蕎麦の散歩道

美味しい蕎麦と、楽しい食の道を歩む。

まるやま 代田橋  屋号が大きく見え出すとき

2011-05-31 15:56:21 | 世田谷・杉並・練馬・北・荒川・豊島



この日は雨だったような。
代田橋の駅からほんの数分で「まるやま」があり、近づくと大きな看板には
「長寿庵」と書かれてある。店の前は「まるやま」とあり、知らない客はまごつくかもしれない。
今のご主人が機械打ちの蕎麦屋から手打ち蕎麦に転向したときに
屋号をまるやまと明記したのだという。

鶏と大根煮

屋号が二つあるような気がするが、こんな例は江戸の昔に良くあったとされる。
更科蕎麦の初代は「更科」は通称で「布屋」が屋号だ。「砂場」もこれは通称で
屋号は「大阪屋」である。
従って、現代的にいえば更科、砂場、長寿庵はグループ名といえる。

酒肴はふき味噌やいたわさ

ご亭主に雑談で聞いたのだが、今でも長寿庵はそのグループの結束が固くて
いまだに会合や連絡会があって色んな情報交換の場になっているという。
調べてみると、長寿庵のグループは全国で4つの会があって、350ほどの
店舗数があるという。日本の蕎麦の隆盛を支えてきた大変な勢力だ。

鰊煮

お昼の蕎麦屋酒をやるには十分な肴がある。
初回もそうだったが、関東風の甘辛い味付けだと思っていたが、全体的には
鰹の甘みをいかして薄味で仕上げてある。

ホタテのマリネ

鶏と大根を煮たいたものも柔らかな味わいで、ホタテのマリネも必要以上に酢を
強くしていない。結構昼にしては飲んだ。相手が強いからこちらもつられてしまったようだ。


         湯葉                     穴子の天ぷら

せいろを半盛りでもらう。これは福井の大野産と茨城筑西産の二種。
茨城常陸秋そばは香りがかなり強い、噛むとそばのいい感じのえぐみが舌の周りに
まといついて残った。
大野産は色が鮮やかで香りは品があり、この蕎麦独特の味の濃さの余韻がした。

         常陸秋そば・筑西産        福井大野産
    
     

〆は冷がけをもらう。スープの澄み具合がよくて、最初に丼からそれを飲む。
冷たい、きりりとしまった味わいがのどを通る。雑味のないすっきりしたスープで
蕎麦がしっかり腰を整えていた。

梅と茗荷のひやかけ


梅の酸味が溶け合うから、口中をさわやかにした。
スープの温度管理、蕎麦の水切れと、蕎麦を入れ込んだ時のスープの薄まりの計算。
どれもが良い具合になっていて、久々に出会う美味いひやかけだった。

〆が良いと後味が良い。帰り、亭主と女将が我々の姿が見えなくなるまで
玄関先で手をふっている。
「最後の客にはいつもああなの」と連れは言ったが、それだけ連れは最後の客に
なることが多いのかもしれない。振り返っても、振り返っても同じ調子で手を振るのが
見えて、なんだか心が温かくなっていた。
長寿庵より、まるやまの屋号が大きく、やさしく見えた。

杉並区和泉1-2-3  03-3321-1478 11:30~15:00 / 17:00~21:00   
定休日・木曜、水曜昼のみ 禁煙 前回の記事


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葉むら  葉山  天ぷらの満足感は1年もつかもしれない

2011-05-29 10:58:44 | 天ぷら



逗子駅から海岸通りを、蕎麦屋の「恵土」を越え、バスで30分のところ。
まだ、この海岸通りはサーファーくらいだから、渋滞がなかった。
もぐたんから誘われて、Mさんと3人でお昼に入った。
お昼にここで食事をして、鎌倉をぶらつく計画があったわけです。

天ぷらは六本木「みかわ」、京橋「深町」以来、相当ご無沙汰で、何回かもぐたんに
誘われて今回は飛びついた。
4月の勝浦の初鰹の誘いに乗らず、彼女のブログを見て、大後悔していたからだ。
席数は16席があるが、この日は全席予約でいっぱいだった。

才巻き海老が3本出て、すぐにこの店の天ぷらのレベルが僕のようなものでも
すぐに分かった。


才巻き海老が3本でる。才巻き海老は車海老の成長過程のもので、
職人が手で握って少し頭が出るくらいが最上とされるが、なんとも感覚的な表現


                        大葉のしんじょう巻きとキス


               海老すり身の椎茸と雲丹の磯部巻き
     
 
             左はたらの芽、右が珍しい釣鐘人参、上がこごみ

     

      
ジューシーでふっくら、大きな粒の蛤、これは感動的だった


                                      
やわらかな身のアワビと平ら貝


                   わらび         
こしあぶら

    

    
もしかしてもう遅いか?と言っていた銀宝が運良くあった。この銀宝
       
の上品な身と甘みは春の天ぷらでは最上かも。蕎麦屋では松翁や蕎楽亭
       
にあって、いつも楽しみにしている

     
山うど
            
   
  
がっさんだけ(月山筍)、天ぷらの王様といわれ、天然物で
    
 で出ることはめったに無いといわれる。食感を楽しむ


   身の厚いあおり烏賊       琵琶湖産
天然鮎の苦味がほろり

  

            
本日のハイライトのような穴子

    

       
実に立派なアスパラで、これだけでも納得できる

海老の3本を入れて、勘定をしてみたら食材で22品種あった。これだけの天ぷらの
品数をたべたのは初めてで、このあとに天丼が出てくるとはおもわなかった。
モグたんはいつもこのコースと聞いているから、女性ながらその鋼鉄のような
胃袋に敬服した。
             大星丼は茶漬けで半分食べる


貝柱の大きなものを大星というらしい。僕らがいつもお目にかかるのは青柳の小柱と
いうやつで、これは特大のもので大星、小柱は呼び名は小星というのだそうだ。
帰り、とりあえずは苦しい腹を癒すために浜を散歩し、鎌倉にたどり着いて、買い物がてら
歩いた。今年一年、天ぷらはもういい。これは、満足感が1年持つという意味です。

コースは8000円のもの
(他に4000円と6000円がある)

神奈川県横須賀市秋谷4293 046-855-5222
12:00~14:00  18:00~20:00 定休・月曜 (なるべく予約がいいかも)
  


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竹やぶ  六本木  窮屈な箱庭からサヨナラするんだ

2011-05-26 18:13:15 | 麻布・六本木・赤坂・白金周辺・千代田区




その方が「竹やぶ」を指定してきた。
人数は5人、店がもう少しで閉めるとはご存じなかったようだ。
青山に名のある割烹懐石の店を経営してきて、焼肉料理や和食店も経営した人が
蕎麦を入れた店をやりたいという。



12、3年前、その高級懐石コースに手打ち蕎麦を取り入れたのを、
僕は思い出しました。当時1人、3万ほどの高級店で、二度行って、十割蕎麦が
コースの終わりに出てきて驚いたものだ。
聞くと、そのときに、柏「竹やぶ」に職人を研修に出して
手打ちをマスターさせたのだそうです。

             

「蕎麦があまり好きじゃない」そういいながら、蕎麦を取り入れ、またそうしたいという。
「蕎麦が好きで、好きでしょうがないという人でないと」
僕は自分の持論を言う。子供じみているかもしれないが、手打ち蕎麦は蕎麦を
愛していないと、客にそれがわかってしまうし、継続のエネルギーがもてなくなる。



