トシコロのありのままの暮らし


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「神話が人を結ぶ」とよく聞くが

2017-09-15 12:56:43 | 日記
  近年は世界的に文化人類学や心理学、社会学などでその面の研究も急ピッチで進められているようである。何も今になって言われてきた事でもないらしい。40年くらい前も僕の一友人が「会作りにはフィクションが必要だ」と言っていた。当時の僕は意味が判らなかったが、そのフィクションとは「神話」の事だったようだ。そうすると意味も通るわけである。


  各国や各民族には大昔から神話があるし、現代でも同じらしい。我が日本も大昔から各地方に神話が自然発生して、地域の人々を結び付けてきた。日本は一くくりできないだけ、地方文化が豊かな国であった。それが明治維新以後、国民を結ぶため、国の役人たちが次第に「万世一系の天皇神話」に統一してしまい、大日本帝国憲法にも明記され、地方文化は駆逐された形になった。それは日本民族とは違うアイヌや琉球民族にも対して行なわれた。でも、役人が政治的に神話を人民に提供できるものだろうか。天皇は神話になり切れていなかったかもしれない。だから、昭和になり、天皇を軍国主義に利用する連中が現れたとも思える。口先では「天皇の為」と言いながら、実際は自分の意思を国政に反映させて、中国戦線を拡大させていったわけである。何も軍部に限らず、それは神話と呼べたのか、疑問である。

  時は経て、1970年代後半。僕は多くのボランティア活動をする若者たちと付き合った。彼ら自身もよく判らなかったが、必死で何かを求めていた。「皆と、多くの人たちと共有できるものが欲しい」とかなりの人が言っていた。何も一団体に限らず、複数の団体で似たような事を聞いた。今思うと、人民をつなぐ何か神話が欲しいという意味ではなかったか。一方、身障運動も成功した会は、例えば、「どんなに重度な身障者でも結婚できる社会作り」などの標語を構成員たちが念仏のように唱え続けていた所ばかりであった。詳しくは言えないが、僕も入っていた身障会もそのような標語かあったが、それを支えるボランティア同士のケンカがあり、それでまず身障者たちの心も乱れ、標語・神話も失い、非常に早い時期に崩れていった。一部の身障者は本当に「自分だけ」の自立運動を繰り広げた。その地区はボランティア同士、身障同士、ボランティアと身障者と、本当にバラバラになっていった。

  「近代ヨーロッパでは、キリスト教神話が後退したから、人々は個人主義的になり、その結果の一つとして資本主義が発達した」という説もあるくらいである。画家のゴッホが精神病院に入院した関係で、小学6年くらいから美術の先生に「近代ヨーロッパでは、アルコール中毒と精神病が増えた」という事を教えられ、ずっと覚え続けているわけである。

  ヨーロッパはともかく、今の日本は各地方の神話や民話を掘り起こす運動が行なわれている。明るい事だし、そこから人々の絆も復活するだけでなく、各神話の事を多くの人たちが知り、更には、各国の神話も知り、日本人だけでなく、全人類の結びができ、連帯できる事を願うわけである。