トシコロのありのままの暮らし


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今まで「共生」が実現しなかった理由

2020-08-19 10:47:07 | 日記
簡単である。一人一人の心の中心が「エゴ=自分さえ良ければ良い」という気持ちだったからである。説明も要らない。


  1960年代の全学連とは違う感じで、僕の世代も共生を模索した。学生や社会人ボランティア、身障者、聴覚障碍者、精神障碍を持つX君と。その為の見聞もあってか、ハンセン氏病の多摩全生園にも行ったものだ。友情とか、仲間意識、男女愛と、共生に至るものを一つ一つ考えた。無論、善意とか。また、教会関係では、信仰心とか。でも、全部中途半端に終わった。友情や仲間を言い合った者ほど、何故か、ケンカが多く、挫折が強い。詳しくは述べられないが、結婚して、離婚の例もかなり見てきた。他にも「脳性まひと脊損など、種類の違う身障者間はケンカする」という話をよく聞いたものだ。

僕はそれらからの連想から、羽仁進が言っていた「友情ほど、あてにならないものはない」という言葉も強く思ったものだ。

  ところで、「友情」は何だろう。今の日本では、単に仲良くなる事をさしているが、最近ある人に教えられた所によると「互いに利他=相手の事をひたすら想う気持ち」だと仏教では説かれているそうだ。又、新約聖書にも、イエスの言葉として「友のために命を捨てる愛ほど、大きな友情はない」とある。つまり、本来の友情は利他、又は、強い連帯意識が下敷きにあるものらしいし、仲間意識、恋愛、夫婦愛と同じである。

  ならば、僕なんかの見てきたものも友情や仲間意識でもなかったわけである。下敷きに「エゴ」があったから。その場合、いくら友情、仲間、恋愛、夫婦愛、親子愛を求めても、悪いものになる。当然だし、そのように小さい時からマスコミなどで洗脳され続けていたわけである。マスコミのなかった時も周囲の社会から。ならば、そのような者が権力を持てば、いくら純真な気持ちが最初はあっても、独裁者になるのも当然だろう。また、信仰も下敷きにエゴがあれば、自分本位の信仰になり、同じ宗教の信徒とさえ心通じないわけである。他の教派の人とはもっと合わない。僕が見た異なる教派のクリスチャンのケンカもこういうことだったようだ。


  更に言うと、1990年代からお世話になった例の中学教師の言っていた「働かざる者食うべからず」の社会構造の根も、一人一人のエゴになってくる。彼はその点もよく知っていたようだ。でも、「エゴを消す方法はない」みたいな事も言っていた。本当に消す策はないが、東日本大震災の時に気が付きかけた、強い連帯とか利他の気持ちを心の中心にすれば、共生も可能だと思う。それとエゴを一緒にさせれば、聖書にある「己の如く、隣人を愛する」になるわけである。まさに、共生。

  つまり、一人一人の心の中に、共生の心を持つ事から始めるのが解決策である。(かつては、その先生も、僕も気が付かなかったから、僕は学校を撤退したわけであったが)