店に入ると、7月末で閉店との張り紙があった。
4年前六本木のオフィスにいた頃、ランチによく来ていたし、会食にも使わせてもらった。
ヒルズから「竹やぶ」の名が消えるのは何となく寂しい。
その理由は聞こえてこないし、部外者だから聞いても仕方がない。

前菜は蕎麦寿司、
4種、鰊、鰊と煮込んだ昆布と煮こごり
    
               
天ぷら

僕の竹やぶ観はその原点は「柏」で、その延長線上に「箱根」がある。
ヒルズの箱のような舞台には「竹やぶ」は窮屈で似合わないといつも思っていた。
確かに都心にあって便利だが、その便利さは竹やぶ的ではないかもしれない。
何人かの蕎麦屋への決心が柏であったように、僕もやはりそうだった。
箱根であれ、どこであれ、マインドはいつか柏に還る。

珈琲ミルで
挽いた蕎麦粉をふわふわにまとめる
出汁巻き

初めての方が3人いてやはり蕎麦がきには感動した。
粗挽きで粉を挽き、珈琲ミルで砕いた粒を上乗せした蕎麦掻は独特の
食感と香りが立つ。粉を傷めないことが最上とする、阿部イズムの究極の
形で、蕎麦をふわふわと吹き寄せる。




「この蕎麦は美味いな、つゆが要らない」
蕎麦があまり好きじゃないという人なのだが、本当にそうなのだろうか、と今思う。
あの時代に割烹に竹やぶに行かせてまで蕎麦を出したのだから。
「早すぎたのかもしれないね」と僕。
「だったかもしれないね」と彼。
当時はそうかもしれない。モノやコトは早すぎても時代に合わないことを
僕は何度も見てきました。



だが、今は遅すぎるかもしれない。そのことが頭を掠めた。
そのことは次の機会に言ってあげなくてはいけない。
そんなことを言って僕はまたビジネスチャンスを逃すでしょう。
それは致し方ない。手打ち蕎麦はそれだけ価値のあるものだと思っている。
今年こそは新蕎麦の時期は柏に行こう。そう思った。

コースにはせいろ二枚か
せいろとかけ、それが選べる(昼のコース)

竹やぶ 港区六本木6-12-2 六本木ヒルズレジデンスB 3F
03-5786-7500
前回の記事 六本木のお店は7月末で閉店です


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庵浮雨(あんぷーう)  浦和  フレンチと蕎麦の出会いを堪能する

2011-05-23 10:31:37 | 近郊・神奈川・千葉・埼玉・茨城・長野他

この日、料理が出始めて改めて亭主の経歴を聞いた。
前に多分聞いた気がしたが、忘れているのかもしれない。
それほど、この日の料理はフレンチの多彩な技が器の上に展開された。

トマトのサフラン風味冷製スープ
      蛸のマリネ
        鶏皮と茸のサラダ
                鮪のタルタルソース

「どのくらいフレンチの店に入っていたのですか?」
「13年です」
「その後、神田の眠庵にいたんだね」
その頃は、ぼくらは、はるチャン、はるチャンといって、オーダーをしていたが
彼はそれを軽々とこなしていたものだった。
「4年くらいいました」

ホウレンソウの胡麻クリーム和えと牛蒡の味噌マヨソース

「どうして、蕎麦屋に入ろうとしたの?」
「親が蕎麦屋で、なんとなくやっぱり血が騒いだのかな」
彼が蕎麦屋の二代目だとは知っていたが、親はいわゆる町蕎麦を経営されているようで
その彼がなぜ長い間、フレンチ修業をしていて、そちらの道に進まなかったのか。
13年前はまだ第二期蕎麦屋隆盛のころではなく、三合庵や蕎楽亭もまだ
開店前の頃だ。
眠庵で開店7年目、彼がフレンチの仕事が面白くなってきた頃が、蕎麦屋全盛を
迎えた頃だ。
               借金なし大豆でつくる豆腐とおから


最初に出てきた手作り豆腐は甘い。塩が要らない。どうしてこんなに甘いのか、大豆のよさも
あるのだろうが、作り置き時間や冷やした温度も関係するのかもしれない。

ささみと春菊のサラダ
ホタテのムニエル、これは白ワインがほしかった

今回で4回目だが、かなり圧倒された。
砂肝のコンフィとレンズ豆のサラダ、蛸のマリネ、鮪のタルタルソース、ホタテのムニエル・・、
などなど、かなりの点数が少盛りででるから楽しい。

砂肝のコンフィと
レンズ豆、これは日本酒とよくあう。レンズ豆は小さいがしっかりと甘い大豆の味が
つゆ出汁でつくる
オムレツ、これはなかなか意外な組み合わせだが、定番になりそう


燻製は予約の時に予め蛍烏賊をオーダーしておいた。
富山生まれとしてはこの燻製がどんな具合に出来上がるのか、これも楽しみで。
この燻製は高遠さんやyukaさんのブログでチェックを済みだった。

燻製が数種
左はかつお、右は鴨、小皿にはこの日の目当ての蛍烏賊
鴨の背にトマト煮のおから
蛍烏賊の燻製なんて
これは感動的なほど旨みがぎゅっと詰まっていた


蛍烏賊は僕の故郷の人間に教えたいと思った。蛍烏賊の腸が燻製になると
やや苦味は持つが甘みというか旨みがぎゅっと濃縮されるようだ。
鰹も逸品で、この燻製シリーズは定番になったようだ。


サフランクリームの漬け汁蕎麦

〆は僕はサフラン、連れは肝クリームを選択。
蕎麦は埼玉産、これを何も漬けずに、香りと食感だけを楽しむ。一口、二口。
次に辛つゆで二口ほど。これでズット頂きたいくらいだが、
サフランクリームに漬して、たっぷりと口に放り込む。口中に幸せが膨らむようだ。


これは肝クリーム

「また新作を考えてますから、次のときに」
とても楽しみなことを言ってくれる。次の訪問が待ち遠しくなる。
フレンチの修業時代に神田の蕎麦屋に出会ったことが、彼の感性を開かせた
のだろうか。それは我々客の幸運でもあるようだ。
まだまだ彼のフレンチの懐は深い。


アン プー ウ(庵浮雨)
浦和区高砂2-8-11ナカギンザ内 048-825-0468
定休・月曜 11:30~14:00  17:30~21:00 前回の記事




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旭庵  新小岩  つゆに入った蕎麦が色鮮やかになる

2011-05-19 09:39:13 | 江戸川・江東・葛飾・新宿・大田区・足立区

せいろ

新小岩北口で駅から歩いて3分だから、思いついたら行ける。
最近では珍しい通し営業だから有り難い。
丁寧な蕎麦打ちで、切りが綺麗に揃っていて気持ちがいい。住まい近くの
蕎麦屋でせいろを食べたくなったらここに来る。



もう通って8年だが初めて蕎麦の産地を聞いた。
北海道のものと聞いたが、この何年かで一番出来がよいせいろだった。

鴨なんそば

                

