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人をつなぐもの考

2018-12-26 10:38:09 | 日記
  人をつなぐものは何かと、昔から僕も、色々な立場の友人たちも考えてきた。お金、社会活動、個人が持っている魅力、言葉、神仏、遊び、セックス、コンパ、...。中には「教育」だと考えた友もいた。でも、実際には根本問題ではなかった。「十字架」がつなぎ役になっているはずのキリスト教の信徒たちでさえ、以上の問題に悩んでいた。判らなかった。でも、ちゃんと答えはあったわけである。例の伊藤まつさんの他にも、小中高学時代の筋ジストロフィーという難病の人たちの生き方にも答えはあったし、内、気が合う一人と「死ねば、やりとりはできなくなる」と思い、彼が死ぬまで文通もしたわけである。その人は勉強と野球が好きで、学校時代は思い切り勉強し、卒業後はプロ野球に詳しく、僕にその解説の手紙も下さった。25歳くらいで、天国に行っている。夢に時々彼と、もう一人の同病だった人が現れるが。天国から遊びに来ているみたいで、面白い。


  神とか十字架の意味も、死を下敷きにしなければ判らないわけである。聖餐式も。だから、僕の出会った多くのクリスチャンたちは「聖餐式はコンパである」と言っている始末。牧師でさえ。「神」も、苦しくなった時に現れて、自分を救ってくれるウルトラマンみたいなものだと考えているクリスチャンが多く見られた。あくまでも、自分だけの神様。クリスチャン同士の共有が見られない。各人、「死」を自覚できていなければ、こうなるわけである。逆に見れば、死は全ての人たちに訪れる以上、死の事を述べ合えば、異教徒間の共有や和解も十分可能である。

   また、ボランティアなど、社会活動に打ち込んだ人たちが、同様に人とのつなぎが判らない事に悩んだ果て、「人や社会をつなぐものはない。社会活動してもムダだ。社会変革なんてできない」と言い出し、社会から背を向けた人たちも僕は見て来ている。そのような例も日本では多いそうだ。無論、本人たちは不本意だが、つなぐものが判らないと、止めざるを得なくなるのだろう。

  死は全ての人たちにとって、人生の一番大切な部分。死を自覚しなければ、自分の事もよく見えず、ましてや、他人の事も見えなくなるわけである。僕も長らくはそうであった。だから、伊藤まつさんの事も思い出せなかったわけである。でも、ある知人の死の事から、反射的に自分も死ぬ存在である事に気が付き、その結果の一つとして、伊藤まつさんの事も思い出せた。また、詳細は言えないが、ある友人が困った状態になったとメールで知らせてきた。僕は細かく接し、相手の心も細かく見ることができて、対応は成功した。少し前の僕にはできなかった事ができているわけである。少しずつ、付き合っている人たちの細かい心の様子も見え始めている。死の自覚で、自分の事が飛躍的によく見えるようになったから、他人の事も見えるようになったわけである。相手を細かく見て、その事を話せば、相手も自分にそうしてくれるし、次第に相手も死を自覚する。相手も相手自身の事がよく見えてくるはずだ。同性でも親友になれるし、異性間なら恋愛や結婚も可能である。今までの僕に御縁がなかったのも、そのような理由だったわけだ。

   1970年以前の日本の若者は活発に恋愛した。その様子は、グループサウンズなど、当時の歌謡曲も伝えている。でも、その「恋愛」は何だったのだろうか。例えば、その歌の一つに「好きさ、好きさ、お前が好きだ」と騒ぎ立ている歌がある。今もラジオで時々聞くからよく判るが、恋愛本来の細かい心のやり取りは見られない。ある人は「発情ソングだ」と皮肉を述べたが、僕には言葉の暴力にすら思える。言葉の性暴力と言おうか。ただ異性にそう言っても、心の細かい交流がないから、楽しくないし、続かないわけでもある。そのようなやり取りがその時代に多かったのならば、後で恋愛自体が廃れたのも判る気がする。恋愛は男女間の細かい心のやり取りが本質だが、それも互いに自分を知らなければ成立しないものである。自分の心も知らない人が、異性の人の心が見えるだろうか。自分が見えない者同士が付き合っても、まともな交際にはならず、愛も生れないわけである。果ては、御覧の通りの非婚社会になったのも当然である。セックスが人を結ぶわけもない。人は心を持つ存在だから。

  人をつなぐものは、そのまま自分を知る事でもあるわけだし。死を自覚しないと、自分の事も見えない訳である。
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