「黒田官兵衛孝高(如水)は、黒田庄町黒田で生まれ、姫路の小寺職隆の猶子となり、後に豊臣秀吉に仕え、天下統一に尽くした。」という講演が、12月3日の午後、黒田庄町黒田にある荘厳寺で行われました。荘厳寺は、もみじの紅葉がとても美しい時期です。
「黒田官兵衛研究懇話会」と銘打たれた講演会は、姫路を中心に活動されている「播磨学研究所」が中心となって開催されました。また、会場を提供していただいた堀井荘厳寺ご住職が、熱心に取り組んでいただいたお蔭で本堂一杯の参加者でした。
講演は、歴史研究家の鈴木幸治先生が、これまでの研究成果とホットニュースを交えて熱弁をふるってくださいました。
黒田官兵衛の先祖については、「通説」では、近江佐々木氏の京極家で、滋賀県長浜市木之本町黒田が根本地であるといわれてきました。しかし、鈴木先生は、荘厳寺が所蔵している播磨黒田氏の系図を詳細に研究されました。荘厳寺の黒田氏の系図は、黒田官兵衛の母方に当たる比延城の子孫である勝岡嘉作(かつおかのりよし)が文化6年(1809)に系図の完全版を作って荘厳寺に提出したものです。また、1カ月前に、鈴木先生は比延町の勝岡氏の系図を「発見」されました。その系図には、荘厳にある系図を作成した勝岡嘉作が実在の人物として登場しています。
黒田城跡地は、現在も黒田庄町黒田の稲荷神社にあります。黒田城は、足利尊氏を助けた赤松円心の弟である赤松円光の子孫が丹波地方の抑えとして建てました。黒田官兵衛の兄である黒田治隆が城主の時、石原掃部助と赤井五郎の連合軍に敗れ、落城します。黒田官兵衛は、これまでから姻戚関係であった姫路の小寺職隆の猶子となっていたため無事でした。
鈴木先生は、「黒田官兵衛の先祖、播磨黒田氏―荘厳寺本『黒田家略系図』をよむ」と題した論文を来年2月発行の「播磨学紀要」に発表するとの事でした。
堀井ご住職も、記念碑等の建立も含め、黒田官兵衛を地域の先人として認知していく活動を積極的に進めたいと話されました。
「黒田官兵衛研究懇話会」と銘打たれた講演会は、姫路を中心に活動されている「播磨学研究所」が中心となって開催されました。また、会場を提供していただいた堀井荘厳寺ご住職が、熱心に取り組んでいただいたお蔭で本堂一杯の参加者でした。
講演は、歴史研究家の鈴木幸治先生が、これまでの研究成果とホットニュースを交えて熱弁をふるってくださいました。
黒田官兵衛の先祖については、「通説」では、近江佐々木氏の京極家で、滋賀県長浜市木之本町黒田が根本地であるといわれてきました。しかし、鈴木先生は、荘厳寺が所蔵している播磨黒田氏の系図を詳細に研究されました。荘厳寺の黒田氏の系図は、黒田官兵衛の母方に当たる比延城の子孫である勝岡嘉作(かつおかのりよし)が文化6年(1809)に系図の完全版を作って荘厳寺に提出したものです。また、1カ月前に、鈴木先生は比延町の勝岡氏の系図を「発見」されました。その系図には、荘厳にある系図を作成した勝岡嘉作が実在の人物として登場しています。
黒田城跡地は、現在も黒田庄町黒田の稲荷神社にあります。黒田城は、足利尊氏を助けた赤松円心の弟である赤松円光の子孫が丹波地方の抑えとして建てました。黒田官兵衛の兄である黒田治隆が城主の時、石原掃部助と赤井五郎の連合軍に敗れ、落城します。黒田官兵衛は、これまでから姻戚関係であった姫路の小寺職隆の猶子となっていたため無事でした。
鈴木先生は、「黒田官兵衛の先祖、播磨黒田氏―荘厳寺本『黒田家略系図』をよむ」と題した論文を来年2月発行の「播磨学紀要」に発表するとの事でした。
堀井ご住職も、記念碑等の建立も含め、黒田官兵衛を地域の先人として認知していく活動を積極的に進めたいと話されました。
黒田庄町黒田が生誕地であることは、家系図で明らかです。
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