追加で鴨なん蕎麦をもらった。
蕎麦がへたらず、これは二八の良いところかもしれません。
つゆに入った蕎麦は緑の色が鮮やかになっていた。

旭庵 葛飾区西新小岩4丁目42-14 電話03-3692-0123  前回の記事
11:00~20:30 定休・火曜 


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布屋 太兵衛・外伝-21  福島会津が疲弊から抜け出す

2011-05-17 16:27:55 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

一橋での密談の帰りは二つの大名籠が加賀藩に向かっていた。
一橋別邸は江戸場内にあり、会津藩は和田倉門内、加賀藩は江戸城からは離れて本郷にあった。
現在の東京大学あたりで、敷地は10万余坪に及び、巨大すぎてどこが正門なのか、
訪ねる者は迷ったという。
今も残る赤門は
文政10年(1827年)加賀藩主前田斉泰に輿入れした
11代将軍
徳川家斉の
21番目の息女の溶姫のために建てられたものである。

加賀百万石の文化絢爛の礎は会津藩初代正之から庇護を受けた綱紀が築いた。
新田開発事業で
農業を振興し、正之が実施した年金制度(高齢者に扶持米を支給)を模して、
長寿者には扶持米を褒美に与え、手厚い保護政策をとった。

特に文化、文芸を振興するための多くの人材を金沢に招いた。
江戸の著名な学者を数人招き、百科事典を編纂し、藩の学問を大いに奨励した。

元禄2年(1689年)には綱吉から御三家に次ぐ待遇を認可された。
その時にあの萩生徂徠が加賀侯非人小屋(御小屋)を設けしを以て、
加賀に
乞食なし。真に仁政と云ふべし」と述べている
前田治脩もその伝承から今の加賀は会津の恩ありきと受け継いでいた。

加賀百万石、実質の内高は130万石を優に越えた。その象徴が江戸加賀上屋敷別邸であった。

この日は少数の供を連れて、大名籠が並んで、ゆっくりと進む。
藩邸には加賀料理と合わせるために、太兵を先乗りさせ、蕎麦打ちの披露を手配してあった。
籠の簾を開けて前田治脩が声を掛ける。

「少しは先祖の借りを返せましたかな」
「いや、十分でござりました」容頌が同じく簾をあげ、上気した声で返す。
「だが、あの御仁を騙すのも多少気がひけるが、あれでよかったのかな」宰相らしい人の良いところが出る。
「一橋様にはこれから働いてもらわねば」容頌は家基暗殺に一橋家が絡んでいたことは、前田治脩には話してはいなかった。
謀議を計るのは我ら会津だけだと覚悟していた。

「出来たら、もう少し借りを返したいと思うております」
「なんでござろうか」と怪訝な顔。
「加賀は今年、奥州東北と違って米が大豊作でござってな。
これから肥後殿には我が蔵屋敷の廻米を
見ていただき、それを半分ほど買っていただきたい。
もちろん、廻米であればどなたに譲ろうが
こちらの勝手でござれば」
そんなことさらりと言い放つ。

この天明の飢饉は押し並べて全国の大名が
苦しんでいた。余裕があるのは加賀藩と紀州藩くらいだと噂に上っていた。
「加賀殿・・」容頌には予想だにしなかったことだった。
廻米とは大名が市場に放出して利幅を取る米のことである。
加賀藩の廻米は仙台藩と並び、江戸でも人気があり、いまそれを譲ってもらえれば、
現在の会津の飢饉の半分は解消するはずだった。

「有り難いお言葉ながら・・」と声が詰まった。すでに会津藩の金蔵は借り証文のほうが多かった。
「肥後殿、これは拙の一存でござれば、証文なしのある時払いでござる」
「加賀殿、この恩は生涯・・」容頌の声が消えそうだ。
先日も国許の城代家老から催促が来ていた。
農民たちが干上がりそうだ。下級武士たちの扶持米が不足している・・・。

「正之様から受けた先祖のご恩に比べれば、これは塵のようなものでござる」
前田治脩は
容頌に負担をかけまいとしていた。

二人とも簾を下ろし、籠の揺れに身を任せて、江戸の町の夜陰を楽しんだ。
籠を降りたら、煌びやかな古九谷焼きの器が並ぶ膳と、太兵の蕎麦が待っているはずだった。

古九谷は前田藩の支藩がこれより130年程前に有田焼を学習して窯を開いた。
その技法が完成に近づく頃、支藩の財政が悪化し、加賀藩も援助を打ち切って閉窯してしまった。

九谷窯の閉窯に関しては加賀藩も口を閉ざしたままだ。
九谷に豊富な金鉱脈があったとされ、加賀藩が禁制された貨幣鋳造に関わっていて、
幕府の漏洩を恐れたのではとの伝聞が根強くあった。

古九谷の器は60年程度しか開窯していなかったから、製作数も限られていて貴重なものだった。本格的な復活は文化4年(1807年)からになる。
青が基調の磁気皿に太兵の打った白い肌の蕎麦を盛れば、美しさが映える。
それを太兵も楽しみにしていた。

福島会津は加賀廻米を手にして、天明の大飢饉から抜け出そうとしていた。




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野中  練馬  亭主の答えと客の答えが同じなら

2011-05-16 16:21:49 | 世田谷・杉並・練馬・北・荒川・豊島



西武池袋戦の中村橋から歩いて15分程度、住宅地の中にあった。
複雑な道筋ではないので、僕としては珍しく迷わないで店にたどり着いた。
夕方は5時からの営業で、丁度5時半前に席に座る。
この時間はさすがに先客は一組、だが、蕎麦前の肴が二品並んでいて、
そこに出し巻きがきた。

出汁がたっぷりの玉子焼き
オーダーで作る豆腐
               

人の肴に左右されるタイプだが、ことに出し巻きを見せられると完全につられる。
ネットなどで評判がいいので自家製の注文受け豆腐もオーダーした。
豆腐は思った以上に豆乳の生臭い味がなく、少し苦味があるが、その苦味が
豆腐の甘みを引き立てるようだ。固さもほどがよく、これはなかなかの逸品です。

淡いみどりの蕎麦
       

蕎麦は淡い緑の蕎麦と蟻巣の田舎蕎麦が1日交代であるようで、この日は淡い
緑の蕎麦の日だった。
淡い緑の蕎麦は色彩選別機で茶系や黒の玄をはねるものです。
説明には丸抜きの中に混入した苦味のある赤茶色の丸抜きや玄蕎麦を取り除き綺麗な
丸抜きだけを採取して、石臼で「ざっくり」と挽いた十割の蕎麦と書いてあります。

       

色彩選別機は茨城の「月待ちの滝」の亭主大関さんが開発し、石臼メーカーのミツカと
共同開発して製品化したものだ。それまでは丸抜き作業がおわっても、黒の玄が
残り、それをピンで取っていたのですから、これはもっぱら職人さんなどの仕事
でしたから、大いに労働の効率に貢献したといえる。
大関さんのものは8段階くらいの色を選別します。極みどりなどみどりだけで4段階、
黒、赤、茶なども綺麗にはじいてしまうから、かなり手が込んでいる。



だが、亭主によっては丸抜きの中に混ざる剥ききれない黒玄も、同じ蕎麦だと気にしない
で多少色が犠牲になっても粉にしてしまう。
それもその蕎麦全体が持つ性格で、それも蕎麦の答え。そんな考え方だ。
どちらが良いのか、それは亭主と客とが答えが一緒になればそれでよいし、
違っていればそれも仕方が無い。


