仲間意識を持つ人は、一部のクリスチャンくらいだった。

   そのような歴史を見ると、もし、冒頭に書いたような仲間意識教育が行われた場合、自然に日本の民族主義とも結び付き、「いつか来た道」を繰り返しかねないわけで、行なわれなくて良かったと思う。強いて言えば、「全人類が皆仲間」という考え方だが、理想論としてはあるものの、今は現実には難しいと。因みに、シャカも、イエスも「敵への愛・許し」を説き、人々を「仲間と非仲間」と分ける事を強く否定もしている。僕は無教会伝道師の人から「仲間意識ほど、当てにならないものはない。そうではなく、愛が大切。愛と仲間意識は全く違うものだ」と聞いた事があるが、まさにその事を踏まえたものであり、その通りだと思う。仲間内だけにこもるものは本当は冷たいし、愛でもないわけである。

   因みに、仲間意識を求め合った各会だが、それ故に発言も皆似たようなものになり、個性も感知できなくなり、僕は男性だが、まるでアリみたいに女性たちは同じ顔みたいにも見えた。これでは恋愛も不可能だったわけだ。若い時に仲間関係を求める会に入り込み、恋愛もできず、そのまま結婚できずに歳だけ重ねた人たちも旧友に多く(健全者ですが)、僕は問題に思っています。また、かなりの人が「身障者は一様に見えた」とも証言しています。個性が感知されなければ、こうなるわけです。差別よりも難しい問題です。仲間関係はマクロ的な付き合いだから、個性も感知されないわけですね。

  若い時を振り返ると、少なくとも、僕も仲間意識は本当は求めていなかったわけです。求めていたのは、まず男女愛であり、それから世界に広がるような人類愛、そして、学問などを真剣に求め合ってできる友情です。その3つです。同様だった旧友の人達も多いわけです。

  もう一つ。仲間意識を人為的に煽り、極めて内向きな仲間関係を麻原は作りましたね。許されるものではないですが、物事を考える材料にはなるでしょう。オウム意識を大和民族意識に置き換えれば、1940年前後の日本なども同じだったわけです。仲間・非仲間に関係なく、我々は多くの人たちと付き合っていきたいものです。オウム真理教は愛はなかったわけですね。
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