外一のせいろ
          

蕎麦はもう一枚、外一のせいろを注文した。
食感はもちりとして、クキッとした腰がとてもいい感じです。香りも思いのほか
立って来て、このせいろが多分亭主と同じ答えになったようです。
この答えがあれば、帰りの駅までの15分、電車の1時間半の帰路は嬉しいものに
なる。

玄蕎麦 野中
練馬区中村2-5-11 03-3577-6767 11:00~14:00 17:00~20:00
定休・月曜、第三火曜


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布屋 太兵衛・外伝-20  田沼意次の支えを一本はずす

2011-05-15 09:58:37 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

御三卿の筆頭一橋、譜代の代表格会津、外様の雄加賀、この3藩が非公式に集まる
ことは無かったし、これからも無いだろう。
今、大国の加賀宰相が高僧の説教がごとく一橋を見据えていた。

「憚りながら、御三卿筆頭様に申し上げあげます。上様はご高齢で先日も少しばかり
御伏せに
なったよし、次期将軍の家斉様今だ幼少なれば、ここは御三卿が揃って
来たるべく治世をお守りするが必定だと考えまする」
前田治脩は暗に御三卿の田安家生まれの定信とも手を組むべきだと匂わせる。

溜間詰めに定信殿を一橋家が要請されたら、天下公認となり、
皆が望めば老中に配することも
容易になろうかと。
いまやそれが民の声と、この加賀には聞こえてきますが」

朗々と前田治脩に明るい声で述べられると、これが天下の正論だと思えてしまう。

「これは加賀宰相、流石でござる。田沼のこのところのなし様は目に余ると、
上様も、いや、これは
聞かなかったことにしてくれ」
治済が茶をすすり、暫く座に沈黙があった。

治済
としてはまたとない話であった。一橋家が溜間に定信を出入りさせることを後押しすれば、
定信に大きな貸しを作れ、養子に出した家斉が将軍に就いたときに、
田沼から御三卿出身の定信に
老中をすげ替えれば、それだけで自分の権勢が大きく
なるはずと算段した。

腐れ縁の田沼と手を切れるのも一橋家にとっては千載一遇の機会だった。
それを、譜代の代表格の会津と外様の大大名の加賀藩がわざわざ申し出てきてくれたのだ。断る手はなかった。
「だが、余りにも贔屓がすぎると、このわしは言われまいか」
治済
がか細い声でいう。

自分が追い出した定信と手を組むことも多少は後ろめたい。
御三卿派閥で幕政を固める批判があるかもしれない。
だが、家斉のことを考えると是が非でも彼らと組み、定信を復帰させるのが一番だとも考えた。

「口火は拙がきりましょう」静かに聞いていた
容頌が膝を進めた。

「疲弊しきった東北奥州にあって、このところ白河藩の財政建て直しは天下の衆目を集めており、
同じ奥州のわが会津藩も見習いたきものがあり、この知恵を溜間に生かすことが肝要かと。
また、この会津も溜間詰めにいる身ながら、なかなか上様のお役に立てないことが
口惜しいのでござる。このところ米問屋の打ちこわしが聞こえて参っております。
ここは定信様を迎えるになんの妨げが
あろうかと思うておりまする」
確かに、今の白河藩の財政建て直しは他藩の衆目を集めていた。
田沼に厭いた時代の空気に定信の堅実さが求められているかもしれない。
「なるほど、それが天の声か」すぐに感動しやすい人物ではあった。

「そちらがその旨を主だつ大名たちに諮ってくれ、あとの御三卿をわしが説いて見せよう。
あとは御三家だが、あれらは互いに意地があって、意見が一緒になろうかのう。そちらが難問じゃ」
「では、尾張様、水戸様、紀州様の御三家には拙と宰相殿が御諮りいたしましょう。
水戸様などはなんの異存もなかろうと思われますぞ」
すでに水戸と尾張には二人が手分けして賛意を得ていた。

「うーん・・」と治済が声にならない声を漏らし、目には涙を浮かべていた。
容頌より7歳上にしか
過ぎないが、もう老人のような風貌をしていた。
「だが、のう・・」
「まだ、ご心配事がおありか」容頌が諭すように言う。
「あの田沼がおらんようになっても、意知がいる。若年寄、大目付、勘定奉行があやつらの一派じゃ」
意次はこの
20年ほどで子供や孫を戦国時代のように戦術的に使い、譜代大名と有力旗本との間で多くの姻戚関係を持った。

老中は本人を含めて5人いたが、古参の松平康福の娘は意次の嫁、
新入閣の久世弘明の孫と意次の孫が
婚姻している。同じく水野忠友は意次の子を
養子にし、今年天明4年に老中になった牧野貞長の息子と
意次の娘が婚姻。
すべてが姻戚だった。若年寄にも二名、将軍の御用取次は腹心の稲葉正明だった。

このことを一橋が心配をしているのだ。

「家斉様が将軍になられたなら、一橋様は大御所のようなものでござろう」
容頌が静かに言う。

「大御所?」思いもかけない言葉が居間を支配した。
それは治済の頭の中に駆け巡った。
神君家康、二代将軍秀忠公以来、他には大御所の称号を受けた者などいない。
“われが大御所”とな・・。

この“大御所”の尊号が後に松平定信との間で確執を生むことになる。
それは後々のことで。

「田沼一派など、一橋様の一声でなんとでもなりましょう」容頌がとどめを刺した。
「そこまで、言うてくれるか」一橋治済は感動で打ち震えた。
“これでなった”と容頌は思った。あとは田沼一族のほころびだった。
後は太兵と軍太郎がうまくやってくれさえすれば・・・。

(これは史実にヒントを得たフィクションです)



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美良  新橋  目黒の秋刀魚か 新橋の山菜か

2011-05-12 22:48:52 | 銀座・新橋・芝・築地・港区・中央区・墨田

多少遅めに店をはいった。
女将が、蕎麦がもうない、と言ったが、せっかくだからと席に座る。
特製のつけ麺ラーメンがあるそうだから、それまで山菜で山形の冷酒をやればいいと思った。



山菜は時期的なものだから、今の時期しか獲れないものにめぐり合える。
こしあぶらをさっと湯にくぐらせてサラダにように食べる。初めてのこしあぶらの食べ方だ。
あいこは茎の部分を軽く油で炒めて食べる。しどけは山菜の女王といわれるそうだ。
ほとんど苦味もなく野菜のような味わいがした。

こしあぶら
              しどけ
                    あいこ 
    
この日はめったにない蕎麦屋のハシゴで、前の店がおもったより早く仕上がって
多少物足りないものが残った。
ほんとうならビールか、バーあたりだったが思いついて「美良」になった。
前はよく蕎麦屋のハシゴをしたのだが、それはかなり意図的で、その頃は
お腹の許容量が今の2倍はあったような気がする。

うるい
あまどころ

山菜をもうふたつあたり注文したが、お腹にどんどん入る。
ラーメンまでは行き着かないと思ったがこれも普通盛りで完食した。
夫婦は山形の人で10数年前に飲食店を始めるために上京した。
山形蕎麦で蒲田で人気を集めて新橋にきた。それが8年前だろうか。
山形蕎麦と名はついているが、僕らには山形の山菜の宝庫のような店だ。
メニューをみても年を通じて15種類の山菜が食べられる。
目黒の秋刀魚か、新橋の山菜か、といったところか。

特製つけラーメン

当然親類縁者に被災された人がいたかもしれない。
だが、僕はこの日はそのことに触れなかったし、夫婦も話題にしなかった。
もう普通にしていよう、と客も店もそうなのだとおもっている。

つけ麺のラーメンは美味かった。小麦の良い味がする。
僕が現役時代は蕎麦打ちの余技の隠れメニューでした。
ふあふあとする小麦の香りがして、これは十分に蕎麦と肩をならべるものになっていた。


山形蕎麦 美良(みよし)前回の記事 
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布屋 太兵衛・外伝-19  奥州の狼と北陸の虎がきた

2011-05-11 18:52:00 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

「これは、これは、肥後守ばかりでなく、加賀宰相までお揃いで、御用向きはなんでござろうか」
この日、会津藩主、松平容頌(かたのぶ)は加賀藩、前田治脩(はるなが)と同道して、
一橋治済
の江戸別邸を訪問していた。

表向きには一橋家の茶会催事だが、急遽、容頌から申し入れたものだった。
加賀藩は内高134万石で、御三家の尾張藩と紀州藩の二国以上の石高を優に越し、幕府に次ぐ大国である。
会津藩は内実50万石はあると言われたから、この二人が打ち揃ってくるのは一橋家でも脅威であったし、一橋の歴史の中でも初めての出来事だった。

外様の雄と譜代の雄がまさか手を携えて来訪するとは想像もつかなかった。
いきなり奥州の狼と方陸の虎が乗り込んできたのだ。

「一橋様には、お人払いまでしていただき、まずは御礼を」容頌が口上を述べる。
この日は、上座、下座の形を取らず、床の間を横にして敷布に
3人が座った。異例の対応である。
吉宗直系の系譜の御三卿だが、領地を持っているわけではなく、幕府の天領からの
あてがい扶持である。地位は高いが実質権力はないから、どう二人をもてなすか
分からずにいた。

「堅苦しい挨拶はよしになされてくだされ。何か要件がござったかのう」
にこやかに、同格さながらの言葉使いになった。
治済には何の目的があってか思い当たらない。


「松平定信殿のことでござれば」と
容頌が明朗な声を上げる。

治済は突然、その名を聞いて一瞬肩が震えた。定信を白河藩に追い出し、
冷や飯を食わせた張本人だから、その名を聞くのはいい気分ではなかった。

「定信殿をお助けになったら、いかがでしょうか」意外なことを、前田治脩が柔らかな声で訴える。
治脩は加賀藩主の10男として生まれ、幼い頃に越中に出家して僧になった。
だが、兄たちが次々と急死し、突然藩主を継ぐことになった。高僧となれる素養あり
と期待されたくらいだから、教養も人徳も優れていて、他藩の大名からも慕われていた。
容頌とひとつ違いで、口を開くとあたかも高僧が説教するかごとくの落ち着きがあった。

「助けてやれとは、どんなことでござろうか」治済教えを乞うようにへりくだる。
「定信殿がこの2年ほど上奏されておられることがありまする」
先日軍太郎が平賀源内から聞いた情報を容頌が分析し、かねてから親交のあった前田治脩に打ち明けたのである。

それを前田治脩が
容頌と示し合わせて一橋に説明しだした。

江戸城には大名や旗本が待機する広間があった。その広間に入るにはそれぞれ大名の地位と石高によって別れていた。
大名が詰める席には大廊下、大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広間の七つがあり
中でも徳川御三家など親族が詰める大広間、将軍に拝謁でき、老中にも意見を
上程できる溜間詰めが重要な間となっていた。

「定信殿は溜間詰めに入りたいと嘆願されております」
前田治脩はその溜間に定信の出入りを許したらどうか、と内々に治済の判断を仰ぎにきたのだと告げたのである。
源内の話ではこれは田沼意次が握り潰してきたことだから、表向きにはなっていなかった。

「ほほう・・」と一橋治済はそ知らぬふりをした。多少の風聞があったことは知っていたが、いつの間にか失念していた。
このところ定信は幕政に関与したいとあちらこちらから聞こえてきて、一橋家も気にはしていた。
あの定信が田沼に賄賂を贈り、若年寄の足掛かりを掴もうとしたことも聞いていた。
そんな定信の直情的で、我が一番という尊大な性格を、ある意味治済は嫌っていた。
だが、御三卿の血筋では出色な才覚を持っていることも認めていた。
自分の子の家斉を将軍候補にしたくて、定信の田沼批判を大袈裟に騒ぎたて、
田沼と結託して将軍候補から引き落としたくらいだから。

「そりゃ初耳だのう。そのようなことよくお調べになられたものじゃ。
それに宰相と肥後殿が
こんなにも近しいと思わなかった。いや、正之様の代ならそうであったろうが」
多少皮肉めいて治済は言ったが、外様と譜代の距離の置き方は江戸が後半に入っても変わらなかった。江戸初期の頃はそんなことが聞こえたら、謀反の疑いをかけられたものだった。

が、この藩同士は特別な関係が
築かれていた。そのことを一橋が、昔ならと断ったのだ。
江戸初期から加賀藩ほど危急存亡と石高減らしの危機に何度もさらされた藩はなかった。
最大の危機は利家の側室の子で二代目藩主利常の代であった。
秀忠が病気になったときに、謀反の嫌疑をかけられた。そのときは本人利常と跡継ぎの光高と二人で上京し、殺傷される覚悟で弁明し、藩取り潰しを免れた。

家光の代には利常引退後に、その後を譲った光高が急死、利常は急遽、孫の綱紀を藩主に押し立てた。
この時、綱紀3歳、自分の高齢を推し量り、藩の存亡を思い悩んだ。幕府とすれば
百万石を越える外様の必要性は無く、領地半減の絶好の機会だった。

これを救ったのは当時副将軍で家綱を補佐していた会津藩主、正之であった。
正之は自分の庶子だった悲哀を苦労人で実直な利常に重ねて見たのであろう。
利常が成人するまでは痴呆を装って、幕府に軽んじられるような芝居まで打ち、
誠心誠意徳川に私心なきよう努めてきたのを知っていた。

正之は御三家を説得して加賀藩の忠誠を論じ、自分の娘を綱紀に娶わせてまで加賀藩を擁護した。
利常が亡き後も、岳父として綱紀の藩政を様々な形で援助した。これは加賀藩の代々の口承伝記となっている。
その縁がこの時代になって静かに復活していた。

「だがのう、定信殿の白河藩は石高も小さく、いかに元御三卿の身分ではあるが、そんなことがなるかのう」
何かいい知恵はないのかと、治済そんな様で二人を眺める。
さて、どうするか、思案が3人のいる居間に渦巻いていた。


(これは史実にヒントを得たフィクションです)


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友庵(ゆうあん)  西新橋  蕎麦屋は人生観で計られてしまう

2011-05-09 10:08:49 | 麻布・六本木・赤坂・白金周辺・千代田区



「利庵」で13年修業の後、東京駅の新丸ビル内の蕎麦屋で料理長を経て
今年の初めに開店とHPに書いてある。
新丸の蕎麦屋は石月で、僕の知り合いも開店時には蕎麦職人で1年ほどいた。
そのことは亭主もよく憶えていたようで、彼とはその後も親交があるようだ。
僕の知り合いはその後、二店ほど蕎麦屋に入って、最近開店を希望していると亭主が
話してくれた。
昨年の始めの頃か、彼と会ったとき、時期が悪いから、まだ開店しないほうがいいと
アドバイスした記憶があるが、それからさらに状況は悪くなっている。

ばくれん、ほやの塩辛の名
         水晶梅鮫軟骨梅

新橋から歩いてもすぐのところ、また内幸町からだと2,3分です。
サラリーマンが沢山いて、蕎麦好きも多く、良い立地にあります。ただ、強豪も多く、
「本陣坊」グループがこのあたりは網を張って客をさらっていく。
少しはなれて「ときそば」もあって、客の頭をかけめぐるでしょう。

ばくれん、水晶梅、という変わった名の肴が目についた。
ばくれんとはほやの塩辛で、東北のほうではそう呼ぶらしい。水晶梅は鮫の軟骨の
梅和え、これはこりこりして、ぬる燗によく合いました。

筍煮は薄味で
      菜の花と海老掻揚げ

このところ、蕎麦屋もそうだが、飲食店の閉店が多く、それだけに空店舗が多いから、
家賃も下がっている。
短期間の閉店が多く、店も汚れが少なく、逆に考えると投資金額が少なくて、
良い時期かもしれない。
居抜き店舗はいまは買い手市場で、丹念に歩くとひろいものがある。

出し巻き
           微粉蕎麦がき

後は勇気と自信ですが、最大で、最重要ポイントは客がどんなものを求めているかを予感できて、それを与えられる技術があるかどうか。
それが欠けるとリスクが大きい。ごまかしが効かない時代にはいっている。
客はシビアで店をチェックするポイントを人生観で計り始めている。
蕎麦屋は特にそうで、客に生き方の選択までを試されてしまうから辛い。
だが、それは一方では生きがいのある仕事でもある。
こだわりという時代から、亭主の人生観をプレゼンテーションする時代がきている。

         二八せいろ

蕎麦は二八でこれは長らく修業した「利庵」と同じですが、利庵は田舎があったような
気がした。蕎麦はせいろ一本にして蕎麦前の肴の品揃えを多くしてある。

料理は内幸町を意識して背広組を十分に満足させるものがならんでいる。
まだ開店4ヶ月、店の形はもう出来ていて、どんな客が付くか、たのしみではあります。

港区西新橋1-11-8 03-3593-7171



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布屋 太兵衛・外伝-18  天才平賀源内が田沼を見限る

2011-05-08 10:41:08 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

この日、太兵は軍太郎に連れられて平賀源内の屋敷に来ていた。
源内は3日ほど前に長崎から帰ったばかりで、軍太郎を迎え上機嫌だった。
「軍さん、今日はご馳走させてもらうよ。宝の山を見つけたから、せいぜい吐き出さないと
罰があたるからね」源内は二人を居間に上げた。

「先生が長く江戸を留守されたんで亡くなられたと噂でもちきりでしたな」
「ありゃ、あたしが流したんだ。戯作なみに牢死したなんてな」源内が大笑いする。
それはあながち
冗談じゃなく、源内ならやりそうなことだった。
「これは、おいらの弟分で会津の反物屋の太兵どんといって、奥州にいる間に
随分世話になった
男で、若いが蕎麦打ちの名人です」軍太郎が廊下に控えていた太兵を招き入れた。

「そうかい、あたしゃ堅物専門で、食道楽じゃないから、こんど太兵さんには寝惚先生に引き合わせしよう
源内はこのところは田沼意次の依頼で日本の各地の鉱山採掘で忙しい。
そのことを堅物専門と冗談で言ったのだ。採掘事業は銅で、その銅から銀を取り出す技術を源内は普及させていた。

寝惚先生というのは別名は蜀山人と呼ばれる、狂歌で有名な太田南畝のことで、
源内が彼の狂歌本に寄稿して売り出しに一役買っていた。
「ほう、太兵さんとやら、あんたはいい顔をしてる。その相は頭を取ると出てるな」
「先生は相まで見る人で、太兵どんもいずれは天下一となる相だと」
「ありがたいことで」太兵も江戸の人気者からそうまで言われると嬉しい。

「老中はますます懐が潤ってるようだね。この先の相を占うとどうでやんすか」
軍太郎が熱燗を飲みながら言う。

「お、きたね早速、軍さん、何か魂胆があるね。
あたしゃ、老中のおかげで生きてるようなもんだが、次の相は大殺界と出てる」

源内は元々、高松藩に所属する。妹に婿をとらせて家督を譲って自由な身なのだが、
田沼の依頼で
鉱山開発や薬草事業を始めたときにひと悶着あった。
田沼が彼を召抱えたいと申し出たが、高松藩が譲らず、しかし、田沼に高松藩も逆らうことも出来ず、
いまは田沼家の客分の扱いで、田沼の事業依頼を受ける玉虫色の解決となっていた。

「御益(ごえき)を上げれば、あたしの懐に歩合が入ってくるわな、ばしゃばしゃと」
「あやかりたいね、エレキ先生に」
軍太郎は源内の渾名で言う。源内は自分では苔脅かしだという、
エレキテルを発明
し、そちらの名のほうが江戸では通っていた。

源内がいう“御益”というのは田沼政治の象徴で、利益至上主義で幕政を動かしてきていた。
“世に合うものは 山師、運上”と狂歌でいわれたように、運上は営業の租税で、
これと冥加金といわれた営業の権利金とが流行病のように普及した。

吉宗時代に成功した改革は米の増産と節約であったが、すでに年貢には徳川中期の時代から限界がきていて、
商業や貿易で田沼は財政黒字化の活路を見出していた。
だが、この運上金や冥加金は曖昧に運用されることがあり、利権を巡っては田沼邸に、おびただしい山師連中が押し寄せる。これが田沼賄賂政治と後に批判を浴びることになる。

「老中はやり過ぎかもしれんわさ。あたし以上の山師でござる」と源内も自嘲気味の溜息をつく。
「やり過ぎて不都合はありますか?」と軍太郎が誘い水。
「あたしのようなものばかりが世にのさばるようじゃ、お仕舞いよ」
「いえ、先生のような方がおられるから、世も潤うと」太兵が燗を勧める。
「まっつぐの世は、あたしらはあだ花よ。あだ花ばかりが咲いてりゃ、散りとてちんよ」

源内は田沼政治は終焉に向かっているという。今は大商家が田沼を潰さぬように動いてはいるが、
現実には江戸が栄え、金が溢れている。が、日の本の国中をみたら米が無い。
食べるものがないのに
国が栄えるわけがないという。
「あたしにしちゃ、まともなことをいったわさ。軍さんがいけないよ」

「田沼様は先生宅に来られますか」軍太郎が田沼の動向を聞く。源内ほどの天才人は
古今東西珍しく、彼の屋敷は発明品や物産名品、珍品で溢れていて、
さながら博物館のごとくで、来賓で溢れる日もある。
「老中はこのところ来ないが、若年寄が熱心にくる」

若年寄りとは意知のことである。意次から家督相続もせぬまま、33歳で異例の若年寄に昇進したから、
七光り殿と世間では言われていた。

「幕閣はすべて田沼の親戚か、田沼の息がかかってるよ、軍さん」
源内がぽつりと漏らす。膳が奥から運ばれてきた。

「どうだい、いま江戸一番といわれる八百善だわな。とっくり見てから喰ってくれ」
源内に言われて太兵が膳を見た。確かに惚れ惚れとするような料理が並んでいた。
江戸料理の
本膳を本格的な懐石料理に仕立てた八百善の料理は、
華麗で美味しく、絶妙な包丁技術でこのところ大流行であった。

そこからの出前でこの日は彼らを接待したのだ。二人は江戸一番の饗応を受けていた。

「なんと深い味で・・」蓮根饅頭の深蒸しを口に含んで、太兵が箸を落としそうになる。
「太兵さんとやらはやはり口の探りがいいな」源内が自分を誉められたように喜ぶ。
「七光り殿はこの料理が目当てでよくくるわな」
若年寄に成り立てだから、公然と八百善に
通うのが憚れるから源内の屋敷で楽しむのだそうだ。

「食道楽なんでしょうか」太兵が聞く。
「ありゃ、病気でな。料理もそうだが、女好きで、それなら吉原あたりにしとけばいいんだが」
「それでは、お素人さんがお相手でしょうか」太兵が踏み込む。
「あんさんも若いのに好きだね。それが半くろうとが好きでな。今は小唄の旦那持ちに入れあげてな。
一盗二婢三妾なんとかの三妾で、囲い女ときてるから始末が悪いわさ」

「天下の若年寄が惚れるようなお顔を見てみたいものです」太兵がにこりと笑う。
「若いもんには目の毒だわさ、柳町で小唄のわかさと言えば大概のものは知ってるわさ」
「おいらも小唄を習いに様子見したいもんだ」
軍太郎の一言で大笑いになって、料理に戻る。

帰りの玄関で、源内が軍太郎に声をかける。
「肥後殿はなかなかの人物と聞いたが、一つ伝えて欲しい」肥後殿とは会津藩主のことだ。
軍太郎が会津にいたことを知っていて、源内は彼らの動きをこの雑談の空気で推量していたのだ。
軍太郎が会津の命で動いていることは彼の勘が働いたのだろうが、
それにしても源内は
並みの人間ではないと太兵は恐ろしくなった。

「田沼は68歳じゃ、次期将軍の家斉は11歳。となると、意知を老中に据えて
田沼意次が院政を敷いて思うがままにしたいところだわさ。
家斉の実父の一橋の狸は焦ってるじゃろうて」

「次の手は白河藩の松平定信様と思うておりますが。なにせ一橋様と定信様と手を組むのは難問」
と軍太郎が源内の答えを引き出そうとする。

「あの狸と定信殿の面子を潰さずに会える手が一つある」
そういって、源内が軍太郎の耳にだけ何かを囁いた。
帰り道、太兵はすぐにこれから柳町に回ると、軍太郎に告げる。
「わが手の者が探っていた通りのことが源内様から聞けました」
太兵は小唄のわかさの家に探りに行くつもりだった。


「源内さんはもう田沼を見限ったな。もしかして、江戸の空気がそんなふうに
傾いている
のかもしれないな。
こりゃ、おそれ入谷の鬼子母神だわな」軍太郎が太兵にいう。

「あの耳打ちはどんなことでしたか」太兵が小声で聞く。
「明日、肥後様の屋敷でな。ところで、太兵どんの八百善の話は本気かい?」
軍太郎が念を押す。太兵はこの一件が落ち着いたら、八百善に使い走りでいいから、
台所方に
入れてもらおうと考えていた。
先ほど源内に頼んだのだ。それは麻布「布屋」開業に八百善の腕が生きることに
なるはずだった。

この日から一月後、意知は暗殺されることになる。


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祈念・手打茶寮  麻布  更科十割のひやかけの腰チカラ

2011-05-06 08:56:42 | 麻布・六本木・赤坂・白金周辺・千代田区



ルー君と久しぶりに蕎麦屋酒になる。
彼とは大田市場の鍋いらいだが、二人で呑むとなると、記憶が定かでないが
1年半ぶりくらいだろうか。
前は京都なども彼とはよく行ったものだ。
その話もビールを飲み始めたときに、あの頃はね、とすぐにそんな話になった。



彼から連絡が入ったときにすぐに「手打ち茶寮」の名前をだした。僕のほうは
亭主にお願い事があって行く用事があったのだが、
元々、彼も訪問したい店だったようだ。

菜の花おひたし

早くできるものと時間が掛かるものとが、メニューに明記されている。
すぐに用意できるものから、いたわさ、菜の花をいただいて、冷酒を2合徳利で
もらう。大概彼とは酒は同じ銘柄を2合注文する。

鯵なめろう、ネギや
紫蘇とで丹念にたたいてある、ネギの甘みが鯵にからむ

「仕事が少し減りました」
彼の仕事は広告関係で企業が落ち込むとすぐに影響がでる。
今回の仕事の減り方はいわば天災のようなものだから誰に文句もいいようがない。
とはいうものの、回り巡ってきた災難には愚痴の一つもでてしまう。

揚げ出し豆腐
背黒鰯胡麻酢

この日はそんな暗い話をやめてまた食べ物やら旅行の話に戻って、
大いに盛り上がることにした。
僕と彼とは親子ほど年が違うが、食べ物の話は年齢を越えるようだ。
特に蕎麦のことになるとこれは全く年齢差がなくなるから、蕎麦は不思議な食べ物だ。

蛍烏賊辛し酢

〆の蕎麦は彼は豊穣(発芽そば)と吟白(更科十割・水こね)の二種盛りで
吟穣二色。ぼくは豊穣と吟白の冷かけを半盛りでお願いした。
発芽蕎麦は前回までのものと比べると香りが大人しい感じだったが、
発芽独特の匂いがした。

                           発芽そば(豊穣


                      淡い透明感のあるひやかけ、更科(吟穣)のそば


更科十割のひやかけは初めて食べる。
腰がストンと立つような食感で面白い。冷汁に入ってしまうとかえって
こしにチカラがでるようだ。
つゆは昆布と鰹だけだというが、淡くてすっきりしたひや汁でした。
久しぶりに彼の話を聞いて、すがすがしい蕎麦屋酒になって、すっかり満足。
六本木の交差点近くまで行き、ベルギービールを二杯を飲み、
千鳥足で帰還しました。

港区西麻布1-15-9 03-6447-2308
12:00~16:00 18:00~22:00 前回の記事 定休・月曜



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布屋 太兵衛・外伝-17  欲にはもっと大きな欲を投げつける

2011-05-04 10:12:15 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

天明4年(1784年)、軍太郎は太兵と江戸に舞い戻っていた。太兵17歳のときである。
太兵は反物を商いに保科家の紹介で大名屋敷や旗本屋敷に出入りしていた。
保科家飯野藩1万7千石は保科正之が会津藩に移封されたとき、正之はそれまでに
彼が養子で育ててくれた恩顧に報いいるために名跡保科姓を復活させたものだ。
正之から3代目で会津藩は徳川の系譜の松平姓を名のることになる。

従って、飯野藩は会津藩とは親戚筋であり、正之時代はその配下のごとく動いてきた。
代々、大阪城を警護する大阪定番と江戸城門番を歴任してきていて、
お庭番とは別な任務を与えられていた。

外様大名の動向、天領地・旗本領地の代官の監視など、
正之が統括する諜報組織を補佐する役回りを
していた。

飯野藩は千葉・南総にあり、保科弾正忠はいつの時代も麻布の江戸別邸を住まいにしていた。

太兵は会津藩に近い者としてより、保科家に近い者として動くほうが便利だった。
保科家の名は
特に旗本の間では名跡で通り、
直轄地の裏監査役として知らぬ者はいなかった。

この半年の間で容頌に命令された田沼意次につながる者たちの情報を残らずに調べ上げていた。

太兵は後に麻布の高台付近に更科「布屋」を開業することになるが、
この調査経験が商いに
生きることになる。
麻布にどんな人間が集まるのか、どの程度の商いの規模を想定したらよいのかを、
この時に掴んでいたのかもしれない。

もっとも、蕎麦屋になれと容頌に言われるのはもっと後のことになる。
その理由も容頌から聞いたときには驚くようなことだった。
が、それは別な物語になる。

保科藩は南総領地の陣屋のほうを仮住まいのような形にして、
主要な幹部侍は大阪定番もあり、
全国に散らばる監視網を張るためにも
江戸別邸の上屋敷を拠点としていた。

それは常時江戸詰めを申し付かる、譜代大名に近い特別な扱いを、家光の時代から許されていた。

上屋敷は現代の麻布一の橋付近に所在していて、
ここは徳川の寺社増上寺の芝大門からあがってくる場所にあり、
伊達仙台藩の仙台坂通りを押さえる場所になっている。

譜代大名の上屋敷はほとんどが江戸城を囲むようにあり、外様の上屋敷の防壁になっていた。

東北の入り口で会津藩が伊達仙台藩を押さえ、江戸では飯野藩がその仙台藩上屋敷を
監視していた。

むろん、天明の時代には仙台藩の牙は抜け落ち、外様大名を含めて各藩一様に
財政難に陥り、幕府や
大商家から借財をするばかりの体たらくになっていた。
赤字財政の建て直しはどこも急務で、このころから藩同士の経済戦争が起きてくる。

もちろん、幕府も財政難で国中が赤字財政という未曾有の有様だった。

その中で商人に金が集まり、実践学者の天才平賀源内を囲い込んでいた、
田沼意次の周囲がわが世の春を謳歌していたともいえる。

「ほころびを二つほど作る。意次はそれで転がり落ちる」
それが会津藩主
容頌の狙いだった。

“山師”と呼ばれた。このころは田沼の側近に色々な献策をし、
その儲けから上前をはねる
人間たちのことをそう言った。
平賀源内しかり、その親分の本草学の権威で朝鮮人参の国産化を田沼と進めた田沼藍水しかりである。

田村藍水などは単なる町医者だったが、すぐに幕府医官で
200石を与えて取り立てた。

さらには印旛沼新田開発を献策した宮村孫座衛門もそうだった。
印旛沼をそっくり埋め立てて3900町歩(3900ヘクタール)の当時としては
眉唾ものの開拓事業だった。

若年寄に自らの子、意知を昇格させ、幕府の財政を一手に握る勘定奉行も自分の配下に置いていた。
ロシアの貿易のために蝦夷地の開墾もぶち上げた。
田沼意次自体が山師の親玉だった。

「軍太郎殿、貴殿は田沼のせがれ、意知を転ばせてください」
容頌がいう。

軍太郎と太兵は会津藩上屋敷に来ていた。
この頃は上屋敷は和田倉門の脇に9000坪を
越える敷地を有していた。
「なるほど、それでこのところ太兵どんが意知の身辺を洗っていたのか」
「意知がほころびそうな事情はこれにしたためました」
太兵がこれまで調査したものを
書状に書き留めてあった。

「軍太郎殿、意次の弱点は世子の意知でござる。短慮で女好き、
これまでは意次がもみ消して
きたが、ちょっと火をつければ爆発するでしょう」
「面白そうだけど、面倒な策になりそうだな」軍太郎が少し首を傾けた。
「軍太郎殿は手を下してはいけませぬ、仕掛けだけをお願いしたい。
手を汚すのは太兵の仕事です。もう一月もすれば太助も上ってくるはず」
容頌の言葉に軍太郎が頷いた。

「もうひとつのほころびはいかがなされる」軍太郎は
容頌に聞き返す。

「一橋でござる。一橋治済をこちらの側に寝がえさせる」
「そんなことができますか」軍太郎が驚く。
これまでことごとく田沼と手を組んで謀議を
図ってきた男ではないか。
松平定信を東北に追いやり、将軍の世子を毒殺し、自分の子を将軍の
養子にした男だった。
その
治済を味方に引き込むことなどできるのか

「欲に目がくらんだ男はもっと大きい欲をぶら下げれば、すぐに転びます。
使えるものは
今は敵であっても、使うのが上策というもの」
容頌が自信をもって軍太郎の目を見た。
この会津藩主は改めて並みの殿様ではないと軍太郎は見直した。


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メール・・
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やざわ  江戸川区役所前   せっせとブログを書かなくちゃ

2011-05-03 10:15:47 | 江戸川・江東・葛飾・新宿・大田区・足立区

先月の末、被災があって以来、蕎麦屋で初めて蕎麦前をやろうと、
5時半に「やざわ」の暖簾をくぐった。
まだもやもやしたものがあったのですが、戸を開けた。
開店したばかりで、カウンターに親父さんが座っていた。親父さんの顔をしっかりと
見たのは初めてで、だが彼は僕を見てすぐわかったようだった。



挨拶をしてすぐに親父さんがお礼を言う。
「おかげさまで何十年ぶりかに来てくれた人がいた」
それは僕のやざわのブログの記事がきっかけだったという。細かな話は忘れたが、
中学くらいの同級生だった方が、もしかしてと、僕のブログを頼りに訪問したようでした。

筍煮

被災時以降、何のためにブログ記事を書いているのか、考え込んで迷っていたし、
この時もそうだった。
「ありがたいね」そういって厨房に帰った。
50代半ばから蕎麦屋に転向しようと、同じ江戸川区松本の「藪」に研修に入って
きっと苦労しながら蕎麦打ちを勉強したのでしょう。
若女将からそのあたりの話は少しづつ聞いてはいた。
僕よりはいくつか年齢が上だが、溌剌としていてびっくりした。

のれそれ
雲丹

旬を告げる穴子の幼魚「のれそれ」も光っていた。ふっくらした雲丹はいい色に輝いていた。
何故か僕もかなり上機嫌になって、酔いで顔が真っ赤になっているのが自分でも
よくわかった。
                             おかめそば


初めて食べるおかめそばは蛤や小海老など、海のものが入っていて、これは
「海鮮おかめ」というようなもので、汁に蛤の汐の旨みが落ちていて美味しかった。
そうこうしていると、後ろが賑やかになって、商売が繁盛してきた。
「明日あたりから蕎麦屋酒やるよ」と若女将に告げた。
「そうよ、そうでなくちゃ、せっせとブログ書いてよ」と返って来た。
馴染みの店があってよかった、そう思った日でした。

やざわ 
江戸川区松島1-41-23  03-3651-5451
      11:30~14:30  17:30~22:00
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